第七章:芳しき乙女の国(二十二)
浦島との会話を終えて控えの間を後にした澪と季武は、夜風の吹く渡り廊下を静かに歩いていた。
「……よう頑張ったな、澪さん」
隣を歩く季武がふと口を開いた。
「一緒に来てくださって、ありがとうございました。結果的には思っていた以上にご理解いただけましたけど、一人では踏み切れませんでしたから」
澪は改めて季武を見上げて心からの感謝を伝えたが、季武がその返答に僅かに首を振った。
「浦島さんに話せたことももちろんやけど……。ここに来た経緯のことも……しんどかったやろ」
「あ……、そ、そうですね…。すみません、この前はお話ししなかったのに…」
澪はその言葉で、先日季武には詳細をはぐらかしたことを思い出す。
しかしその謝罪は季武に強く制止される。
「謝らんといて、言われへんくて当然や。”口にする”言うんは、ただ思い出すよりも鮮明に頭に思い浮かべることになるんやから。そんで口にしてしもたら……それが”本当に自分の身に起こったことや”って認めることになるやろ……。……そんなん嫌に決まってるわ」
「季武さん…」
季武の言葉にはなぜか強い実感が込められていて、いつもは笑って細められている目が、今にも泣き出してしまうのではないかと感じられた。
ーー口にすることは、自分の身に起こったことだと認めることーー
澪は季武が今言った言葉を頭の中で反芻させていた。
(……その通りだ。私が誰にも言えなかったのも、人に話せば、自分の身に起こってしまったことだって認めなくちゃいけなくなるからだった……。でもさっき浦島さんには自然と伝えることができた。それだけ、認めても心が傷まなくなったってことなのかな)
季武の言葉が澪の体内に染み入る。
気がつけば、澪は頬に冷たいものを感じた。
それは自分の涙だった。
辛かった、悲しかった、悔しかった、明確な感情があっての涙ではなく、気持ちの整理がようやくつき始めたことによる安堵からくるものだったが、それは止めようと思って止められるものではなかった。
見つかればきっと気を遣わせる。そう思った澪は、隣にいる季武にバレないよう、さり気なく目頭を指で押さえていた。
すでに二人は宿舎近くの橋に来ており、僅かな灯りしかない暗闇だったため、澪はこのまま気付かれずに別れられると思っていた。
その矢先ーー
「……澪さん…?」
衣擦れの音とともに、季武の声が届いた。
「す、すみません……。ちょっと季武さんの言葉が胸に刺さって、ぼーっと考えてました」
まだ気づかれていないと信じて、澪は少し俯きながら言い訳めいた言葉を口にした。
だが――
「……ほら」
次の瞬間、季武がそっと懐紙を差し出してきた。顔は澪の方を見ず、ただ手元だけがこちらを向いている。
彼にはすべて、見透かされていた。
「……季武さん……ありがとうございます」
澪はその懐紙をそっと受け取り、目元を押さえる。泣いていることには触れず、ただ横にいてくれる。それだけで十分だった。むしろ、それが何よりもありがたかった。
涙は不思議なほど止まらなかった。胸の奥に残っていた澱が、一つひとつ解けていくように、静かに頬を濡らしていった。
使い切った懐紙に気づいた季武は、黙って二枚目を差し出してくる。
「……大丈夫、大丈夫や」
「…っ」
季武は欄干の先の街のあかりを見つめながら、囁くように大丈夫と声をかける。
「澪さんは、この先必ず輝くで」
「……ふふ、なんだか……予言みたいですね」
「……せやな。…予言する。キミはこの先、どこにいても輝いてる。ボクの保証付きや」
「……え?」
”キミはどこにいても輝いてる”
その言葉に、澪はふと強い既視感を覚えた。
頭の奥に何かが引っかかり、思い出しかけたその瞬間――
ずきん、と鋭い痛みがこめかみを突いた。
「ん?……なんか変なこと言うた?」
冗談めかして季武が首をかしげたときだった。
「二人とも、こんなところで……どうした……?」
静かな声が、澪の背後から聞こえた。
驚いた澪が振り返ると、そこに立っていたのは――頼光だった。
「ら、頼光さん……」
なんとなく、彼には浦島を尋ねることを話していなかったこともあり、後ろめたさが勝って目をそらす。
しかし頼光は、澪の異変にすぐ気づいた。音もなく歩み寄り、その顔をそっと覗き込む。
「澪さん……泣いているのかい?」
その声音に、澪は思わず口元を引き結んだ。
「ちょっと、いろいろ思い出してしまって……。でも、季武さんと話して落ち着いてましたので、もう大丈夫ですよ」
笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。なんとなく後ろめたさが勝って、澪は頼光から半歩、距離を取る。
「……そう。夕餉の時刻になっても姿が見えなかったから、探しに行こうとしていたところだったんだ。澪さんは、少し休んでからくるといい。無理はしないで」
頼光は優しくそう言って、澪の選択を尊重するように言葉を続けた。
「ありがとうございます……。すみません、最後の夜なのに……。少ししたら落ち着くと思いますので、すぐ追いかけますね。季武さんもありがとうございました。」
そう言って澪は2人に一礼し、足早に宿舎へ戻っていった。
夜気に着物の袂を翻して、彼女の後ろ姿が静かに遠ざかっていく。
その背が見えなくなった頃、残された頼光と季武のあいだに、ふと沈黙が落ちた。
欄干越しに風が抜け、どこか湿った潮の香りを運んでくる。
頼光はその沈黙を破るように、ゆっくりと季武の方へ顔を向けた。
「昨日、一昨日が……嘘のようですね」
「陰陽師として、ためになること言うてるだけですよ」
含みを感じさせる頼光の一言に対し、季武はあくまで中立を装うような口調で答えた。
「……本当に、それだけでしょうか。ならば、どうして彼女は泣いていたのです?」
「……それは、個人の心に関わることや。ボクの口からは言えません」
「それは……ごもっともだ。では、卜部殿ご自身の心は? 貴殿も彼女に、特別な感情を抱いているように見受けられますが」
再び、しっとりと湿気を帯びた夜風が二人のあいだを通り抜けた。
「……頼光さんは、ホンマに澪さんのこととなると、ずいぶん様子が変わりますなあ」
「そうですね。この際なのではっきりお伝えしましょう。私にとって、澪さんは特別な存在です。」
頼光の声が少しだけ硬くなった。
「だからこそ、彼女が涙を流していたことが気になっている。そしてもしそれが、貴殿によるものだったのならば……正直、許し難いと感じているのです」
その言葉に、季武はわずかに肩を揺らした。笑ったのか、呆れたのか判然としない。
「……あの子が泣いとった理由は、いずれ頼光さんも知ることになりますやろ。早いか、遅いか。それだけの違いですわ。今ボクが言えるんは……その涙は、ボクが流させたもんやない。せやから、そんなに怖い顔せんとってください」
「…そうやって、はぐらかすのですね……」
頼光の言葉には、静かだが確かな怒りと苛立ちが滲んでいた。
握る拳に知らず力が入り、声の奥には焦りにも似た色が混じっていた。
その視線を受け止めるように一度だけ季武は頼光をまっすぐに見据えたが、すぐに視線を外し、くるりと背を向けて来た道を戻り始めた。
頼光が何も引き出せなかったと落胆しかけた、その瞬間だった。
「……”今来むと いひしばかりに 長月の”」
「…っ、それは……」
頼光の目が見開かれる。
「……解釈は、頼光さんのお好きなように」
それだけを言い残して、季武は晩餐の間へと静かに歩み去っていった。
頼光はその背が遠ざかるのを、しばらく呆然と見つめていた。
やがて、声が届かなくなるほど距離が開いた頃、ぽつりと呟く。
「――“有明の月を 待ちいでつるかな”」
そのつぶやきは夜の静寂に吸い込まれ、頼光は一つ、大きく息を吐いた。
「……彼女と縁があるのは、俺だけではないのだな」
その声には、自嘲の響きと、静かな覚悟が滲んでいた。
「今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ちいでつるかな」
古今和歌集におさめられている素性法師の和歌
訳:“今行くよ”と言ったあなたの言葉だけを信じて、長月(9月)の夜明けの月が昇るまで、ずっと待っていたのですよ




