18. 前世は跡形もなく消える
ユリウスが無事にライトリム王国へと引き渡されたのと同時に、長く続いた戦争は終結した。
それからの一年は、目まぐるしいものだった。復興に奔走するヨハンに付き従い、コートニーはあちこちの戦後処理に駆り出された。
荒れた国境沿いの村々を巡り、避難民の護送にあたり、ときには解体されずに残っていた敵の残党を掃討する。戦争が終わったからといって、平和な日々がすぐに訪れるわけではない。むしろ、終戦後の一年こそが、本当の意味での戦後処理だった。
そして一年が経った頃、ライトリム王国で行われる和平条約の締結式典に、ヨハンが出席することになった。両国の関係を正式に結び直す、国家的な行事だ。
「君を僕の護衛として、連れて行くよ。だから準備しておいて」
「御意」
ヨハンの一言で、コートニーもライトリム王国の王都を訪れることが決まった。
*
馬上から見渡す街並みは、事前に予想していたものとは違っていた。
国境付近でユリウスを引き渡したとき、彼は「敗戦国の王太子」として国へ戻された。敵の手に落ち、自国を敗北へと導いた責務を一身に背負い、冷たい視線と批判の中へ戻っていくあの男の背中を、コートニーはただ見送ることしかできなかった。
『俺が捕虜になったことで迷惑をかけた者のことを思うと、笑顔では戻れない』
あの日、軟禁された部屋の中でぽつりと漏らした彼の言葉が、脳裏をよぎる。
だが、今こうして目にする市民たちの顔には、復興への希望と和平への安堵で満ちていた。ユリウスが泥をかぶり、その身を賭して繋いだ平和が、確かにこの街に芽吹いている。
「よかった……あの人の払った犠牲は、無駄じゃなかったのね」
市民たちの晴れやかな笑顔を目にして、胸の奥で固く結ばれていた緊張が、少しだけほどけていく。
「素晴らしい賑わいだね、コートニー」
馬車の中から、ヨハンが軽やかな声をかけてくる。
「ちょっと、殿下。危ないから窓から顔を出さないでください」
意識を切り替え、手綱を握り直す。冷ややかな仮面も、もう一度かぶり直した。
「ここではあなたは、自国を敗戦に追いやった悪名高き勝利者ですよ。恨みを買っているかもしれないんですから、自重してください」
「失礼な言い草だな。僕は平和をもたらした英雄のつもりで来ているんだけど」
ヨハンはくすりと笑い、言われた通りに馬車の窓枠から身を引いた。けれど、その瞳には一切の油断もなく、冷たい観察者の光が宿っているように見える。
「敗戦の屈辱に打ちひしがれているかと思えば、誰もが安堵の笑みを浮かべている。彼らは勝者や敗者という括りではなく、ただ平和を歓迎しているんだよ」
ヨハンは車内のシートに背を預け、冷ややかに、けれどどこか楽しげに言葉を継いだ。
「そして、平和に導くために、あいつは罪を背負って泥をかぶった。敵ながら、見事な政治的パフォーマンスだよね」
ヨハン様らしい言い方だけど、さすがにパフォーマンスは言い過ぎじゃない?
あの日、軟禁部屋で苦悩を滲ませていたユリウスの切実な声が鮮明に蘇り、胸がきゅっと締め付けられる。
「……彼にとっては、演技などではないと思いますけど」
「さあ、どうだか。まあ、何にせよ優秀な王子だ」
ヨハンは関心を失ったように言葉を切り、手元の資料へ視線を落とした。
「明日の大聖堂での式典には、当然アイツも出席する。コートニー、君は僕の護衛として、終始完璧に立ち回ること。余計な感情は、一切不要だからね?」
「……御意」
コートニーは短く応じ、手綱を操りながら馬車との距離を保った。
視線の先には、秋の澄んだ空へとそびえ立つ大聖堂の尖塔が見えていた。
あの日、「また」を口にせずに別れた男。敗戦の罪を背負った王太子として、今、どんな顔をしてこの国で暮らしているのだろう。
コートニーは馬を馬車と並走させながら、視線を遠く、王都の中心にそびえる王城へと向けた。
*
翌日に控えた調印式に向け、ヨハンを筆頭とするギルテール国の使節団は前入りを果たした。
その規模は、コートニーの想像を遥かに超える大掛かりなものだった。国王から全権を委ねられたヨハンの護衛兵に加え、彼を支えるブレインたちがずらりと顔を揃えている。要人たちの城内への案内や宿舎の差配が一段落したところで、ヨハンはコートニーへ素っ気なく告げた。
「無事、王城入りも果たしたことだし、明日の式典までは各自、牙を研いでおくといい。コートニー、君には明朝までの自由行動を許可する」
「……感謝いたします」
深々と一礼したコートニーは、何か言いたげなヨハンの視線から逃げるように、その場を後にした。
「危ない。気を引き締めておかないと」
疑い深いあの主のことだ。かつてリアが仕掛けたハニートラップ作戦の失敗で、ユリウスの部屋に忘れたジャケットの件から、二人の間に特別な何かがあると勘づいているのだろう。
「でもまさか、前世で婚約者同士だったなんて思いもしないだろうけど」
超常現象の類いを最も嫌うヨハンには、一生辿り着けない真実だ。
それでも、ヨハンに詮索されて任務から外されるようなことになれば、今世のコートニーとしてのすべてが終わる。
「何としても、怪しまれるような動きだけは避けないと」
改めて気を引き締めたコートニーは、割り当てられた自室へ戻ると、あらかじめ用意していた町娘の服へ素早く着替えた。姿を偽るための、ささやかな護身策だ。
身軽な装いとなり、城の重厚な回廊を静かに抜けていく。
「体が勝手に覚えてるものなのね……」
今世では初めて訪れるライトリムの王城なのに、前世の記憶が色鮮やかに残っていた。
どこを曲がればいいのか。どの通路を使えば騒がしい給仕たちを避けられるのか。頭で考えるよりも早く足が裏手の通路を選び、難なく脱出経路を辿っていく。
「私はただ、街の様子を見に行くだけ……」
自分にそう言い聞かせながら、コートニーは城の小さな裏門を潜り抜けた。
一歩外へ踏み出せば、秋の冷ややかな風とともに、活気あふれる王都の熱気が肌を撫でる。市場から漂う香辛料と焼き立てのパンの匂い、遠くから聞こえる子供たちの歓声。
記憶にあるものより、だいぶ賑やかになっていた。戦争が終わって一年、この国もまた着実に立ち直り始めている証なのかもしれない。
彼は今、どんな思いでこの空を見上げているのだろう。
自由時間をもらったところで、行く当てなどないはずだった。自分の立場はあくまでギルテールの近衛騎士で、職務でこの国を訪れているだけだ。
それでも、足が勝手に動き出す。
コートニーはフードを深めにかぶり直し、市民の雑踏に紛れながら、かつての面影を探すようにゆっくりと王都の石畳を踏みしめた。
特に目的もなく前世の記憶を頼りに足を運んだ先にあったのは、閑静な住宅街。ランベルゼ侯爵家が所有する大きなタウンハウスの前だった。
だが、門に掲げられた大きな紋章は、すでにまったく見覚えのない別の家柄を示している。
「……分かっていたはずなのに」
前世でもまったく同じ行動をして、同じように打ちのめされたことを思い出す。
どの人生でも、かつて愛した場所や馴染みのあった景色を確かめようと足を運び、変わり果てた光景に立ち尽くした。
悲劇が繰り返されているような既視感に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「私はまた、同じことを繰り返している……」
自分たちの過去も、居場所も、とうの昔に失われていることくらい分かっていたはずだ。それでも期待せずにはいられなかった自分の愚かさに、コートニーは自嘲気味に小さく唇を噛んだ。
「……さて、どうしようかな」
目的を失い、ぽつりと呟いた声は、通りを吹き抜ける秋風に消えていく。
「でもま、他に行くあてもないし」
たとえ同じ結果になると分かっていても、自分の目で確かめずにはいられなかった。
そんな想いで足を進めたのは、かつて男爵令嬢として暮らしていた場所。同格の貴族たちと共有していた小さなタウンハウスだ。しかし、その屋敷もすでにコートニーが知る面影はなく、見知らぬ家族のささやかな生活の気配で満たされていた。
「当たり前か」
コートニーは静かに思う。
前世で自分が住んでいた家が、今も自分のものとして残っているはずがない。時間は流れ続けているし、世界は誰か一人の都合のために止まってくれたりはしない。
胸の奥にすっと冷めた隙間風が吹き抜けるように、頬を冷たい風が撫でていく。
男爵家を確認したその足で、コートニーはさらに城下の奥、市民たちが集まる地区へと向かった。平民として生きたあの人生で、幾度も足を運んだ場所だ。
活気ある雰囲気は、あの頃と変わっていなかった。呼び込みの声、荷車の軋む音、揚げ物の香ばしい匂い。懐かしい喧騒に包まれながら、コートニーはよく通った市場へと足を踏み入れた。
だが、そこに馴染みの顔はひとつもなかった。
野菜を売っていた老婆も、いつも威勢よく声を張り上げていた魚屋の主人も、どこにも見当たらない。代わりにいるのは、まったく見覚えのない顔ぶればかりだった。
年号は同じでも、人はすっかり入れ替わっている。
その事実を突きつけられて、コートニーは静かに確信した。
「やっぱり、ユリウス様と私以外は、全部入れ替わっているんだ」
何度生まれ変わっても、コートニーとユリウスだけは、同じ魂として存在する世界に繰り返し現れる。だが、その周りにいる人々は、そのたびに違う顔ぶれになる。前世で親しかった人も、優しくしてくれた人も、二度と同じ姿では現れない。
それは当然のことのはずなのに、改めて突きつけられると、ひどく寂しい気持ちになった。
「こうなったら、やけ食いするしかないか」
久しぶりに訪れた市場に漂う美味しそうな匂いに腹の虫が鳴り、苦笑する。
「どんなときでも食欲があるのは、変わらないみたい」
繰り返される人生で、優しさに見放されてどんなに哀しくても、途方もない孤独に押し潰されそうになっても、何かを食べれば体は温まり、明日を生きるための力が湧いてくる。
それは侯爵家の娘として生きた前世から、何ひとつ変わらない。
「踏ん切りがついたし、お腹いっぱい、食べてやる」
湿っぽい感傷を振り払うように呟き、市場の露店へと足を進めた。
何を食べようか迷いながら人混みの中を歩いていたとき、ふいに肩に何かがぶつかった。
一瞬の違和感。斜めがけしたポシェットに、微かな引っかかりを感じる。
スリだ。
コートニーの反応は速かった。振り返りざま、逃げようとした男の手首を無造作に掴み上げる。
「痛っ……!」
「警らに突き出されたくなかったら、盗んだ小銭入れを出しな」
低く、静かな声で告げる。戦場仕込みの圧を纏った声に、周囲の人々がぎょっとしたようにこちらを振り返った。
「盗んでねぇよ!」
男は必死に否定するが、その声には後ろめたさが滲んでいる。コートニーは容赦なく、男の懐に手を伸ばそうとした。
「じゃあ、確かめさせてもらう」
「離せ、この……!」
一悶着になり、周囲にはあっという間に人だかりができ始めた。物見高い視線が、コートニーと男を取り囲む。
「コートニー?」
その声が聞こえた瞬間、周囲の喧騒が突然遠くなった気がした。
聞き間違えるはずのない声だった。
スリを押さえつけたまま、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは――ユリウスだった。




