第七章:芳しき乙女の国(十八)
朝の竜宮殿は、昨夜の静けさとは打って変わって、どこか清らかで張り詰めた空気に包まれていた。
木橋に水の波音が反響し、小鳥の囀りが高く澄んだ空へと溶けていく。
澪は早めに身支度を整え、宿舎の外で季武を待っていた。
(まだ、「自分が誰かに影響を与えること」が怖い。……でも、その不安がなくなる日は来ない気がする)
季武を待つ間、水面を眺めながら、澪は心の奥で静かに思いを整理していた。
(だったら、不安に向き合いながら、それでも誰かを信じて進むしかない。……季武さんが言ってくれた「一蓮托生」の言葉がある。私には、もう味方がいる)
澪は深呼吸をして、静謐な朝の空気を吸い込み、限界まで肺の空気を吐き出した。
その顔には、どこか吹っ切れたような明るさが戻っていた。
「おはよう、澪さん。待たせてもうたな」
背後から聞き覚えのある声がして振り向くと、羽織を軽く着流した季武がにこやかに立っていた。
目元はまだ少し眠たげだったが、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「おはようございます。……なんだか落ち着かなくて、早く出てきてしまいました」
「ボクは貞くんほどやないけど、朝弱いからまだもうちょっと寝てたいわ……。じゃ、行こか。浦島さんが起きてるとええんやけど」
そう言って歩き出した季武の横に、澪も並んで歩き出す。
朝靄の中の道は、どこか神聖な雰囲気だった。
途中で侍女の一人に声をかけると、すでに浦島が控えの間で執務を行なっているとのことだった。
竜宮殿の東廊に位置する浦島の控えの間へ向かう途中にも、すれ違う侍女たちが軽く会釈して通り過ぎていく。
澪はそのたびに軽く頭を下げながらも、徐々に緊張が募っていくのを感じていた。
(……大丈夫。私ひとりじゃない。脅しではなく、協力を得たいと伝えるだけ……)
頭の中で説明の仕方をシミュレーションしていると、
「澪さん、緊張するんやったらボクから話そか?」
と提案される。澪は驚いたように季武を見たが、首を横に振る。
「いえ、心配してくださってありがとうございます。これは、私が私のためにやりたいことなので、自分で話したいと思います。…ですが、もし私に至らないことがあったら、お力を貸していただきたいです」
「そのために横におるんやから、任せとき」
その言葉に、澪はふっと肩の力が抜けたように微笑んだ。
程なくして、控えの間の前に辿り着く。
外から澪が声をかけると、すぐに中から返事が返ってきた。
「どうぞ、お入りください」
部屋に入ると、机で羽織を着たまま帳面を読んでいる浦島の姿があった。
浦島が視線をこちらに向ける。
「おかけください、このような早朝にいかがされましたでしょうか?何か問題でもございましたかな?」
浦島は二人に机の前の椅子に座るよう促し、二人もそれに従って椅子に腰掛ける。
「朝早くに申し訳ありません。……お聞きしたいことがあって参りました」
浦島は帳面に目をやりながら耳だけ貸すつもりのようだった。
その様子を見据えながら、澪は拳を握りしめ、決意を込めて話し始める。
「単刀直入にお話しします。浦島さんは水の国出身ではないと伺っておりますが、……”現世”から、ここに来られたのではありませんか……?」
室内は一瞬、音が吸い込まれるような静寂が訪れた。
浦島の手が、帳面の上でぴたりと止まる。
視線が澪に向けられるまでの間に、ほんのわずかの間があった。
「……なぜ、そう思われましたか?」
「その理由をお話しする前に、まず私自身のことをお伝えしなければなりません」
そう言って澪は、水の国にいる間に頭に被っていた布を取り払った。
季武が横で小さく息を呑む。
その姿を見て、浦島の表情がわずかに動く。
「……なるほど、火傷の痕があるというのは嘘だったというわけですね。して、貴殿が顔を隠していたことと、私が現世からきたということと、一体何の関係があるのでしょうか?」
浦島の声は固い。それは無意識に触れられたくない部分を守ろうとする防衛本能のようだった。
「あなたが現世から来たと思ったのは、他でもない、私自身が浦島さんと同じような経緯で現世から来たからです」
「……何?貴殿らは月守の力を借りてこちらに来たのでしょう?…私と同じというのは意味がわかりませんな」
「私以外はおっしゃる通り月守の力でここへ来ました。ですが私は、気がつけば現世から月世へ来ていたのです。私がなぜそうなったのか……それは私がどこかで月守の血を引いているからと推測しています」
澪の話の真偽を確かめるように、浦島は澪の布の取り払われた顔をまじまじと見つめる。
澪は話を続ける。
「その月守の力の一部…だと思いますが、私はあなたが現世でお母様を亡くされて、元々親子で肩身狭く生きてこられて、この世への未練がなくなり、自殺をしようと思われたこと、そして海に飛び込んだのに、気がつけば水の国にいたこと……、これらの経緯を私はすでに”知っています”」
澪は本のことには触れず、月守の特殊な力という話で説明をつけた。
その話を聞き、月守の力というものの絶対性を感じ取ってか、浦島は言い逃れができないと観念したように、ふっと短く息を吐き、帳面を閉じた。
「……卜部殿に昨日私がここへ来るまでに自殺しようとしたことは伝えておりましたが、母がいなくなったことがきっかけということは伝えていなかった。その情報を知られているならば、言い逃れはできますまい。すでにご存知ということは、私には認める以外の答えはないわけですな。……して、それを私に尽きるつける理由は何ですかな?」
澪はここまでは限りなく自分の希望通りにことが運んでいることを喜びながら、本番はここからだと気を引き締める。
チラと季武を見ると、見守るような視線を向けられていた。
その視線にも勇気づけられるように澪が先を続ける。
「お伺いしたいのはただひとつ。浦島さんがどうして月守の力を介さず、この月世に来られたのか。そのことを、教えていただけませんか?」
その答えに虚をつかれたのか、浦島が一瞬驚いたような表情をしたあと、ふっと口元を緩めた。
「改まった様子でしたので、どんな脅しを受けるのかと思っていましたが、そんなことですか……」
「脅すだなんてそんな……。私は今後何かあった時のために、良好な関係を築きたいのです。それに……浦島さんと竜宮さんの絆に影を刺すようなことは、したくありませんから……」
澪が乙姫の名前を口にしたことで、浦島は緩めた口元を再び緊張でこわばらせる。
「貴殿は…どこまでご存知なのでしょうか……」
「おそらく、浦島さんがここに来られた経緯については一通り……」
「……そうですか。月守の血というのは、そのようなことまでできるのですね…。わかりました。ご期待に添えられるかわかりませんが、ここに来るまでの経緯をお話ししましょう。しかし、私がここに来てからいく日がすぎ、少し曖昧な部分もあります。少し当時のことを思い出す時間をもらえますか?今晩再びお二人でここへお越しください」
澪は浦島が承諾したことで肩の力を静かに緩めた。
「ありがとうございます。今晩、よろしくお願いいたします。」
澪は深く一礼するそのまま季武に視線を向けて、部屋を出ようと視線を送る。
季武が澪の視線に頷き返すのを見て、澪は手に持っていた布を再び被り直し、二人は控えの間を退室する。
二人が退室するのを見送りに立ち上がった浦島が、澪に話しかける。
「卜部殿とお二人という組み合わせは意外に思いましたが、貴殿らは不思議と似た雰囲気を纏っておられるような気がしますな」
「……そう…でしょうか?」
「ええ。……知己の仲というわけではないのですよね?」
「はい、まだ出会ってひと月も経っていません」
「確かに会って間もないけど、こうして頼りにされとるくらいやし、縁があるんかもしれへんなぁ。ほな浦島さん、また今晩に」
季武がさらりとかわし、二人は浦島の部屋を後にした。
*
「ついて来てくださってありがとうございました。おかげで無事に浦島さんにお話することができました」
澪がついて来てくれたお礼を季武に伝える。
季武はいつものように読めない表情でにこやかに答える。
「思った以上にすんなりいったし、ボク隣におらんでもよかったんちゃう?」
「そんなことはないですよ!心強かったです。それに実際にお話ししてみて、自分が想像以上に勝手に恐れていたんだなということに気がつきました。…ですから、季武さんにお話ししてよかったと思っています」
「ベタ褒めやな、そない言われると照れるわ」
季武の表情は相変わらず読めなかったが、大事な情報を共有しているという状況がそうさせるのか、澪は本音が見えなかったとしても信頼できる人だと思うようになっていた。




