第97話「ザックの違和感」
ムーリア滞在八日目の夜。割り当てられた珊瑚の部屋で、羊皮紙を広げて、ペンを持ったまま、もう一時間が経っていた。報告書の日付と天候欄だけ書いて、止まっている。天候は「不明(海底のため)」。もう八日間同じことを書いている。
書けない理由は、言葉が見つからないからだ。
数字なら書ける。人口八百人、労働参加率62.5%、時間台帳の項目数十七、漁獲量は十年前の七割、水泡膜の魔力残量は推定二十年分。全部記録した。ルーク殿が求めるのは数字だ。数字を集めて、整理して、並べる。それが俺の仕事だ。
でも、今書きたいのは数字じゃない。
数字にできないものが、胸の中でずっと引っかかっている。
* * *
気づいたのは、五日目だった。
朝——朝という概念がムーリアにあるかどうかは微妙だが、水泡内の光量が少し上がる時間帯を、便宜上「朝」と呼んでいる——目が覚めて、部屋を出て、中央広場を横切った。市場が開いていた。人々が食材を手に取り、持ち帰っていく。いつもの光景。
そこで、気づいた。
全員が、同じ服を着ている。
いや——これは初日から知っていた。ムーリアの住民は全員、海藻を編んだ薄い布を身に着けている。形状は統一されていて、上下に分かれた簡素なもの。色は薄い緑。装飾はない。全員が同じ。
知っていた。知っていたのに、五日目にして初めて「見えた」。
同じ服。同じ食事。市場に並ぶのは海藻、貝、干し魚、海藻茶。毎日同じ品目。量も同じ。味付けも同じ。塩味のみ。
同じ住居。外縁部の荒れた区画を除けば、全ての家が同じ大きさ、同じ構造、同じ素材で建てられている。窓の位置も同じ。入口の向きも同じ。
同じ。全部同じ。
不満を言う人は——いなかった。
八日間、一度も聞いていない。愚痴も、怒りも、嘆きも。誰一人として、「もっとこうだったらいいのに」と言わない。
しかし——
笑っている人も、いなかった。
* * *
六日目。市場の脇で、二人の男が会話しているのを見た。
年齢は三十代くらい。片方が魚を選び、もう片方がそれを見ている。言葉を交わしている。筆談ではなく、声で。意味はわからなかったが、トーンは聞き取れた。
平坦だった。
声の抑揚がない。感情の起伏がない。報告と確認だけの、業務連絡のような会話。魚を選ぶ動作も、歩く速度も、視線の動かし方も、全てが——均一だった。
サンアンド領の市場を思い出した。マルタの食堂の前で、漁師が今朝の大漁を自慢している。隣の八百屋が「うちのカブの方が上だ」と張り合っている。子どもが走り回り、犬が吠え、誰かが笑い、誰かが怒鳴る。騒がしくて、汚くて、非効率で——活きている。
ムーリアは、静かだった。
静かすぎた。
七日目。培養施設を見学した時、作業員の手元を観察した。魔力珊瑚を一本ずつ並べる作業。単純な反復。作業員は三人。全員が同じ速度で、同じ間隔で、同じ角度で珊瑚を置いていた。
機械みたいだ、と思った。
いや——機械の方がまだ個体差がある。ルーク殿が前の世界で言っていた。「同じ型番の機械でも、一台ずつ癖がある。その癖を見抜くのが品質管理だ」と。
ムーリアの人々には、癖がなかった。
全員が同じリズムで動き、同じ表情で立ち、同じ声量で話し、同じ速度で歩く。個体差がゼロに収束している。三千年かけて、均一化が極限まで進んだ社会。
平等。完全な平等。
これが——平等の、完成形か。
* * *
八日目の夕方。
俺はルーク殿のところに行った。
ルーク殿は水泡膜の近く、いつもの場所に座っていた。海藻茶を飲んでいる。不味そうな顔をしている。八日間コーヒーを飲んでいない人間の顔だ。
「ルーク殿」
「どうした」
「報告書が——書けないっす」
「書けない? 数字が足りないか」
「数字は足りてます。足りてないのは——言葉っす」
ルーク殿が海藻茶から目を上げた。俺の顔を見た。
「座れ」
隣に座った。水泡膜の向こうで、発光魚がゆっくり泳いでいる。青い光が、膜を通して顔に落ちる。
「この街の人——みんな同じ顔してるんす」
「同じ顔?」
「顔っていうか——表情っす。笑わない。怒らない。泣かない。全員が同じ表情で、同じように動いて、同じように話す。八日間見てきて——怖いっす。俺、怖いっす、ルーク殿」
ルーク殿は黙っていた。海藻茶の湯気が、水泡の空気に溶けていく。
「俺、昔チンピラだったっす。路上で寝て、ゴミを漁って、名前を呼ばれることもなかった。でも——あの頃の方が、まだ人間だった。殴られれば痛い。腹が減れば怒る。仲間が笑えば嬉しい。——感情があった。ここの人たちには——それがない気がするんす」
「ないんじゃない。——消えたんだ」
ルーク殿の声は静かだった。
「感情は差異から生まれる。嬉しいのは悲しいを知っているから。美味いのは不味いを知っているから。全てが同じなら、比較が消える。比較が消えれば感情が消える。——三千年かけて、この都市は感情ごと均一化したんだ」
「それは——良いことなんすか」
「良いか悪いかは、立場による。コンラートに聞けば『争いがない社会は良い社会だ』と言うだろう。不満がない。嫉妬がない。憎悪がない。——しかし、喜びもない。感動もない。笑いもない」
「ルーク殿。俺——思うんすけど」
「言え」
「サンアンド領がブラックだった時、人は壊れてました。働きすぎて、搾取されて、名前を奪われて。ルーク殿がそれを変えた。定時退社と有給休暇で、人が人に戻った。——でも、ここは逆っす。平等すぎて、全員が同じになって、人が——人じゃなくなってる」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。こんなに整理された言葉が、俺の口から出るとは思わなかった。三年間、ルーク殿の隣で報告書を書き続けた成果か。言語化する訓練が、知らないうちに身についていたらしい。
ルーク殿が俺を見た。
「ザック。お前がシャングリアの鍵盤施設で子どもたちに名前をつけた時のことを覚えているか」
「忘れるわけないっす」
「あの時、お前は番号で呼ばれる子どもたちに怒った。『番号じゃなかった。俺はチンピラだったが、番号じゃなかった』と言った」
「……はい」
「ここでも同じことが起きている。番号は使っていない。名前はある。しかし——名前に意味がない。全員が同じ服を着て、同じ食事をして、同じ部屋で暮らしていたら、名前が違っても同じだ。名前が個人を識別する記号に過ぎなくなる。シャングリアは番号で人間性を奪った。ムーリアは均一化で人間性を溶かした。やり方は違うが——結果は似ている」
俺は膝の上で拳を握った。
「ルーク殿。俺にできることはありますか」
「ある。——報告書を書け」
「報告書……?」
「お前が感じたことを、そのまま書け。数字じゃなくていい。『怖い』と感じたなら、『怖い』と書け。『同じ顔に見える』なら、そう書け。それは——数字では拾えない品質情報だ。現場の空気を記録できるのは、現場を歩いた人間だけだ」
「でも——報告書に感情を書いていいんすか。ルーク殿はいつも『事実を書け、所感は最後に一行だけ』って」
「今回は例外だ。——いや、例外じゃない。お前の感じた違和感は事実だ。目に見えない事実を書く。それも品質管理だ」
俺は——泣きそうになった。泣かなかったが。チンピラ上がりの品質管理補佐が、報告書で泣くわけにはいかない。
「わかりました。——書きます。第三十三版、書きます」
「頼む」
* * *
部屋に戻って、ペンを取った。
今度は止まらなかった。
【品質管理補佐報告書 第三十三版】
日付:ムーリア滞在第八日目 作成者:ザック・ヴァレンハイト 件名:ムーリア都市環境に関する定性評価
一、服装の均一性について。全住民が同一の海藻布を着用。色、形状、サイズに個体差なし。
二、食事の均一性について。市場の品目は海藻、貝、干し魚、海藻茶の四種のみ。八日間変化なし。味付けは塩のみ。
三、住居の均一性について。外縁部を除き、全住居が同一規格。窓の位置、入口の向き、部屋の広さに差異なし。
四、表情の均一性について。八日間の観察で、笑顔を確認した回数——ゼロ。泣き顔を確認した回数——ゼロ。怒りの表情を確認した回数——ゼロ。表情の変化が確認されたのは、ナオ殿(珊瑚細工師)のみ。
五、音環境について。声量が全住民でほぼ一定。大声を出す者がいない。笑い声がない。歌がない。子どもの叫び声がない。
六、所感。
この都市は壊れている。
ここは平等すぎで壊れている。全員が同じであることが、一人一人の顔を消している。
俺はチンピラだった。字も読めなかった。名前に価値なんかなかった。でも——俺は俺だった。殴られても俺だったし、腹が減っても俺だった。ルーク殿に拾われて、字を覚えて、報告書を書けるようになって——もっと俺になった。
ここの人たちは、「みんな」ではあるが、「誰か」ではない。
俺は、怖い。
以上。
書き終えて、インクが乾くのを待った。
読み返した。文章は下手だ。論理も甘い
でも——嘘はない。
これが、俺の見たムーリアだ。
ペンを置いて、床に寝転がった。珊瑚の天井。ひびもないし染みもない。均一な灰白色。サンアンド領の宿の天井は、木の節があって、雨漏りの跡があって、蜘蛛の巣が張っていた。
あの天井の方が、好きだ。
明日、ルーク殿に報告書を渡す。
それから——ナオのところに行こう。あの子は笑う。珊瑚を削っている時、小さく笑う。八日間で俺が見た、ムーリアで唯一の笑顔だ。
あの笑顔を、もう一度見たい。
それが——俺がこの街で見つけた、たった一つの「ここにいる理由」だ。




