20. 身体に染み付いた癖
調印式を控えた日の朝。
コートニーはヨハンのもとへ向かうため、宿舎として与えられているライトリム騎士団の区域から王宮へ続く長い回廊を歩いていた。式典を午後に控え、城内は朝からどこか慌ただしい空気に満ちている。
侯爵令嬢だった頃、二番目の兄とユリウスから「騎士団には近づくな」と言われていたことを、ふと思い出した。
今では、その騎士団の宿舎を自分が使っている。当時の自分からすれば、騎士団の敷地内を当然のように行き来しているなど、想像もつかないことだった。
それほどまでに時は流れ、自分を取り巻く状況も、そして彼らとの関係も変わったのだと、改めて思い知らされる。
「近づくな、か……」
厳格だった二番目の兄の小言と、冷ややかな目で釘を刺してきたユリウスの姿が脳裏をよぎる。
当時は遠ざけられている理由を深く考えなかったが、今になって思えば、身を守るための言いつけだったのだろう。粗野で血気盛んな騎士たちが集う場所に、世間知らずの令嬢を近づけたくなかったのだ。
(まさか、その騎士団の宿舎で朝を迎えることになるなんてね)
足音を響かせながら回廊を進み、コートニーは窓の外へ視線を向けた。
眼下に広がる広場では、午後の調印式に向けて慌ただしく立ち回る騎士たちの姿が見える。
かつては立ち入ることすら禁じられていた場所が、今では自分にとっての拠点になっている。その不思議な感覚に、コートニーは小さく息を吐いた。
過ぎ去った日々の重みと、これから迎える新しい時代の訪れを感じながら、ヨハンの待つ部屋へ向かって足を進める。
しばらく道なりに進み、ヨハンの滞在する部屋まであと半分というところまで来たときだった。
前方から、カツカツと整然と響く足音が近づいてきた。何気なく視線を向けたコートニーは、側近を数人引き連れたユリウスの姿を見つける。
昨日、市井で偶然会ったときの彼とは、まるで別人だった。
よれた麻のシャツも、無造作に流された髪も、今日はどこにもない。整えられた金糸の縁取りの上着。姿勢よく伸びた背筋。側近たちの報告に耳を傾ける、隙のない横顔。
歩く足取りひとつまで、王族としての品格をまとっている。
「あ……」
その姿を見た瞬間、コートニーの胸に奇妙な既視感が湧いた。
そうだ。前世でも、王城で会うときの彼は、いつもこんなふうに人に囲まれていた。学問の師範、側仕えの騎士、社交界の重鎮たち。二人きりで会える時間は、いつだって限られていて、貴重だった。
あの頃と同じ光景が、今、目の前に再現されている。
懐かしさに、コートニーの胸が微かに疼く。
側近たちと難しい顔で言葉を交わしていたユリウスが、ふと、こちらへ視線を寄越す。
目が合った瞬間、彼の厳しい表情が、ほんのわずかに緩んだ。
側近たちとの会話の合間に見せた、ほんの一瞬の隙。だが、コートニーはそれを見逃さなかった。
「……懐かしいな」
前世の記憶と目の前の光景が不意に重なり、胸の奥でしみじみと思う。
どれほど国政に関わる重要な話をしていても、コートニーの姿を見つけた途端、彼は決まってこんなふうに表情を緩めた。
第一王子としての重圧を背負いながらも、自分を見る瞳にだけ宿る、確かな熱。それは、今も昔も変わらないように見えた。
「……ん? 今も昔も……?」
そこまで考えて、コートニーはハッと息を呑んで、無意識に浮かんだ言葉の意味を反芻する。
「昔」というのは、かつて侯爵令嬢として、婚約者として彼の側にいた頃のことだ。ならば「今」は――自分にとって、ユリウスは一体どういう存在なのだろう。
昨日の市場で、手袋もせずに握られた手の温もりを思い出した途端、顔に熱が集まった。
「落ち着け、私」
側近を引き連れてこちらへ歩いてくるユリウスに、この赤くなった顔を見られるわけにはいかない。
そう思えば思うほど、頬の熱は増していく。
「コートニー、おはよう。早いね」
正面から歩いてきたユリウスが声をかけてきた、その瞬間だった。
突然、白い塊が勢いよく飛び出してきた。
「わっ」
コートニーが反応するより早く、それは真っ直ぐこちらへ駆け寄ってくる。
ふさふさとした毛並み。澄んだ瞳。獣とも精霊ともつかない、優雅で愛らしい姿。
ユリウスが飼っている聖獣だった。
「ミルフィ」
咄嗟に、その名前が口をついて出た。
考えるより先に、身体が覚えていた名前だった。
かつて何度も、この毛玉のような聖獣を膝に乗せて撫でたことがある。侯爵令嬢だった頃、ユリウスの部屋を訪ねるたびに、必ずと言っていいほど纏わりついてきた、あの子だ。
ミルフィと呼ばれた聖獣は嬉しそうに鳴き声を上げ、迷わずコートニーに飛びついた。
「わ……!」
反射的に、その身体を受け止める。
腕の中に収まったミルフィのふんわりとした温かい毛並みで胸元が包み込まれる。ミルフィは、「きゅぅ」と甘えた声を上げながら、擦り寄るように首元へ鼻先を押しつけてきた。
「……ミルフィ、あなたは覚えていてくれたの?」
愛おしさに胸がぎゅっと締めつけられ、コートニーは顔を埋めるようにして、その柔らかな体を抱きしめた。
転生を繰り返し、すべてを失ったと思っていた。けれど、この小さな聖獣は、歳月が流れても、コートニーの身分が変わっても、そんなことなど気にする様子もなく、まっすぐな愛着と温もりを預けてくれている。
その事実に、思わず目頭が熱くなった。
「ミルフィは、滅多に人に懐かないのに」
頭上から降ってきたユリウスの声に、コートニーはハッと顔を上げた。
見ると、ユリウスは側近たちを少し後ろへ下がらせ、柔らかな眼差しでこちらを見つめている。
「ふふ、可愛いですね。この子は聖獣ですか?」
ミルフィの頭を撫でながら、笑顔で答える。
心臓が、少しだけ速くなる。
今の自分の反応は、明らかに不自然だった。初対面のはずの聖獣の名前を迷わず呼んでしまった上に、「覚えていてくれたの?」などという言葉まで口にしてしまったのだ。
コートニーは内心で冷や汗をかく。だが、予想に反してユリウスは深く追及しなかった。
「俺が子供の頃から飼っていて、一緒に育った聖獣だ」
「そうなんですね。ふわふわで、とっても可愛くて、お利口ですね」
コートニーは手放したくない思いに駆られながらも、これ以上抱きしめているわけにはいかないと腹を括った。腕の中のミルフィは、まだ名残惜しそうに「くぅん」と小さな鳴き声を上げ、コートニーの服にそっと鼻先を寄せている。
「ユリウス殿下のところへ戻ろっか」
語りかける声が震えないよう注意しながら、両手でミルフィの身体を優しく支え上げた。
「ミルフィ、おいで」
ユリウスが静かに手を差し伸べると、ミルフィは素直に彼の腕の中へ移っていった。
聖獣を抱き直すユリウスの仕草は手慣れたもので、王子らしい洗練された所作と、幼い頃から共に過ごしてきた者への自然な愛情が感じられる。
「手間をかけたな。この子は人見知りが激しいんだが……どうやら君のことが相当気に入ったらしい」
ユリウスはミルフィの頭を優しく撫でながら、コートニーへ整った笑みを向けた。
「またいつでも会いに来るといい。ミルフィも、きっと喜ぶ」
「あ……はい。ありがとうございます」
追及されなかったことに安堵しながら、小さく頷く。
「君は、どこへ?」
ユリウスは腕に抱えたミルフィを撫でながら尋ねた。
「ヨハン殿下のもとへ向かうところです。護衛の任がありますので」
「なかなか大変だな」
「ヨハン殿下の方が大変です。それに、私は殿下をお守りするのが仕事ですから」
「なるほど。ヨハンは、模範的な部下を持っているようだ」
その言葉には、少し皮肉が混じっているようにも聞こえたが、コートニーはあえて聞き流した。
「殿下、そろそろ」
背後から、側近の一人が控えめに声をかける。
式典前の予定は、分刻みで埋まっているのだろう。
「ああ」
ユリウスは短く頷き、それからコートニーへ向き直った。
「じゃあ、また」
「失礼します」
反射的に、コートニーは深く腰を落として淑女の礼を取った。
長年通い慣れた城でのやり取りが、身体の奥に染みついていたのだろう。団服姿であることも忘れ、貴族令嬢だった頃の作法がひとりでに滲み出てしまった。
「あ……」
自分の失態に気づいたのは、礼を解く直前だった。
「間違えた」
慌てて姿勢を正し、今度は正しく団の敬礼を取る。頬が熱を持つのを感じながら、コートニーは早口に付け加えた。
「では、失礼します」
逃げるように踵を返し、足早にその場を立ち去る。
背後で、側近たちが何か囁き合っている気配がしたが、振り返る勇気はなかった。
「思い出の残るお城は、本当にやりにくい……」
小声で盛大にぼやきながら、コートニーは足を速める。
何気ない仕草のひとつひとつに、前世の記憶が滲み出てくる。気を抜けば、いつどこで、また同じような失態を演じるか分からない。
「油断は禁物。ここは敵地だと思って行動しなきゃ」
コートニーは頬を軽く叩き、痛みとともに気合を入れ直した。
*
調印式は、大きな混乱もなく、ひたすら平穏に幕を閉じた。
両国の代表が署名を交わし、拍手が広間を包み込む。
長く続いた戦争に、正式な終止符が打たれた瞬間だった。
式典を終えた後、控えの間でくつろぎながら、ヨハンが何気ない調子で言った。
「この和平条約を結べたのは、大人しく捕虜となってくれたユリウス殿下のおかげだね」
コートニーは黙って耳を傾ける。
「これで彼も、名実ともに次期国王としての実績ができたわけだ」
その言葉に、コートニーはふと思った。
そういえば、この世界での第二王子との関係は、どうなっているんだろう。
前世の自分が命を落とした原因は、王位継承権をめぐる争いだった。第二王子を推す派閥が、継承権一位のユリウスの命を狙い、その刃をコートニーが身代わりとなって受けた。
以前、ユリウスが「弟」という言葉を口にする直前、ほんのわずかに間を置いたことを思い出す。
あの一瞬の躊躇には、何か意味があったのだろうか。
「でも……」
もし今のライトリム王国で、兄弟の間に深刻な不和があるのなら、多少の噂くらいはギルテール王国に流れてきてもおかしくない。
少なくとも、そうした不穏な話をコートニーはこれまで一度も耳にしたことがなかった。
「円満、なのかもね」
自分に言い聞かせて、コートニーはそれ以上、その考えを深追いしなかった。
胸の奥に、ほんの小さな棘のようなものが残ったことには、気づかないふりをしたまま。




