14. 仕返しの一手
ユリウスの言葉に振り回された翌日。
「今日は、絶対に無言を貫いてやる」
新たな決意を胸に、コートニーは軟禁部屋の監視任務についた。
一度でも言葉を交わせば、あの男は巧みにこちらの心の隙間へ踏み込んでくる。前世の記憶に惑わされ、感情を揺さぶられるのは、もう御免だった。
部屋の隅の椅子に深く腰かけ、コートニーは意図的に心の壁を高く築いた。ユリウスが開く本の紙音にも、微かな衣擦れにも、一切反応を示さない。自分はただの置物であり、冷徹な監視者なのだと、心の中で何度も言い聞かせる。
だが、その決意は、午後の光が部屋の床に長く伸び始めた頃、あっさり崩れることになった。
「そうだ」
不意にユリウスが本から顔を上げた。
「君が話さないなら、こちらから当ててみようか」
「なにを」
反射的に聞き返してしまい、慌てて口を閉じた。
しまった。今日は無視するんだった。
固く唇を結び直したコートニーに、ユリウスは構わず続けた。
「君が銀薔薇にいる理由は、貧困、借金、それとも路頭に迷った挙句の、選べない選択肢のせいだ。ヨハンの下にいる人間が抱えている事情は、だいたいそのどれかに当てはまる」
「知った風な口をきかないで」
吐き捨てた瞬間、コートニーは激しく後悔した。
またやられた。またこの男の術中にはまって、口を開いてしまった。だが、他人の来歴を、まるで見世物の札でも並べるように勝手に推測されるのは、いい気分ではない。
これ以上は、一言も発しない。
改めて誓い、強く唇を噛みしめて、そっぽを向いた。
ユリウスは怒るでもなく、満足そうに低く鼻を鳴らした。
「戦場で『銀薔薇の魔女』と恐れられていた君が、そんな顔をするなんてね」
「……」
「なかなか上質な退屈しのぎになるよ」
コートニーの額に、ピキッと青筋が浮かんだ。
無視。絶対に無視。
膝の上で固く拳を握り、心の中で呪文のように繰り返す。視線を頑なに扉へ固定した。壁の染みでも数えていたほうが、この男と会話するよりよほど精神衛生にいい。
「まあ、君が前線に赴く理由なんて、なんだっていいんだ」
パタン、と本を閉じる音がした。
だったら最初から聞くなよ、と喉元まで出かかった悪態を、コートニーはかろうじて飲み込んだ。
「あまり知りすぎると、次に戦場で出会ったとき、迷わず君に剣先を向けられる自信をなくすからね」
その一言に、コートニーは思わず反応してしまった。
意味を測りかねる。冗談なのか、それとも本気なのか。判断がつかないまま、視線がユリウスとぶつかった。金色の瞳が、こちらをじっと見据えている。愉快そうで、それでいて逃げ場を与えない。まるでヨハンと同じような、相手の価値を測るような光を宿していた。
「君を攻略するのは簡単だな」
ユリウスが、静かに笑った。
「これで、おあいこだ」
「……おあいこ」
その言葉の意味を理解した瞬間、コートニーの頬に血が上った。
無視すると誓ったそばから、まんまと顔を向けさせられた。しかも、それをこんなにも楽しそうに指摘されているという状況。
この男、性格悪すぎる!
かつて自分が仕掛けた、あの惨憺たる攻略作戦の数々。胃袋を狙って見事に外した一件も、キャップ萌えを狙って気味悪がられたことも、色仕掛けが返り討ちにあったことも。
まさか、こんな形で仕返しされる日が来るとは思っていなかった。
羞恥の記憶まで蘇り、顔を赤くしたまま俯いた。
「君は、ライトリムにいたことがあるのか?」
唐突な問いだった。
今度こそ無言でやり過ごそうとした。だが、沈黙すれば肯定したも同然だ。
「いいえ。一度も訪れたことはありません」
きっぱりと否定する。
「前に君は、俺にラム肉と根菜の黒ビール煮込みを作った。確か、あれは君が調理したと言っていたと記憶しているのだが」
コートニーの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
あの一件は、今でも思い出したくない黒歴史のひとつだ。まさか、ここでその話を蒸し返されるとは思わなかった。
雲行きの怪しさを感じ取り、胃がきりきりと痛み始める。
「あれは、ライトリム王国の素朴な郷土料理だ」
「……厨房のレシピにあっただけだし」
小さな声で、慌てて取り繕う。声の調子が、自分でもわかるほど頼りなかった。
ユリウスは、こちらの様子を面白がるように口の端をわずかに持ち上げた。
「確かに、レシピ自体は出回っているだろう」
静かな、しかし確実に外堀を埋めていく声だった。
「でも、あれは家庭料理だから、その家ごとに少しずつ味が違う。君の作った料理は、王都の下町の食堂で出される味に、限りなく近かった」
終わった……。
内心で天を仰いだ。
一瞬、公人である王子が下町の味まで知り尽くしているわけがない。そう言い返そうとした。だが、反論を組み立てようとした瞬間、胸の奥から前世の記憶が溢れ出し、喉を強く塞いだ。
ユリウス様は、昔からそういう男だったわ。
記憶の奥底から、ユリウスの声がすっと蘇る。
『国の根底を支えているのは、城の中の貴族ではなく市民の生活だ。だから俺は、彼らが生きている空気や、味わっているものを直接知らなければならないんだよ』
それが王子としての責務なのだと真顔で語り、よく身分を隠してお忍びで城下町へ出向いていた。
侯爵令嬢という立場上、箱入り娘だったコートニーが、彼の下町探訪に同行することは叶わなかった。けれど城に戻ったユリウスは、いつも少年のように瞳を輝かせ、城下町で見た光景や、活気あふれる食堂の話を楽しそうに聞かせてくれた。
彼が言葉で描いてくれる色鮮やかな世界。コートニーは、まるで自分もその場に立ち、その空気や料理の匂いをこの目で、この肌で感じているかのように胸を躍らせ、話に聞き入っていた。
前世のあたたかな記憶が、容赦なく脳裏を駆け巡る。
だから私は、あのとき迷わずラム肉と根菜の黒ビール煮込みを作ろうとしたんだ。
無意識のうちに、彼がかつて愛おしそうに語っていた下町の味を再現しようとしていたのだ。
そのことに思い至り、コートニーは顔から火が出るほどの羞恥と焦燥に包まれた。否定しようにも、口を開けばまた過去の残像に追いつめられてしまう。
目の前で口の端をわずかに持ち上げているユリウスは、どこまで知っていてこの話をしているのだろう。
単なる味付けの偏りとして探っているのか。それとも――。
「ただの、偶然です」
不確かな思いを隠すように、はっきりと否定する。
コートニーは固く口を結び、今度こそ深く俯いた。胸の奥で激しく打ち鳴らされる心臓の音を、必死に押し殺す。
すべてが裏目に出ている。
密かに悔しがるコートニーに、ユリウスは畳みかけるように続けた。
「前に君は、俺を知っていると言っていた。俺を、大事な者と似ているとも」
金色の瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。
「もしかして、君と俺は、どこかで出会ったことがあるのだろうか」
どきりとした。
料理の件で見せた隙を突かれ、ここぞとばかりに核心へ迫られている。
この男は、本当に一枚どころか二枚も三枚も上手だった。感情を揺さぶって口を滑らせるだけではない。相手が何気なく発した言葉をひとつも見逃さず、静かに、しかし着実に真実へ近づいてくる。
だが、ここで頷くわけにはいかなかった。
「自信過剰すぎませんか? 他人の空似です」
わざと軽い口調で答える。
「それに、私が大事に思う方は、もっと優しい人でしたし。何より私を、愛してくれていましたし」
言いながら、侯爵令嬢だった頃、目の前の男と同じ顔と声をしたユリウスが、どれほど自分を大切にしてくれたかが堰を切ったように脳裏へ溢れ出す。そのせいで胸の奥が、きつく締め付けられる。
流行りのドレスを着て転びそうになれば、彼は周囲の目も気にせず、すぐさま抱き留めてくれた。社交界から向けられる厳しい視線に疲れ果てた夜は、城の庭園の影でそっとコートニーの手を包み込み、「何があっても、俺は君に側にいてほしい」と優しい声で囁いてくれた。
怪我をしたと聞けば公務を放り出して駆けつけ、コートニーの好きな甘い菓子をわざわざ城下にまで探しに行ってくれたこともあった。
どれほど多忙であっても、コートニーに向ける眼差しだけは、いつも春の陽だまりのように温かかった。ただ一人の女性として、深く愛してくれていた。
そうよ。私の知っているユリウスは、あなたみたいに意地悪で、冷たい人じゃなかった。
過去の記憶が甘ければ甘いほど、目の前にいる敵国の捕虜としてのユリウスの冷徹さが、胸の奥を刺すように痛む。
「そう。私はすごく、その人を愛してた」
口にしてから、自分の声が、思っていたよりも柔らかく響いたことに気づいた。
ユリウスは、しばらくコートニーの顔を見つめていた。何かを見極めようとするような、静かな視線だった。
「……そうか」
ユリウスは、否定されたことにも怒らず、ただ低く呟いた。
その金色の瞳が、わずかに揺れたように見える。どこか遠くを見るような、切ない陰りを帯びているようにも感じられた。
追及は、そこで止まった。
もっと踏み込んでくるかと身構えていたコートニーにとって、それは意外な引き際だった。もしかしたら、これ以上踏み込んでも今は答えが返ってこないと見切ったのかもしれない。
この男らしい、実に計算高い引き際だった。案の定、その日は、それきりで終わった。
一枚どころか二枚も三枚も上手とか、聞いてない……。
コートニーは内心でぼやきながら、疲れたように椅子の背へ体を預けた。無視を貫くつもりだった一日は、結局、丸ごとユリウスの手のひらの上で転がされて終わった。
そうして、無視をすると決めて任務につき、結局会話を交わしてしまう状況が一週間ほど続いた。




