15. ひとときの時間
ユリウスが捕虜となって、一ヶ月が過ぎようとしていた。
現場にいるコートニーには、国の上層部が交わす政治の取引など知る由もない。ただ、第一王子のユリウスを取り戻すため、ライトリム王国がかなりの譲歩をした停戦協定を結ぶのは時間の問題だという噂は、コートニーの周囲にも届いていた。
「ようやく、王子のお守りから解放されるな」
「でもさ、なんか寂しいよな」
「ああ。案外いい奴だもんな」
同僚たちからそんな声が漏れ聞こえるたび、コートニーの胸の奥には、どこか据わりの悪い、冷たいものがしこりのように残った。
「みんな、最初はボロクソに言ってたくせに」
当初は何をしても口を割らず、自死すら躊躇わなかった冷徹な捕虜。それが今や、気さくで毒気のないいい奴として、敵兵の心にまで入り込んでいる。
人当たりがよく、気品があり、誰に対しても分け隔てなく接する。その完璧な貴公子の顔は、コートニーの記憶の中にあるユリウスという人間にも当てはまる。けれど今は、ユリウスという人間がそれだけではないことも知っている。
笑顔の裏で、どれほど巧みに人心を操り、盤面をコントロールしているか。散々してやられたコートニーだけが、その本当の怖さに気づいていた。
「あれは、恐ろしい男だから」
コートニーを含む一部の人間以外の前では、ただ、害のない魅力的な捕虜として振る舞ってみせたのも、すべて計算ずくなのだろう。
「コートニー、お前もようやく剣を振るう生活に戻れるぞ」
同僚に力強く肩を叩かれた。
「別に、好きで戦ってるわけじゃない」
ぼそりと呟くと、同僚は「またそんな減らず口を」と苦笑して去っていった。
その黒い団服に包まれた広い背中を視界に収めながら思う。
「お守り任務が終わる、か」
つまりそれは、息が詰まるような「前世の幻影」との会話からも解放されるということだ。
望んでいた展開なのだから、せいせいするはずだった。それなのに、いざその終わりが目前に迫っていると突きつけられると、理由のわからない焦燥感が、じわじわと足元から込み上げてくる。
コートニーは小さく頭を振り、余計な思いを振り払った。
「失礼します。交代です」
軟禁部屋の重い扉を押し開けると、いつものように窓辺の光を浴びながら本をめくるユリウスの姿があった。
「やあ、今日も時間通りだな」
顔を上げたユリウスが、いつもと変わらない悪戯っぽい笑みを向けてくる。
明日にはいなくなるかもしれない男が、そんなことなど少しも気にしていないような顔をしている。それが妙に癪に障って、コートニーは小さく奥歯を噛みしめた。
*
戦争が終わるかもしれないという緊迫した情勢のただ中にありながら、軟禁部屋の中だけは、拍子抜けするほど穏やかな時間が流れていた。
「何か面白い話をしてくれ」
この日もまた、身勝手な無理難題を押しつけられた。
最初は意地を張って無視を決め込んでいたコートニーだったが、一枚も二枚も上手なユリウス相手では、結局ペースを握られて相手をする羽目になることを、この一ヶ月で嫌というほど学習させられていた。
それに、この殺風景な部屋で監視を続ける以外にやることもない。ヨハンから「一言も喋るな」と命令されているわけでもないのだ。
コートニーは小さく息を吐き出すと、話に付き合うことにした。
「面白い話って、注文が漠然としすぎです」
「では、生臭い戦場での話はパスだ。そうだな……君が懇意にしていたという、俺に似た男の話を聞かせてくれ」
「そんなの、人に明かす話ではありません」
即座に突っぱねる。
いくら暇潰しでも、本人を目の前にして当時の思い出を語るなど、恥ずかしすぎて正気の沙汰ではない。こちらの戦術を明かすのと同じくらい、できれば絶対に避けたい話題だった。
しかし、ユリウスは引く様子もなく、本を閉じて愉しげに目を細めた。
「こんな時代だ。少しくらい心温まる話が聞きたい。君の指示通り具体的な注文をつけたんだから、早く話してくれ」
あまりに図々しい理屈に文句を言いかけたコートニーだったが、飲み込んだ。
確かに、いつ破れるかもわからない戦況や、凄惨な血の匂いが漂う話をするよりは、くだらない昔話でもしているほうが、はるかに平和でマシなのかもしれない。
「……言っておきますけれど、本当に何でもない昔話ですからね」
コートニーは諦めて膝の上で手を組み、あえて視線をユリウスから逸らしながら、ゆっくりと口を開いた。
「……その人は、昔から自分を後回しにするような人でした。身分も高くて、本当ならもっと傲慢に振る舞っても誰も文句を言わない立場だったのに、いつでも周りのことばかり気にしていて」
「へえ。君の好みは、ずいぶんと奇特で禁欲的な男だったんだな」
ユリウスは面白がるように口元を緩め、椅子の背もたれにゆったりと体を預けた。
その仕草すらも、記憶の中の男と恐ろしいほど重なる。
コートニーは意識して視線を逸らし、部屋の隅の壁の木目に焦点を合わせた。
「奇特とは失礼すぎます。本当に優しい人だったんです。刺繍糸で指を刺しただけなのに、大騒ぎして医者を呼ぼうとしたり、誕生日でもないのに花を贈ってくれたり、私が作った失敗したお菓子を、涙目になりながら『美味しいよ』って言ってくれたり……」
語るうちに、胸の奥がじんわりと甘く、熱い痛みを帯びてくる。
隠していたはずの愛おしさが、言葉の端々から溢れ出していくのが自分でもわかった。
「……どれだけ重い立場になっても、その人が私に向ける目だけは、いつも春の陽だまりみたいにあたたかかった。私をただの一人の人間として、大切に、深く愛してくれた人です。あなたみたいに意地悪で、人を試すような真似は絶対にしなかったし」
最後に少しだけ嫌味を込めて横目で見ると、ユリウスは笑うのをやめていた。
金色の瞳が、どこか遠くを焦がすような、途方もなく深い陰りを帯びてコートニーを見つめている。
「……そうか」
ユリウスの口から漏れたのは、静かで、ひどく低い呟きだった。
「確かに君は、その男に愛されていたんだな」
その声音に込められたあまりの重みに、思わず息を呑んだ。
胸の奥に溢れていた過去の記憶と、目の前の男が漂わせる切なさが交錯し、それ以上言葉を続けることができなくなる。
なんなの、その顔……。
強がりで話した思い出話なのに、自分の心だけでなく、目の前の男の心まで傷つけているような気がした。
「もう過去のことです」
これ以上この話題を続ければ、自分から崩れてしまいそうだった。コートニーは努めて冷ややかな声を作り、強引に会話を引き上げようとした。
「その人とは、二度と会えませんから」
「なぜだ? 振られたのか?」
「違います」
即座に否定してから、しまったと唇を噛んだ。ユリウスは静かに次の言葉を待っている。
「……私が、死んだからです」
冗談めかしたつもりの一言だった。けれど、部屋の中に落ちた静寂はあまりにも重く、二人の間に流れる空気を凍りつかせた。
ユリウスはまばたきもせず、窓から差し込む光の中で、ただ静かにコートニーを見つめ返していた。その金色の瞳に何が宿っているのか、コートニーには読み取れない。
「君が、死んだ。それは銀薔薇の任務についていることと、関係があるのか?」
一瞬の沈黙のあと、ユリウスが静かに問いかけてきた。
その眼差しには、陳腐なおとぎ話だと笑い飛ばすような色はない。ただ真摯に、言葉の意味を考えているように見えた。
「……どういう、意味ですか」
「君は、かつてその男を愛していた自分を殺したんじゃないのか?」
ユリウスの言葉に、一瞬、息を止めた。
「銀薔薇の魔女と呼ばれるほどの戦力になるまで、並大抵の苦労ではなかったはずだ。戦場へ出るために、もしくは……大切なものを奪われた絶望から立ち上がるために、君はかつての恋心も、守られるだけの自分も、すべて捨て去った」
ユリウスは静かな声で、しかし言葉を一つひとつ確かめるように紡いでいく。
「君が言った『死んだ』というのは、そういう意味だろう。その優しかったという男との甘い思い出を胸の奥底に埋めて、二度と戻らない覚悟を決めた。……だから『二度と会えない』と言った。そうではないのか?」
あろうことか、目の前の男はすべてを「今のコートニー」という文脈で解釈し、辻褄を合わせてしまった。
私は本当に一度命を落として、あなたを遺して死んだのよ……。
そう叫び出したい衝動が喉まで押し寄せた。けれど、ユリウスの解釈は、今の状況においてこれ以上ないほど都合のいい答え合わせでもあった。
同時にその解釈に行き着くということは――。
そっか。やっぱりこの人には、前世の記憶はないんだ。
コートニーの胸の奥で、小さな音がして何かが弾けたような気がした。
どこかで、ほんの少しだけ期待していたのかもしれない。これほど自分を揺さぶり、過去の面影を覗かせるユリウスなら、もしかしたらという淡い幻想を抱いていた。
だが、違った。
目の前の男は、鋭すぎる洞察力でコートニーの言葉を解釈したにすぎない。彼の中にあるのは、「冷徹な魔法剣士として生きる道を選んだ、哀しき女」という、綺麗に筋の通った物語だけだ。
そこに、前世で二人が紡いだ愛おしい日々の記憶など、欠片も存在しない。
当たり前じゃない。私だけが覚えていて、私だけが囚われているんだから。
胸を刺すような寂しさと失意が押し寄せ、視界がわずかに滲みそうになる。それを必死に押し殺した。
「……さすがは王太子殿下ですね。察しがよろしくて助かります」
微かに震える声を取り繕い、微笑みを貼りつけた。
「ええ、その通りです。だからもう、二度と会えませんし……会うつもりもありません」
「……そうか」
ユリウスは静かに頷き、どこか痛むような、労わるような眼差しをコートニーに向けた。
「辛い過去を思い出させたな……すまない」
心からの情を込めたその温かい言葉が、皮肉にも、今のコートニーにはどんな刃よりも鋭く胸を抉った。
さらに動揺するコートニーへ、追い打ちをかけるような言葉が降ってくる。
「少し、その男に嫉妬しそうだ」
耳を疑うような言葉だった。
静かに、しかしはっきりと紡がれたその一言に、思考が完全に止まる。
(……はい?)
動揺のあまり、貼りつけていたはずの張りのない笑みが崩れ落ちた。
金色の瞳は真剣そのもので、冗談を言っているようにはとても見えない。
だが次の瞬間、ユリウスはふっと肩の力を抜き、いつもの悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「――本気にするな、冗談だ」
「……は?」
「あまりに君が必死な顔をするものだから、ついからかいたくなってしまった」
あっさりと撤回された言葉に、頭が一瞬で真っ白になった。動揺しきっていた感情が、怒りと脱力感へ一気に反転する。
「な……っ、冗談にも程があるでしょ! 人の過去の思い出を笑いものにするなんて、やっぱりあなたは最低の男じゃん!」
「すまない。だが、そうして怒っている顔のほうが、先ほどまでの死人みたいな顔よりずっと人間らしくていい」
ユリウスは悪びれもせず本を開き直すと、愉しげに目を細めた。
「君を試すような真似はしないと言っていたその男とやらも、存外、君のこんな顔が見たくて意地悪を言っていたのかもしれないよ」
「絶対違うし! 一緒にしないで!」
叫ぶように言い返しながら、コートニーは激しく拍動する胸を押さえた。
……心臓に悪い、本当に……。
試され、弄ばれているだけだ。
そう自分に言い聞かせる一方で、前世のユリウスもまた、時折こうして自分をからかっては困らせ、愛おしそうに目を細めていたことを思い出してしまう。
ごまかされたはずなのに、その仕草すらもかつての彼そのもので、コートニーは真っ赤になった顔を隠すように深く俯くしかなかった。
こうして二人は少しずつ、少しずつ、距離を縮めていった。敵国の王太子と、その捕虜を見張る兵士だということを、時々、都合よく忘れてしまうくらいに、軟禁部屋の中に流れる時間だけは、奇妙なほど穏やかだった。




