第55話「ただいま、と言えない男」
玄関の前で、足が止まった。
築15年の一軒家。白い外壁は夜目にもわかるほど薄汚れ、雨樋の継ぎ目に苔が浮いている。
表札は「田中」
ポストには数日分のチラシが詰まっていた。ピザの宅配、不動産の査定、地域の清掃当番のお知らせ
見覚えのある光景。
しかし——ルークの手は、ドアノブに伸びなかった。
鍵はない。財布と一緒に、三年前のトラック事故で失われたはずだ。しかし田中家の玄関は、陽子が在宅している時は施錠しない。ルークの残業が常態化していた頃からの習慣だ。「いつ帰ってきてもいいように」と、陽子は言っていた。
だから、ドアは開く。ノブを回せば開く。
回せない。
手が動かないのではない。動かせないのでもない。ただ——回した先にあるものが、怖い。
文化人類学に「リエントリー・ショック」という概念がある。
海外に長期滞在した人間が母国に帰還した際に経験する、強烈な違和感と疎外感。カルチャーショックの逆、いわば「帰還ショック」だ。異国での生活に適応した脳が、母国の風景や習慣を「当たり前」として処理できなくなる現象。
特徴的なのは、その違和感が「異国にいた時」よりも深刻になりうるという点だ。異国にいる間は「自分はよそ者だ」という自覚がある。しかし母国に帰った時、周囲は自分を「戻ってきた身内」として扱う。その期待と、自分の内面に生じた変化との間に——埋めがたい溝が開く。
ルークの場合、それは比喩ではなかった。
文字通り「異世界」から帰ってきたのだ。三年間、魔法とゴーレムとドワーフと獣人に囲まれ、大陸規模の経済圏を設計し、戦争を回避し、数百人の人生を変えた。その経験を——玄関の向こうにいる妻と娘は、知らない。
知らないのが当然だ。この世界では、田中修は「トラック事故で体調を崩し、数日間行方不明だった窓際社員」でしかない。
玄関のドアを開けて「ただいま」と言った瞬間、自分は何者として迎えられるのか。
異世界の覇王か。
窓際の残業帰りの夫か。
どちらでもないのではないか——という恐怖が、ルークの足を縫い止めていた。
九月の夜風が首筋を撫でた。虫の声がする。コオロギだ。秋の声。
異世界の夜には、コオロギはいなかった。代わりに夜行性の光虫が宙を舞い、魔法の街灯が石畳を照らしていた。あの夜は、美しかった。
しかし——このコオロギの声も、美しい。
違う種類の美しさだ。作り込まれた異世界のインフラの美しさではなく、誰が設計したわけでもない、ただそこにある自然の音。
ルークは、玄関の前にしゃがみ込んだ。
みっともない姿だ。50歳手前の男が、自分の家の玄関の前でうずくまっている。近所の人に見られたらどう思われるか。「田中さんのご主人、また酔っぱらって」——きっとそう思われる。
しかし立てなかった。
異世界では立てた。どんな局面でも。ダイコクの10万の軍勢を前にしても、ヴォルフの300年の怨念を受け止めた時も、三大陸サミットの演説原稿を(アレスに代読させたが)書いた夜も。
しかし——自分の家の玄関の前では、膝が動かない。
三年間、蓋をしてきた。
「元の世界」のことを考えまいとしてきた。考え始めたら、あの安楽椅子の上で構築した「怠けるためのシステム」が、全部崩れると思ったから。陽子の顔を思い出したら。なみの声を思い出したら。あの半額弁当の味を思い出したら。
帰りたくなる。
帰りたくなったら、目の前の仕事に集中できなくなる。集中できなくなったら、判断を誤る。判断を誤ったら、誰かが不幸になる。だから——蓋をした。
しかし今、その蓋は吹き飛んでいる。コンビニの駐車場で泣いた時に。146円の発泡酒と一緒に。
そして今、ルークの前にあるのは、蓋の下にずっとあったもの。
田中修という男の、24年間の日常。
ドアノブを、回した。
リビングの明かりがついていた。
テレビがつけっぱなしになっている。深夜の通販番組。「今ならもう一つ!」というテンションの高いナレーションが、無人のリビングに響いている。
ソファに、陽子がいた。
パジャマにカーディガンを羽織った姿。膝の上にテレビのリモコン。首が傾いで、浅い寝息を立てている。テーブルの上にはマグカップが一つ。中身はたぶん、冷め切ったほうじ茶だろう。陽子は寝る前にほうじ茶を飲む。20年変わらない習慣だ。
変わっていない。
何も変わっていない。
三年前の——いや、この世界ではほんの数日前の——夜と、何も。
テレビのリモコンの置き方。カーディガンの色。マグカップの位置。ソファのクッションの凹み具合。すべてが、田中修の記憶通りだ。
ルークは玄関からリビングの入り口まで、五歩で来れるはずの距離を、三十秒かけて歩いた。足音を立てまいとして——というより、足がまともに上がらなくて。
リビングの入り口で立ち止まった。
ここから先に踏み込んだら、自分は「ルーク」ではなくなる。「修」に戻る。異世界の覇王が、窓際の残業帰りの夫に戻る。
戻れるのか。
三年間で変わってしまった自分が、このリビングに、このソファの横に、この女性の隣に——「違和感なく」収まれるのか。
リエントリー・ショック。帰還の衝撃。
異国から帰った人間が最も苦しむのは、「自分が変わったのに、世界が変わっていない」という現実だ。周囲は以前と同じように接してくる。同じ言葉、同じ表情、同じ日常。しかし自分の中では、何かが決定的にずれている。
そのずれを——誰にも説明できない。
ルークは息を吸った。
「ただいま」と言おうとした。
声が——出なかった。
喉が詰まったのではない。音が出ないのでもない。ただ、「ただいま」という二文字の重さが、舌の上で膨らんで、口から出る前に溢れ返ってしまうのだ。
異世界では。
何百人の前で指示を出し、外交の席で弁を振るい、ダイコクの威圧にも、ヴォルフの慟哭にも、言葉で応じてきた。言葉は田中修の最大の武器だった。論理。分析。説得。すべてを言葉で構築し、言葉で制御してきた。
しかし——「ただいま」が、言えない。
この二文字には論理がない。分析もない。説得もない。ただ、帰ってきたという事実と、帰ってこれた安堵と、帰ってきてしまった罪悪感と、帰りたかったという本音が——全部混ざっている。
それを声にする技術を、ルークは持っていなかった。
陽子が身じろぎした。
カーディガンの裾が滑り、リモコンが膝から落ちそうになる。ルークが反射的に手を伸ばし——届かなかった。距離がある。リビングの入り口からソファまで、あと三歩。
リモコンはクッションの上に落ちて、音もなく収まった。
その微かな振動で——陽子の目が、薄く開いた。
焦点の合わない目がリビングを泳ぎ、入り口に立つ男の影を捉える。
数秒。陽子のまばたきが二回。
「……あら」
寝ぼけた声。日常の延長線上にある、何の構えもない声。
「おかえり。残業?」
五文字だった。
おかえり。残業?
疑問でも、詰問でも、心配でもない。ただの——日常だった。
何千回と繰り返された、夫の帰宅を迎える妻の五文字。「おかえり」と「残業?」の間にある一拍の間は、田中家の二十年の歴史がそのまま圧縮されている。
若い頃は「おかえり、ご飯温める?」だった。なみが生まれてからは「おかえり、静かにしてね、なみが寝たとこ」に変わった。なみが大きくなると「おかえり」だけになり、やがて「残業?」が追加された。
その変遷の中で、一度も変わらなかったのは——「おかえり」の三文字が、必ず最初に来ることだ。
どんなに遅く帰っても。どんなに不機嫌な夜でも。
おかえり。
その三文字が、先に来る。
ルークの目が、潤んだ。
泣いたのではない。涙がこぼれたのでもない。ただ——目の奥が熱くなり、視界がわずかに歪んだ。蛍光灯の光が、星のように滲んだ。
「…………ああ」
声が出た。
「ただいま」ではなかった。ただの、意味のない一音。しかし——声は出た。
陽子はそれ以上何も聞かなかった。「ん」と小さく頷いて、またソファに沈み込んだ。目を閉じかけて、薄目のまま言った。
「ごはん、チンして食べて。冷蔵庫の二段目」
それだけ言って、陽子は再び寝息を立て始めた。
ルークはリビングの入り口に立ったまま、ソファの妻を見ていた。
数日分のチラシがポストに溜まり、テレビがつけっぱなしで、冷蔵庫の二段目に夫の分の夕飯が入っている。この世界の陽子にとっては、夫が体調不良で数日休んだ後の、ごく普通の夜だ。
ごく普通の——何でもない夜。
その「何でもなさ」が、ルークには眩しかった。
三年間。大陸を統合し、戦争を回避し、数百人の人生を変えた三年間よりも——この「おかえり、残業?」の五文字のほうが、田中修の魂に深く届いた。
ルークは靴を脱ぎ、リビングに入った。三歩でソファの横に来る。
陽子にカーディガンをかけ直した。テレビのリモコンを拾い、音量を下げた。マグカップを持ってキッチンに行き、中身を流しに捨て、軽くすすいで水切りに置いた。
冷蔵庫を開けた。二段目に、ラップをかけた皿。肉じゃがだった。
レンジで温め、一人で食卓についた。
箸を手に取る。木の箸。割り箸ではない、使い込まれた塗り箸。この箸の手触りを、ルークの指は正確に覚えていた。
肉じゃがを口に運んだ。
じゃがいもは少し煮崩れている。味付けは——いつも通りだった。二十年前から変わらない、陽子の肉じゃが。特別に美味いわけではない。しかし、これが田中修の家の味だ。
ルークは、静かに食べた。
一口ごとに、「ルーク」が薄くなり、「修」が濃くなっていくのを感じた。異世界のコーヒーの苦味が、肉じゃがの甘い醤油味に上書きされていく。
食べ終えて、皿を洗い、食卓を拭いた。
リビングに戻ると、陽子はまだソファで眠っている。テレビは通販番組からニュースに変わっていた。アナウンサーが明日の天気を読み上げている。
「関東地方は晴れ、最高気温27度——」
ルークはテレビを消した。
リモコンをテーブルに置き、ソファの横に膝をついた。
陽子の寝顔を、近くで見た。
目尻の皺が増えた——いや、この世界では数日しか経っていない。増えたのではなく、ルークが覚えていなかっただけだ。二十年間、毎日見ていたはずの顔の細部を、いつの間にか忘れていた。
「…………」
ルークは何も言わず、立ち上がった。
毛布を持ってきて陽子にかけ、リビングの電気を消し、自分は二階の寝室には行かず——台所の椅子に座って、暗闘のなか、天井を見上げた。
あの天井。
安楽椅子に浮かんだ映像と、寸分違わぬ天井。蛍光灯のカバーの虫の影。左上の雨漏り染み。壁際の罅。
見上げながら、ルークは思った。
ただいま——と
声には出さなかった。出す必要はなかった。
陽子はもう「おかえり」と言ってくれた。
それで十分だった。




