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第七章:芳しき乙女の国(十九)

 宿舎まで戻ると、季武は「朝食をとってから乙姫の元へ向かう」と言い、澪と別れた。

 澪が自身の宿舎に戻ると、不在の間に使いの者が訪れたらしく、机の上には朝食の膳が丁寧に用意されていた。

 汁物はまだ湯気をたてており、置かれて間もないことがわかる。


 澪は箸を取り、静かに朝食を口に運んだ。

 この後は、頼光たちと街の捜査に向かう予定だ。思考を切り替えながら、澪はゆっくりと支度を整えていった。


 *



 澪と別れた後、季武は乙姫の私室を訪ねた。

 占術と陰陽術――月世と現世、それぞれの術を交わらせる特別な機会である。


 女中に導かれ私室に通されると、朝の光が柔らかく差し込む奥座に、乙姫が静かに座していた。

 装束は天女のような薄絹。身にまとう光すら透かしてしまいそうな繊細な装いが、彼女の存在をどこか神秘的に見せていた。


「ようこそ。昨夜のお話を覚えていてくださったのですね?」


「ええ。月世の占術を間近で拝見できるやなんて……こないな機会逃すわけにはいきませんわ」


「そう言っていただけて何よりですわ。私も話には聞いておりますが、陰陽師の術には兼ねてより関心がございました。では、まずは私からお見せいたしましょうか」


 乙姫は滑るように立ち上がり、卓の前へ進む。

 そこには黒曜石の皿と瑠璃の盤が並び、既に占いの準備が整えられていた。


「では――港守の行く末について、問うてみましょう」


 乙姫は目を閉じ、静かに息を吸い込む。

 細く、白磁のような指が筮竹を取って、六度、揲法しょうほうを行った。


 ぱら、ぱらーー

 その竹は黒曜石の皿に落ち、乾いた音が静寂を満たしていった。


 やがて、乙姫の指先が動きを止めた。


「……水地比すいちひ


 呟いたその声には、どこか諦観ていかんの念が滲んでいた。


 彼女は続けて、隣の瑠璃の盤へ手を伸ばす。

 玉を動かし、天の星図をなぞるように配置を整える。

 その動きは何者かに操られているかのようだった。


「”協調”、”内に秘めた慎重さ”、”心を尽くす”。東に“龍”、西に“虎”、天の四象は静かに揃い、内側の理が整っていく……。――自ら動くのではなく、他者から手を差し伸べられる時を待っている……」


 天の意を汲むかのような神聖な空気を身に纏った乙姫が静かに双眸を開いた。


「……どうやら、鍵を握るのは私のようですわね」


「竜宮様が言葉を尽くして向き合えば、事態は開ける……ゆうことですやろか?」


「……そうでしょうね。けれど、私が最も苦手とするところです。あまり対話は得意ではありませんから……」


「踏ん切りがつかへんのでしたら、今度はボクが占いましょう。月世の占術やったら、もっと摩訶不思議な力を使いはるんやと思いましたけど、意外や意外、ボクら陰陽師と近しい術を使わはるっちゅうことがわかりましたから。竜宮様にも今からお見せするものはボクの出まかせやないと分かっていただけますやろ」


 そう言って季武は自らの袖を軽く払うと、懐より一巻の占札と小さな印籠を取り出した。


「ボクが占いますんは……竜宮様と浦島さんの行く末……ということにいたしましょか」


 そう言って季武がにやりと口元に笑みを浮かべる。季武の言葉に乙姫は作り物のような唇をわずかに引き攣らせ、大きな瞳をわずかに見開いた。


 季武は八つの小さな木札に墨で記された「」を並べる。その手元は不思議と穏やかで、札が置かれるたび、場に張り詰めた空気が少しずつ変わっていくのが感じられた。


 そうして出た結果を見て、季武がふっと笑みをこぼす。


「……おめでとうさん、”沢山咸たくざんかん”ですわ」


 乙姫の睫毛がぴくりと揺れる。


「……なんのことでしょうか?」


 乙姫はシラを切ろうとしてか、季武の挑発的な眼差しに応えない。


「……ボクの口から言うてええんですか?」


 そう言ってこの掛の意味を伝えようと再び口を開こうとした季武にしゃべらせまいと、乙姫がすかさず口を開く。


「口になさらなくて結構です。当然、意味は理解しております。……して、何か気をつけるべきことはございますか?」


 核心を明言しないまま、乙姫は好奇心に抗えないかのように季武に問いかける。


「感情に流されないこと、ですやろな。お互いが負っている役割から逃げへんことが鍵やと思います」


 それを聞いて乙姫は形の良い唇の端をすっと弧に曲げる。


「なんだか、私の逃げ道を経とうとしているように思えますわ。これが本当に作為的でないと言えるのでしょうか?」


「ボクの作為とはちゃいますけど、もっとはるか高きところからの、”お導き”っちゅう名の作為かもしれませんなぁ」


「確かに、それもそうですね……。卜部殿、貴重なものをお見せいただきありがとうございました。私もおかげで覚悟を決めることができそうですわ」


 そう言って天女のごとき絹の羽衣をひらりとなびかせながら、舞のような所作で季武に礼をする。


「いえいえ、ボクもええ勉強になりました。お二人のこれからが幸多きものであるよう、祈っておきます」


「貴方も……因果の糸が複雑に絡み合っているように感じます。いずれその身に背負うものが軽くなることを、私もお祈りいたしますわ」


 乙姫がやられてばかりはいられない、と言いたげな笑みを浮かべながら、季武を見つめる。

 季武も一瞬間を置いてから息を吐く。


「それは占いではなく……竜宮様のお力ですか?」


「ふふっ、そのようなものです」


「そうですか……。軽くなる日は来るかわかりませんわ。自分で背負しょい込んでるようなもんやから」


 今度は季武が諦めたように笑う番だった。


 そうして乙姫に再び礼をして、季武が乙姫の私室を後にした。


 *



 季武のいなくなった部屋で、乙姫はしばらく一人で部屋の戸口を見つめて立ち尽くしていた。

 やがて季武の気配がなくなり、周囲に誰もいないことを確かめると、悶えるように足をばたつかせる。


 その顔は普段の作り物のような表情からは想像ができないほど、無邪気な喜びがその頬にあふれる。


「太郎と私の未来が”沢山咸たくざんかん”……。ふふ、素敵な結果ね……」


 誰に見せるでもない笑みを浮かべ、乙姫は少女のように喜びをかみしめた。



 *



 その頃――


 乙姫の私室を退出し、朝の渡り廊下をゆったりとした足取りで歩く季武。


 柔らかな風が吹き抜ける中、ぽつりと一人ごちる。


「男女で心が通い合う象徴とされる掛…。きっとご満悦やろうなぁ。当面は竜宮さんもボクらを無碍にはせんやろ」


 そう言いながら、袂に忍ばせた占札が、カサリと鳴る。

 季武の表情は穏やかだったが、その心の内には小さな企みがあった。


 ――望んだ未来に導くための、ほんの少しの作為。


 乙姫の“沢山咸”は、季武がそう出るように仕組んだ小さな嘘だった。


(……けど、願わくばあの結果が、ほんまに現実になってくれたらええな)


 そう思いながら、季武は陽だまりの先へと歩みを進めた。

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