19. 一年ぶりの再会
一年ぶりに会うユリウスは、王族らしさをどこかに置き忘れてきたかのような格好をしていた。
丈の合わない、少しくたびれた麻のシャツ。裾のほつれた濃紺の上着。髪も、いつもの隙のない整え方ではなく、無造作に流されている。市井に紛れ込むための扮装だとひと目で分かるのに、それでいて驚くほどよく馴染んでいた。
この格好……。
コートニーの脳裏に、ふと古い記憶がよぎった。
侯爵令嬢だった頃。侍女に嘘をついて公園へ抜け出し、ユリウスとほんの少しだけ二人きりの時間を過ごしたことがあった。その些細な逢瀬はすぐに親の知るところとなり、しばらくの間、彼と会うことを固く禁じられた。
それでも、彼は会いに来てくれた。
夜も更けた頃、屋敷の裏手の生垣を越え、こんなふうによれた平民のなりをして、コートニーの部屋の窓の下に立ってくれたことがある。侯爵家の見張りの目を欺くための、精一杯の変装だった。
あのときの彼の格好が、今、目の前にいる男の姿と驚くほど重なっていた。
「一体、何があったんだ?」
ユリウスの声で、我に返る。
「あ……えっと」
慌てて、スリに絡まれた経緯を説明する。周囲の人だかりも、成人男性が介入したことで、どこか安堵したような空気に変わっていった。
案の定、ユリウスはその場をあっさりと取り仕切った。スリの男は、周囲に集まった衛兵たちへ引き渡され、コートニーの手には無事、小銭入れが戻ってきた。
「ありがとうございます。よかった……」
コートニーは小銭入れを両手で包み込むように、ぎゅっと胸の前で握りしめた。
「そんなに大切なものなのか?」
「この小銭入れ、ヨハン殿下に頂いたものだから」
その名前を口にした途端、ユリウスの眉間に、わずかに皺が寄った。
「相変わらず君は、ヨハン、ヨハンなんだな」
「違います……いや、違わないけど」
コートニーは慌てて言葉を継いだ。
「ヨハン殿下に頂いたものには、銀薔薇の刺繍が入っているので。もし失くしたりしたら、大ごとになりかねないんです」
失くした自分に、ねちねちと嫌味を並べ立てるヨハンの顔が容易に想像できる。あの男は、美しく微笑んだまま人の心の柔らかいところを的確に突いてくる。それを何度も経験している身としては、小銭入れ一つといえど軽んじるわけにはいかなかった。
「なるほど。そういうことか」
ユリウスは、それだけ言った。
二人の間に、束の間の沈黙が落ちる。
「そういえば、なんでユリウ――」
不意に、ユリウスの指がコートニーの口元に触れた。
「ここでは、俺の名前を呼ばないこと。理解した?」
低く、周囲には聞こえない声量で告げられる。
人混みの中で王族の名を安易に口にすれば、どんな面倒を招くか分からない。当然の忠告だった。
コートニーはこくこくと頷く。それを確認すると、ユリウスはようやく指を離した。
「ところで君は、こんな場所で何をしてるんだ?」
過去の記憶を辿っていました。
などと言えるわけがない。
焦ったコートニーは深く考えず、口を開いた。
「私は……市場調査です」
とっさに出た言葉に、自分でも苦しいと思い、慌てて付け足す。
「復興具合の、市場調査です」
「本当は?」
見透かされている。それでも意地を張って、コートニーは繰り返した。
「屋台の……市場調査です」
ユリウスが、堪えきれないというように小さく笑った。
「じゃあ、せっかくだから俺のおすすめを教えてあげる」
「え、でも、お忙しいんじゃ」
明日は式典を控えているんだよね?
そう言いたい気持ちが、つい顔に出てしまったらしい。
「だからこそ、息抜きが必要だろ?」
にこりと笑って言われてしまうと、それ以上、反論の言葉が出てこない。
「護衛は?」
「君がいる」
「え?」
思わず固まると、ユリウスは悪戯っぽく笑った。
「冗談だよ。ちゃんと周囲にいる」
そう言って、視線でさりげなく人混みの一角を示す。
「ほら、あそこに一人。それから、あそこにも」
ユリウスの指した方向に視線を向けると、雑踏に紛れるようにして立つ数人の男たちがいた。
身なりは市井に馴染むよう整えられているものの、動きの静かさや視線の配り方には、隠しきれないものがある。どれもコートニーにとって馴染み深いものだった。
自分と同じ、訓練を受けた人間の気配がする。
「だから、君に変なものを食べさせたりしないと約束しよう」
「でも、毒見は私がするんですよね」
半ば無意識にそう返した。軟禁されていた頃、彼に供される食事のすべてに毒見役として立ち会っていたことを、ふと思い出したからだ。
ユリウスは、それを聞いて声を出して笑った。
「もう君に毒見はしてもらわなくても大丈夫だ。こう見えても俺は毒耐性が高いし、毒の種類にも詳しいから」
「そうなんですか?」
「だから、安心して食べるといい」
そう言って笑うユリウスの横顔を、コートニーは盗み見た。
何だろう。すごい楽しそう。
祖国にいるからだろうか。一年前の彼より、ずっと表情が柔らかく見える。
軟禁という歪な形で繋がっていた、あの頃のユリウスに感じた張り詰めた緊張感が、今はすっかり削ぎ落とされていた。
「迷子になりやすい場所だから」
ユリウスが、コートニーの手を取った。
思わず、繋がれた手を見つめる。
手袋もしていない彼の素肌の温もりが、直接、掌へ伝わってきた。
洗練されたシルクや革の手袋越しではない。少しだけ熱を帯びた、男らしい微かな硬さのある質感。それが妙に生々しくて、心臓が不意に跳ねた。
侯爵令嬢として隣にいた頃のユリウスなら、身分を問わず、素手で他人に触れることなど決してなかったはずだ。
こ、これは流石にくる。
真っ赤になったコートニーは、手を引かれるまま、小さく歩幅を合わせてついていくしかなかった。
目の前を進む背中は、相変わらず無造作に流した髪の隙間から覗く首筋まで、どこか無防備に見える。こちらの動揺など、まるで意に介していないようだった。けれど、握られた手には、雑踏の中で決してはぐれさせないような、優しくも確かな力がこもっている。
「……素手で握手するとか、素行不良な王子すぎる」
消え入るような小さな声で呟くと、前を行く背中が少しだけ揺れた。
「聞こえてるぞ。初心者の君が迷わないように、仕方なく、だ」
さらりと返されて、コートニーの反論は喉の奥で詰まった。
私は、初心者じゃない。
心の中で、すぐさま訂正する。
多少、建物や店に違いはあれど、この街は地図がなくても歩ける。路地の一本一本、市場の匂いの変わり目まで、身体が覚えている。もう何度も、この足で歩いてきた場所なのだ。
でも……。
ユリウスとこうして手を繋いで、この市場を歩くのは、確かに初めてのことだった。そういう意味では、初心者という言葉も、あながち間違いではない気がした。
反論するのはやめて、繋がれた手に引かれるまま、ユリウスの後をついていく。
二人は屋台で串焼きと、香辛料の効いたスープを買った。財布を出そうとしたコートニーを、ユリウスは軽く手で制する。
「世話になったからな。これくらいはさせてくれ」
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。ごちそうさまです、でん……」
殿下と言いそうになって慌てて口を噤むと、ユリウスが笑った。
それから市場の端にある風の当たらない場所で壁に背を預け、二人は並んで買った食事を口にした。
「どうだ、この街は」
ユリウスが尋ねる。
「みんな、平和を喜んでいる雰囲気に包まれていると思います」
率直な感想を口にした。
行き交う人々の表情には、戦時中には見られなかったであろう余裕がある。それは、この一年の復興が確かに実を結んでいる証だった。
「そう見えるなら、良かった」
ユリウスの声に、静かな安堵が滲む。
「その、戻ったあと、大丈夫だったんですか」
ユリウスは少しだけ口の端を上げた。
「心配してくれてたってことか?」
「少しは」
素直に認めるのも癪だったが、嘘をつく気にもなれず、そう答えた。
ユリウスは、思っていたよりも嬉しそうな顔をした。
「大変だったよ」
苦笑まじりに、彼は続ける。
「まるで戦犯みたいに俺を扱う人間もいたし。だからこそ、復興に全力で取り組んだ一年だった。君は?」
「私も同じです」
コートニーは頷いた。
「ヨハン殿下と国中を回って。時々、残党を片付けて。そういう一年でした」
「残党、か」
ユリウスの表情がわずかに翳った。
言われて初めて、コートニーは自分が口にした「残党」という言葉が、元をたどればユリウス側――ライトリムの人間だったことに思い至った。
「……すみません。配慮が足りませんでした」
慌てて謝罪する。
「いや」
ユリウスは静かに首を振った。
「君の立場なら、仕方ない」
そして、少し遠くを見るような目で続けた。
「一年前、敵と味方だったのは事実だ。だからこそ、今、こうして君と並んで、屋台で買ったものを食べていると、本当に終戦したんだと実感する」
「……そうですね」
コートニーは、その言葉を静かに噛みしめた。
確かにそうだ。刃を向け合っていた者同士が、こうして肩を並べて食事をしている。それだけで、この一年の重みを実感できる。
目の前を行き交う人々は、誰もが笑顔で、どこか晴れやかな顔をしていた。
威勢のいい声を張り上げる商人。熱々の料理を抱えて嬉しそうに走り去る子どもたち。それを笑いながら追いかける親の姿。終戦直後には誰もが抱いていた目に見えない不安や重苦しい空気は、この賑やかな市場の熱気によって、すっかり塗り替えられている。
みんな、前を向いて生きているんだ……。
当たり前の日常を噛みしめる人々の活気に触れ、コートニーの胸の奥にも、あたたかな灯火がともるようだった。
「俺たちが争っていた裏で、みんなが必死に繋いできた日々が、これだ。だからこそ、もう二度とこれを壊させはしない」
彼の強い意思が込められた横顔に、コートニーは深く頷いた。
戦争で死線の向こう側にいた人間だからこそ、目の前で弾ける人々の笑顔が、どれほど尊く、守るべきものなのかが痛いほどわかる。
「さて、しんみりするのはここまでだ」
ユリウスがくるりと振り返り、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「せっかくの市場調査だ。あっちの香ばしい匂いがする屋台も、毒見……いや、視察しに行かないとな」
「もう、毒見の件は忘れてください!」
少し口を尖らせると、ユリウスは楽しそうに声を上げて笑い、再びコートニーの手を引いて、平和な活気に満ちた人混みの中へと歩き出した。
それから二人は、吸い寄せられるまま、甘い香りのする屋台や、香ばしい肉の香りが漂う屋台、珍しい外国の果実を売る店など、あちこちを巡った。
「もう、お腹がいっぱいです。ご馳走様でした」
少し膨らんだお腹を押さえながらコートニーが息を吐くと、ユリウスは満足そうに目を細めた。
「城まで送るよ」
その申し出に、背筋がすっと冷えた。
ヨハンの言葉を思い出す。
『君は僕の護衛として、終始完璧に立ち回ること。余計な感情は、一切不要だからね?』
コートニーは、しっかり念を押されている。
もしユリウスと二人並んで馬車から降りるところを誰かに見られでもしたら一巻の終わりだ。
内心で青ざめながら、コートニーは首を横に振った。
「いえ。もう少し、市場調査をするので」
咄嗟に断ると、ユリウスは少し残念そうな顔をしたが、それ以上は誘ってこなかった。
「そうか」
彼は身を翻す。
「じゃ、また明日」
そう言い残して、雑踏の中へと消えていった。
コートニーは、ホッとする気持ちでユリウスの背中が完全に見えなくなるまで、その場に立ち尽くす。
一息ついて思う。
「また、か」
彼が残していったのは、一年前にはなかった言葉だった。
あの日、祖国に引き渡されるユリウスと交わした最後の会話に、「また」という言葉はなかった。二度と会うことのない、それぞれの立場へ戻るだけの、静かな別れだった。
それが今は、ごく自然に「また明日」という言葉が交わされている。
コートニーは、雑多な人混みの真ん中で、その一言をそっと胸の中で噛みしめた。




