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21. 無駄じゃなかった

 調印式が滞りなく終わった夜、王城ではヨハンを歓迎する舞踏会が開かれた。


 シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に幾重にも反射している。楽団の奏でる旋律に乗って、着飾った男女が優雅に舞い、むせ返るような香水の匂いと、人いきれの熱気が会場全体を満たしていた。


 ヨハンの護衛としてその場に立ちながら、コートニーは、じわりと胸の奥に湧き上がる不穏な感覚を持て余していた。


「何だろう。変な感じがする」


 理由は分からない。この舞踏会に、何か具体的な危険の兆候があるわけではない。ただ、この浮かれた空気そのものに、どこか覚えのあるものを感じてしまう。それが、かえって不気味だった。


 コートニーの視線の先では、ユリウスが見知らぬ令嬢との一曲を舞い終えるところだった。王子としての隙のない正装と、完璧に計算された立ち振る舞い。


 湧き起こる歓声と拍手の中、隣の令嬢は熱っぽい視線で彼を見つめ、頬を染めている。周囲の羨望をさらりと受け止めながら、ユリウスは穏やかな微笑みを絶やさず、優雅に頭を下げた。


 彼にあの笑顔を向けられるのは、いつだって私だったな。


 不意にそんな考えが浮かんで、コートニー自身が驚いた。


 何を今さら、と思う。けれど、胸の奥に芽生えた嫉妬に近い感情に触発されるように、記憶の中の光景と目の前の光景が、奇妙な角度で重なった。


 胸が、大きく脈打つ。その鼓動を合図にしたように、コートニーの脳裏へ前世の記憶が一気に流れ込んできた。


 音楽。匂い。光。人々のざわめき。


 一番最初の前世。あの舞踏会の夜と寸分違わぬとまでは言わない。けれど、恐ろしいほどよく似ていた。


 色も、香りも、肌に触れる空気の感触も。


 気がついたときには、コートニーは駆け出していた。


「コートニー?」


 背後からヨハンの声が聞こえた。だが、振り返る余裕はない。


 会場の中央へ向かい、ユリウスを取り囲む群衆をかき分ける。その視界の端に、人混みの中から音もなく忍び寄る影が映った。


 腰の陰で、何かが鈍く光る。


 刃だ。


 間違いない。狙いは、ユリウスの背中だ。


「させない!」


 考えるより先に、身体が動いていた。


 一度目の人生では、あの刃は自分の胸を貫いた。


 今度は違う。


 刃が振り下ろされる寸前、コートニーは男の腕を掴み、そのまま地面へと叩き伏せた。


 乾いた音を立てて、ナイフが床に転がる。


 会場に、悲鳴と怒声が入り混じった。


「警備! 動くな!」


 ユリウスの鋭く通る声が、騒然となった会場の空気を一瞬で引き締める。


「そこを動くな! 刺客を捕縛せよ!」


 指示が飛ぶと同時に、近衛騎士たちが駆け寄り、コートニーの足元で組み伏せられた男を取り押さえた。男は忌々しそうに床へ転がった刃を睨みつけていたが、すぐに両腕を拘束され、その場で固く縛り上げられる。


「取り押さえたのは、ギルテールの近衛か?」


「ヨハン殿下と一緒にいらした方ですわ」


 周囲の貴族たちがざわめく中、コートニーはゆっくりと立ち上がった。


 目の前に、ユリウスが歩み寄ってくる。


「怪我はないか?」


 心配そうな声とともに、大きな手が差し出された。


 コートニーは、その手をじっと見つめた。それから、ユリウスの顔を見る。


 今度は、生きてる。

 ユリウスも、自分も。


 その事実が、じんわりと胸の奥へ染み込んでいく。


 侯爵令嬢だった自分は、何度も生まれ変わってきた。それぞれの人生で、ユリウスとうまくいったことはない。手を伸ばしても届かず、身分の壁に阻まれ、記憶さえ持たない相手に一方的に焦がれ続けるだけの、報われない人生を繰り返してきた。


 けれど、それは決して無駄な繰り返しではなかったのかもしれない。こうして、もう一度彼を助けるために、人生を巡ってきたのだとしたら。


「無駄じゃなかったんだ」


 思わず、そんな言葉が口からこぼれた。


「コートニー?」


 名前を呼ばれ、コートニーはハッと我に返った。


 胸の奥から込み上げてくるものをどうにか押し込み、差し出された大きな手を取る。


「怪我は?」


「ありません」


 その手に支えられながら立ち上がったところで、ようやく実感が追いついてきた。


 今度は、誰も死なずに済んだ。


 ユリウスも、自分も、こうして生きている。


 繋いだ手のひらから伝わってくる温もりが、その事実を何よりも確かに教えてくれる。前世の記憶の中に残る冷たさとは違う。握り返せば、同じだけの力が返ってくる、生きた人間の手だった。


「ありがとう。君は命の恩人だ」


「いいえ。ご無事で何よりです」


 ――ユリウス様も、私も。


 口には出さずに付け加えて、コートニーは静かに微笑んだ。


 たったそれだけのことが、今はどうしようもなく嬉しかった。


 やがて騒ぎの中心へヨハンが歩み寄ってくる頃には、楽団が再び演奏を始めていた。式典の夜を台無しにしないための、慣れた対応なのだろう。


「一体何があったんだ? 大丈夫なのか? というか、その手は何?」


 ヨハンの視線が、ユリウスと繋がれたコートニーの手へ落ちる。


「なんでもありません!」


 咎めるような視線に気づいた瞬間、コートニーは弾かれたようにユリウスの手から自分の手を引き抜いた。


 急いで一歩後ろへ下がり、何事もなかったかのように両手を身体の横へ下ろす。


 ま、まずいかも。


 持ち場を勝手に離れたうえ、ヨハンが盛大な疑惑を抱いている相手と、手を繋いでいるところを見られてしまった。


 顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。


「どうやら俺を狙う刺客が紛れこんでいたらしい。彼女に助けられたよ」


 突然手を振り払われたユリウスは、ほんの一瞬だけ名残惜しそうに指先を浮かせた。だが、すぐに王太子らしい堂々とした表情へ戻ると、何食わぬ顔でヨハンへ向き直る。


「刺客はすでに捕縛させた。式典を滞りなく進めるためにも、今は大ごとにはしない。心配をかけたな、ヨハン殿下」


「いや、無事なら何よりだが。心当たりはあるのか?」


「詳しくは調べないと分からない。だが――」


 ユリウスが声を落とし、わずかにヨハンへ身を寄せる。


 二人だけの密談のような雰囲気に、コートニーは無意識のうちに一歩前へ出ていた。

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