16. 終わりの知らせ
ユリウスに振り回される日々は、相変わらず続いていた。
腹が立つことが、まったくないわけではない。むしろ日を追うごとに増えている気さえする。この男は息をするように人をからかい、息をするように核心を突いてくる。悔しいことに、その手管に毎回きちんと引っかかっている自分がいた。
それでも以前ほど、その苛立ちを嫌だとは感じなくなっていることにも気づいていた。
言い合うように交わす会話も、ふとした瞬間に覗く寂しそうな横顔も、取り繕った仮面が剥がれ落ちたときの素に戻ったような笑い方も。どれも、初めて軟禁部屋で顔を合わせたあの日には、想像もしていなかったものだった。
隔たっていたはずの距離が、いつの間にか縮んでいる。
心の底から、この人間を嫌いにはなれない。
そのことを、コートニーはもう認めざるを得なくなっていた。だからこそ、外の世界が二人の間に流れる穏やかな時間を、いつまでも待ってくれるわけではないことも分かっていた。
戦況は動いていた。そしてある日、コートニーはヨハンからその知らせを受けた。
「捕虜の移送が決まった。ユリウスを相手国へ引き渡し、これをもって両国は正式に終戦協定を締結する」
ヨハンの淡々とした声が、しんと静まり返った執務室に響いた。
「君の監視任務も、これで終了だ。よくやってくれた、コートニー」
ついに、来たんだ。
頭では分かっていたはずだった。停戦協定が進んでいるという噂を聞いたときから、遠からず訪れる未来だと覚悟していた。
人を食ったような態度で翻弄され、息をするように前世の傷口を抉ってくるあの男から、ようやく解放される。だから、せいせいするはずだった。
それなのに、胸の奥を重い塊で殴られたような衝撃が走り、思考が真っ白になっていく。
「引き渡しは、いつ、ですか」
絞り出すような声は、自分でも驚くほど低く、小さかった。
「明後日の早朝だ。ライトリムの使節団が国境線までやってくる。僕が立ち会うから、君には当日の護送と、現地の警備を担当してもらう」
「……了解いたしました」
深く首を垂れ、必死に表情を押し殺す。ヨハンの前で動揺を見せるわけにはいかなかった。
「浮かない顔だね」
ハッとして顔を上げると、ヨハンの唇が美しく、そしてどこか冷ややかな弧を描いていた。整いすぎた容姿にふさわしい、刺すような眼差しが向けられる。
「晴れて厄介なお守り役から解放されるというのに。まさか、情でも移した?」
言葉の端々に容赦のない毒を含むのは、いつものことだった。ただ、この類の問いをかけられるのは、これで二度目だった。
「滅相もございません」
すぐさま感情を削ぎ落とした冷ややかな仮面を貼り直し、すっと背筋を正す。
「あの食えない男を無事に送り届けるまで、気を抜くわけにはいかないと考えていただけです。引き渡しの瞬間まで、何が起きるか分かりませんから」
「そう。ならいいけれど」
ヨハンは興味を失ったように手元の書類へ視線を落とした。
「……せいぜい最後まで、完璧に役目を果たして」
「御意」
深々と頭を下げ、執務室をあとにしようと背を向ける。
「コートニー。一つだけ言っておくけど」
歩き出そうとした足を止め、ゆっくりと振り向いた。
ヨハンは視線を書類に落としたまま、淡々と、けれど刃のように鋭い声音で言葉を続けた。
「君がどう足掻いても、奴はライトリムの大事な王太子で、君はただの兵士だ。国境線を越えた向こう側に、君の居場所も、手に入れるべきものも存在しない」
胸の奥を、冷たい刃でなぞられたような気がした。
言われなくても分かっている。分かっているからこそ、その言葉は痛かった。
「……重々、承知しています」
喉の奥がカラカラに渇いていた。頭を下げると、今度こそ振り返らず、逃げるように執務室をあとにした。
冷たい石造りの廊下に出て、重い木戸を閉め切った瞬間、張り詰めていた気が抜け、足元がかすかに揺らいだ。
「分かってるよそんなこと。いちいち言われなくたって……」
壁に片手を預け、荒い呼吸を整える。ヨハンの冷ややかな指摘は、そのままコートニー自身が必死に蓋をしてきた現実だった。
明後日の早朝。ユリウスはライトリムの王子へと戻り、自分は平民上がりの銀薔薇の一員として、この城に残る。
前世でどれほど深い絆で結ばれていようと、今世の二人はあまりにもかけ離れた場所に立っている。交わした言葉も、微かに縮まったように思えた距離も、すべては捕虜と見張りの兵士という特殊な状況の中で築いた、儚い幻に過ぎない。
「これで、本当に最後」
胸を締め付ける痛みを力任せに押し殺し、両手で頬を強く叩いた。痛みが与える一瞬の痺れで頭を冷やし、再び仮面をかぶり直す。
あの男の元へ向かう足取りは重い。それでも、もう引き返す道はない。
扉を開けた先に待つユリウスに、この動揺を欠片も悟らせないために、コートニーは静かに呼吸を整えながら歩き出した。




