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第98話「信用通貨の理論——時間では測れないもの」

ムーリア滞在十二日目。


ナオの珊瑚彫画が広場に並んだ日から、四日が経っていた。


エルダの提案で、広場の一角にナオの作品七点が展示された。珊瑚の魚「ナギ」と同じ系統の小品から、海底風景の彫画まで。コンラートは反対しなかった。「時間台帳に載らない行為」を公の場で見せることに、彼の中で何かが動いたのかもしれない。


展示の前に立ち止まる住民が、日ごとに増えていた。


最初は通りすがりにちらりと見るだけだった。二日目に、一人の中年女性が彫画の前で足を止め、五分間動かなかった。三日目に、子どもが三人来て、珊瑚の魚を指さして何か言い合っていた。ザックの報告によれば、あの子どもたちは「笑っていた」。


四日目——今朝。展示の前に、十二人が集まっていた。誰も何も言わなかったが、全員がナオの作品を見つめていた。その十二人の顔は——わずかに、しかし確かに、八日前にザックが見た「同じ顔」とは違っていた。


ルークはその光景を遠くから見て、コーヒーの代わりの海藻茶を一口飲み——覚悟を決めた。


コンラートに会いに行く。


* * *


コンラートの部屋。珊瑚の壁に刻まれた時間台帳の詳細記録。十年分の数字。ルークはその壁を背にして座り、コンラートと向かい合った。


ユイが筆談の通訳として中央に座る。ザックは記録係。ギムリは今回も入口で腕を組んでいた。


「コンラート。今日は提案がある。——ムーリアの通貨制度について」


コンラートの筆が、静かに動いた。


「『聞きましょう』」


「その前に、一つ確認させてくれ。ムーリアの時間通貨が抱えている問題を、数字で整理する。——ザック」


「はい」


ザックが羊皮紙を広げた。第三十六版。数字だけを抜き出した分析報告。


「ムーリア人口八百名。うち労働参加者約五百名、非参加者約三百名。十年前の参加率は約八十五%、現在は62.5%。年間約二%の割合で参加率が低下。このペースが続けば、二十年後に参加率は約22%まで落ちます」


「漁獲量は十年前の七割。一人当たり生産性は横ばいですが、参加者数の減少に伴い総生産量が低下。食料の自給率は現在約九十%。二十年後の推計では約六十%。水泡膜の維持に必要な魔力珊瑚の培養も、担い手不足で年間生産量が五年前の八割に低下」


ザックが数字を読み上げるたびに、コンラートの表情は変わらなかった。全て知っている数字だった。毎日、壁の記録を見ている男だ。


「ルーク殿の分析を補足します」ザックが続けた。「時間通貨の根本的な問題は、この構造にあります」


ザックが図を描いた。簡単な循環図。


「一時間の労働が一時間分の信用を生む。信用で市場から物を得る。物を消費する。また働く。この循環は閉じています。——問題は、循環の外に出口がないことです。信用は貯蓄できますが、投資できません。貯蓄した信用で何かを増やすことができない。だから経済は拡大も縮小も——いえ、正確には縮小だけします。参加者が減れば、循環する総量が減り、全体が萎んでいく」


コンラートが書いた。


「『知っています。——だから私は「現状維持」を選んでいるのです。拡大はできない。縮小を遅らせることだけが、私にできる仕事です』」


「遅らせるだけでは——」


「ザック」ルークが止めた。「数字の報告は以上だ。——ここからは俺が話す」


ザックが口を閉じ、ペンを構えた。


ルークはコンラートの目を見た。


「コンラート。お前の仕組みは、三千年間この都市を守ってきた。その功績は否定しない。だが——守り続けた結果、都市が内側から壊れている。お前自身が一番よく知っているはずだ」


「『……ええ』」


「俺が提案するのは、時間通貨の廃止ではない。時間通貨の横に——もう一つの通貨を置くことだ」


「『もう一つの通貨?』」


「信用通貨と呼んでいる。——時間ではなく、成果に基づく通貨だ。ただし、成果の定義が重要になる。成果とは『誰かの役に立ったかどうか』だ。数値化できるものだけではない。ナオの珊瑚細工のように、人の心を動かしたものも含む」


コンラートの筆が止まった。


「『成果の評価は——誰がするのですか』」


「受け取った人間がする。魚を受け取った人が『この魚は良い魚だ』と思えば、信用を多く払う。珊瑚細工を見て心が動いた人が、自分の信用から対価を渡す。——つまり、評価は市場が行う。全員の『良い』の総和が、その人の信用になる」


「『それは——格差を生みます』」


「生む。だが——ナオに聞いてみろ。あの子は格差を恐れているか? 自分の作品に誰かが『良い』と言ってくれることを、あの子は待っている。等しく扱われることではなく、自分の仕事が認められることを求めている。——結果の平等ではなく、機会の平等。全員が同じスタートラインに立てること。走った先でどこに着くかは、一人一人が違っていい」


コンラートは長い間、何も書かなかった。


やがて、一行だけ書いた。


「『——全員を、同時に変えることはできません』」


「同時に変えなくていい。小さく始める。試験区域を一つ作り、そこだけで新しい仕組みを試す。うまくいけば広げる。うまくいかなければ戻す。——品質管理の基本だ。大きな変更はしない。小さく試して、検証して、改善する」


コンラートの目が、ルークの目を捉えた。


「『試験区域を——どこに』」


「外縁部。不労者の居住区だ。三百人のうち、希望者だけを対象にする。強制はしない」


長い沈黙の後、コンラートが書いた。


「『——三十日間。三十日間だけ、試させてください。結果を見て判断します』」


「充分だ」

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