第29話「排出率の壁と、激辛カレー炊き出し機」
サン・アンド荒野に突如として現れた、プレハブ型の真新しい執務室。
その内部で、ルークは頭を抱えながら机上の羊皮紙(帳簿)と睨み合っていた。
「……計算が合わない。いや、計算自体は完璧に合っているからこそ、頭が痛いんだ」
ルークのペンが、トントンと苛立たしげに机を叩く。
先日、隣の領地の重税から逃れてきた流浪民三十名を「完全週休二日・残業なし」という異世界の常識を覆すホワイトな労働条件で雇用したことは、労働力の確保という点では大成功だった。彼らは涙を流して感謝し、ガチャで排出された『全自動・石畳舗装ゴーレム』のメンテナンス係として、異常なまでのモチベーションで働いてくれている。
だが、人が増えれば当然、それに比例して跳ね上がるコストがある。
――「食費」である。
荒野には文字通り何もない。これまではルーク、アリス、ザックの三人分だったため、備蓄の携帯食料や近隣のオアシスで細々と狩猟採集をするだけで事足りていた。しかし、三十人以上の屈強な大人たちの胃袋を満たすとなれば話は別だ。
ザックが荒野の盗賊たちから「合法的に差し押さえ」てきた活動資金(銀貨)のほとんどは、今や彼らの食料を遠方の街から買い付けるための輸入費用として飛ぶように消えていた。
「このままでは、二週間後には資金が底をつく。食料の配給が止まれば、彼らのモチベーションは低下し、不満が爆発し、ストライキが起きる。……そうなれば、私が直接クレーム対応と暴動鎮圧の矢面に立たされるという、最悪の『残業』が確定してしまう!」
ルークは血走った目で立ち上がり、プレハブの隅に鎮座しているあのポンコツ遺物――『古代のガチャ円筒』の前に立った。
「自力で農地を開拓する時間はない。外部からの輸入に頼れば輸送コストで首が絞まる。ならば、インフラ自体をこのガチャから直接引き当てるしかない!」
ルークの狙いは明確だった。
かつてギルドのマニュアルで読んだことがある古代遺物の伝承の中に記されていた、『【SR】:自給自足型・魔法農地』。これさえ引ければ、種を蒔くだけで翌日には小麦や野菜が収穫できるというチート設備が手に入り、食料問題は根本から解決する。
ルークは、ザックがかき集めてきたなけなしの銀貨の山を両手で掬い上げ、スリットへと次々に投入した。
チャリン、チャリンという無機質な音が、ルークの心拍数を否応なく高めていく。前世で、確率の壁に挑み、ボーナスをつぎ込んだあのヒリヒリとした焦燥感が蘇る。
「頼む……! 私の安眠と、領民の平穏のために! 出てくれ、SR!!」
ルークは渾身の力を込めて、重い鉄のハンドルを回した。
ガリガリッ、ガコン!
円筒の下部から、コロンと一つのカプセルが転がり出た。
ルークは息を呑み、それが七色の光を放つことを祈った。
しかし――。
転がり出てきたカプセルは、光の欠片すら宿していない、くすんだ鈍色の金属塊だった。
「…………ッ!!」
ルークは声にならない絶望の叫びを上げた。
【N】。いわゆる、大ハズレである。
「ちっ……排出率の壁は、異世界でも残酷なまでに渋いというのか……!」
ルークは震える手でカプセルを割った。中から出てきた小さな羊皮紙には、こう書かれていた。
『【N】:謎の香辛料が無限に出る炊き出し大鍋』
「……は?」
ルークが羊皮紙を読んだ瞬間、ボンッ!という軽い破裂音とともに、プレハブの外の空き地に、黒光りする巨大な鉄鍋が出現した。直径は優に二メートルを超え、下部には魔法の火を焚くための竈が一体化している。
しかし、出てくるのは「謎の香辛料」だけだ。肉も野菜も出てこない。これでは根本的な食料不足の解決にはならない。
「ただのデカい鍋じゃないか……。ハズレにも程がある」
ルークはため息をついたが、せっかく出した設備を放置するわけにもいかない。彼はザックに指示を出し、倉庫に残っていた安いクズ肉と、干からびかけた野菜の切れ端をありったけ鍋に放り込み、水を満たして竈に火を点けさせた。
コトコトと煮込み始めて数十分後。
突如として、鍋の底からドロリとした茶褐色のペーストが湧き出し、お湯と混ざり合い始めた。
それと同時に、強烈な匂いが立ち込めた。
「こ、これは……ッ!?」
ルークは思わず鼻をひくつかせた。
クミン、コリアンダー、ターメリック、そしてカルダモンとチリの刺激的な香り。ファンタジー世界の淡白な塩味のシチューとは全く違う、何十種類ものスパイスが複雑に絡み合った、重厚で暴力的なまでの「旨味の暴力」。
前世の日本の街角で、あるいは徹夜明けのオフィス街で幾度となく嗅いだ、あの香り。
「カレーじゃないか……! しかも、とんでもなく本格的なスパイスカレーの匂いだ!」
ルークは備え付けの巨大なお玉でドロドロの液体を掬い、スプーンで一口味見をした。
「……カッ!! 辛ッ!!」
舌を焼くような強烈な辛味が脳天を突き抜ける。しかし、ただ辛いだけではない。安いクズ肉と野菜の旨味をスパイスが極限まで引き出し、強烈な中毒性を持って味蕾を刺激してくる。ジャンクでありながら、圧倒的な完成度だった。
しかし、その香りの強さが、荒野において思わぬ事態を引き起こすこととなった。
ズシン……ズシン……。
地響きのような音が、プレハブの壁を揺らした。
「ル、ルーク様ァァッ!! 緊急事態です!!」
見張り台に立っていたザックが、顔を真っ青にして飛び込んできた。
「東の岩山の方角から、巨大な魔物の群れが接近中! 数はおよそ五十! あれは……荒野の死神と呼ばれる『牙狼族』です!!」
「牙狼族だと!?」
ルークが窓から外を覗くと、砂埃を上げて猛進してくる巨大な影の群れが見えた。
身長二メートルを超える筋骨隆々の肉体に、狼の頭部と鋭い爪を持つ獣人たちだ。彼らは縄張り意識が異常に強く、一度目をつけられた獲物は骨すら残らないと恐れられている、この荒野の絶対的な捕食者だった。
「ルーク殿! 出番ですね!」
背後から、白銀の鎧をガシャガシャと鳴らしながら、アリスが進み出た。その青い瞳は、獲物を見つけた猛禽類のようにギラギラと輝いている。
「未登録の不法侵入者五十名! 当自治領のコンプライアンス(治安維持)を脅かす重大な脅威です! CEOである私自ら、単騎で奴らの群れに突撃し、一人残らず物理的に『解雇』してまいります!!」
アリスが聖剣をズバァン!と抜き放ち、プレハブの扉を蹴り破ろうとする。
「待てェェェ!! 早まるなアリス!!」
ルークは死に物狂いでアリスの腰にタックルし、その動きを止めた。
「総督!? なぜお止めになるのです!」
「バカヤロウ! あの巨体の獣人五十匹とここでお前が大立ち回りを演じたら、せっかく建てたこのプレハブ執務室や、舗装したばかりの石畳が粉々に砕け散るだろうが! 建物の修繕費や再建にかかる私の残業時間を考えろ!!」
ルークは悲痛な叫びを上げた。戦闘による被害は、すべて「予算の圧迫」と「復旧作業という名の仕事」となって彼に跳ね返ってくるのだ。
「し、しかし、相手は凶暴な人食いの獣人ですよ! 話し合いが通じる相手では……」
「よく見ろ! 奴らの顔を!」
ルークが指差す先。
防壁の前に到達した牙狼族たちは、今にも襲いかかってきそうな凶悪な顔つきをしてはいたが……その鼻はヒクヒクと激しく動き、口の端からは滝のようなヨダレがダラダラと滴り落ちていた。
「あれは『殺意』じゃない。『食欲』だ」
ルークは完全に事態を把握した。
彼らは街を襲いに来たのではない。荒野の風に乗って遠くまで漂った、あの強烈な「カレーの匂い」に誘き寄せられて、本能のままに走ってきただけなのだ。
ルークは急いでザックに指示を出し、煮えたぎるカレーの大鍋ごと台車に乗せ、防壁の門のギリギリまで押し出させた。
「ルーク様、危険です! 食い殺されますよ!」
「大丈夫だ。交渉の基本は、相手の『真のニーズ』を的確に満たすことだ」
ルークは、鍋から立ち昇る熱気とスパイスの香りの前に立ち、牙狼族の群れと対峙した。
群れの先頭に立つ、一際巨大で傷だらけの族長が、唸り声を上げながらルークを睨み下ろす。
「グルルル……人間よ。その黒い鉄の器から、我らの本能を狂わせる恐ろしい匂いがする……。それは、一体なんだ……?」
族長の声は重低音で響き、威圧感に満ちていた。しかし、その目線はルークではなく、完全に鍋の中の茶色い液体に釘付けになっている。
「えー、当自治領へようこそ。これは『カレー』という、当街特製の栄養食です。腹が減っているなら、味見してみますか?」
ルークは冷静に木の器にカレーをなみなみと注ぎ、族長の前に差し出した。
族長は警戒しながらも、その暴力的な香りに抗えず、太い指で器を受け取ると、一気にその液体を口の中へと流し込んだ。
「…………ッ!!?」
族長の全身の毛が、ブワッ!と逆立った。
「カッ!! な、なんだこれはァァッ!!」
族長が天を仰ぎ、咆哮する。アリスが「やはり毒でしたか!」と剣を構えそうになるのを、ルークは手で制した。
「口の中が……火のように熱い! 舌を焼くような強烈な刺激! だが……だが、止まらない! この謎のドロドロした食べ物、我らの闘争本能の奥底を激しく刺激してきおる!!」
族長は、辛さのあまり大粒の涙と汗をボロボロと流しながら、それでも狂ったように器の底を舐め回していた。荒野の単調な塩味や生肉しか知らなかった彼らにとって、何十種類ものスパイスが織りなすカレーの旨味は、オーバードーズを引き起こすほどの「合法的な秘薬」であった。
「……うおおおん! 族長だけズルいぞ! 俺たちにも食わせろォ!」
後ろに控えていた五十人の獣人たちが、たまらずルークの前に殺到した。
ルークはニヤリと笑い、お玉を掲げた。
「おっと、ここから先はタダではない。……商談の時間だ」
ルークは、カレーのお玉を持ったまま、最強の獣人部隊に対して冷徹なビジネス条件を突きつけた。
「総督とやら! この『刺激の秘薬』を毎日食わせてもらえるなら、我々牙狼族五十名、あんたの街の警備でも、岩山の採掘でも、なんだってやってやる! だから、その鍋の残りを俺たちにくれェ!!」
「……よし、契約成立だ」
ルークは懐から羊皮紙を取り出し、素早く条件を書き留めた。
「三食カレー付き(現物支給)、住み込みの寮完備。その代わり、お前たちには当自治領の『正規防衛隊』として、外敵の排除と重労働を担ってもらう。……異存はないな?」
「乗ったァァァ!! カレー! カレーを寄越せェ!!」
歓喜の咆哮とともに、凶悪な牙狼族の群れは、完全にルークの麾下へと下った。
「……信じられません」
アリスが、カレー鍋に群がって涙を流しながら鍋底を舐め回す獣人たちを見て、呆然と呟いた。
「たった一杯のスープで、あの誇り高き牙狼族を完全に手懐けるなんて……! 血を一滴も流さず、戦力と労働力を同時に確保する……ルーク殿の『平和的交渉術』、まさに神業です!」
(いや、ただ施設を壊されたくなかっただけだし、食費(カレーの具材)は結局かかるんだが……まあ、こいつらを防衛隊にすれば、私の警備の仕事は完全にゼロになるな)
ルークは安堵の息を吐きながら、空になった大鍋を見つめた。
排出率の壁に阻まれて引いた「ハズレ」の炊き出し機。しかし、それは結果として、この街に強靭な武力と、新たな領民をもたらす最強のアイテムとなったのである。
「さて……カレーの具材になるクズ肉を、こいつらに狩ってきてもらうとするか。これで食料問題も一部解決だ」
事なかれ主義のおっさんは、額の汗を拭いながら、今日も見事に自分が働くことなく街を急速に発展させていくのであった。。




