第七章:芳しき乙女の国(十七)
晩餐の後、湯浴みを終えた澪は、静かに宿舎の戸を抜けた。
火照った肌を夜風が撫で、少しずつ熱を奪っていく心地よさがあった。
(……話すなら、今しかない)
そう心に決め、澪は季武のもとへと歩を進めた。
浦島のこと――そして、なぜ季武が自分の持つ本の文字を読めるのか。確かめるべき問いが、胸の奥で脈打っていた。
宿舎を結ぶ木橋を渡り、夜の静寂に包まれた季武の宿舎の前に立つ。戸をそっと叩いた。
「……季武さん、起きてますか?」
一拍の静寂の後、柔らかな声が返ってきた。
「起きてるよ。入ってええよ、澪さん」
戸を開けると、畳の真ん中に据えられた囲炉裏の火に照らされた季武が、湯気立つ茶器を手にゆったりと座していた。上掛けの羽織の袖をまくり、どこか穏やかな面持ちで火を眺めている。
「こんな夜更けに一人で来るなんて……えらい信用されてるみたいやね」
軽口を叩くその口調はいつもの彼らしいものだったが、澪は思い詰めていたため、すぐには反応できなかった。
そんな様子を察したのか、季武は静かに囲炉裏のそばに座るよう促す。
澪が膝をつくと、彼はもう一つの茶器を澪の前へと差し出した。香ばしく、どこか落ち着く香りの湯気が立ち上っている。
(お茶、なのかな……?)
「……ありがとう、ございます」
澪は両手で器を包み込み、一度口をつけた後、しばし火を見つめる。
そして意を結したように、ゆっくりと口を開いた。
「季武さんに……相談したいことがあるんです」
「……せやろな。なんや思い詰めた顔してどないしたん?」
優しく言いながら、季武はまっすぐに澪を見る。
そこには構えも疑いもなく、ただ“聞く姿勢”があるだけだった。
「……この本の中身を見ていただけないでしょうか?私からお伝えするよりも、直接見ていただいた方が早いと思いますので」
そういって、澪は袂から本を取り出し、季武に祖母の本を差し出した。
ーーこの本が頼光や貞光には読めなかったという事実を伏せて。
季武は静かに頷き、本を受け取る。数ページをめくるごとに視線が動き、ときおり内容に目を止めている様子がうかがえる。
(やっぱり、季武さんには”読めてる”)
本を閉じた時、何を言われるのかとドキドキしながら季武の様子を見守る。
やがて季武が本をパタリととじ、澪の方へ向き直った。
「埋まってるとこがこの前の土の国も物草家の話と、今の竜宮家と浦島さんのお話のところなんやね。そんで、浦島さんは現世から来た人っちゅうわけか……」
澪は自分と同じように内容を把握できている事実に内心で驚きながらも平静を装って答える。
「そうなんです。……それでご相談というのが、浦島さんのことなんです」
「……浦島さんも正規の方法を使わずにこの世界に来たんやったら、本人にそのことを聞いてもええやろか?……ってことやな?」
「……はい。おっしゃる通りです」
澪は言葉を選びながら続ける。
「季武さんのお話では、月守の血を引いていなければ、この世界に渡ってこれないと聞きました。ということは、浦島さんにも……その血が流れている可能性があります。
それだけじゃありません。私と同じように“本”を持っていた可能性だって……もしかしたら、浦島さんは私の遠い祖先なのかもしれない。だから……何か、知っていることがあるかもしれないって」
そう語る澪の声は、どこか震えていた。
「……でも、浦島さんにそれを聞くには、私が異端な存在だとバレる可能性を覚悟しなければなりません。なので勝手な判断で動くわけにはいかないと思って……ご相談させていただきました」
沈黙が流れたあと、季武はふっと肩を揺らして微笑んだ。
「……その相談、頼光さんやなくて、ボクにするんやな」
「え……?」
「いや、正直言うてちょっと意外やってん。昨日の一件もあるし、キミに距離おかれるて思てたから……。それやのに“頼りにされた”ってわかった瞬間、なんか……嬉しかったんやわ」
冗談めかした口調に照れ隠しが滲むが、笑みの裏にあったのは、誠実な喜びだった。
「……それは…」
澪が言葉を濁し手元の茶器を見つめたが、すぐ決断したように季武を見据える。
「……その話をするには、お伝えしなければならないことがあります。この本は……頼光さんと貞光さんには読めなかったんです」
「読めなかった……?」
季武の片方の眉が僅かに動く。澪が続ける。
「おふたりは文字として認識できない、とおっしゃっていました。でも季武さんには読めた……私は、貴方が私と同じ時代から来たのではないかと……考えています。陰陽師が過去に渡れると言ったのは季武さんです。貴方は、私と近い時代から過去に渡って、今ここにいるのではありませんか……?」
澪が季武の反応を見逃すまいと、真っ直ぐに彼を見据える。
「……なるほど……。ボクは試されてたわけやな……」
季武は、湯気の立つ茶器を手のひらで転がしながら、ほんのり笑っていた。
「騙すようなことして申し訳ありません。でも、もし同じ時代から来たなら、いろいろお聞きしたいことが一一」
「期待を裏切るようで悪いんやけど、その推測は間違ってるわ。……ボク自身は過去に渡るほどの霊力もない、しがない陰陽師や。……やから、その本が読めたんはなんでやろな……。こないなボクでも陰陽師やから頼光さんたちとちごて、理の外側におるんかな……?」
澪の話を遮るようにそう言って、変わらない笑顔で推測を否定した。嘘をついているようには見えなかった。
季武の答えを聞き、澪は肩を落とす。
「そう……ですか……。すみません、もしかしたら……と、ちょっと期待してしまいました。そうですよね…そんなこと、あるはずないですよね……」
「期待に応えられへんくて堪忍な。お詫びと言っちゃなんやけど、浦島さんに聞くんは協力するわ」
「お詫びなんて…。勝手に疑ったのは私です。でも、ご協力していただけると心強いです。それと…これは季武さんに聞くことではないのかもしれないのですが…喝を入れて欲しくて……」
「喝……?」
澪は再び改まった様子で、季武の横に置かれた本に目線を送る。
「今、ここに書かれている”ものくさ太郎”や”浦島太郎”の物語は、もともと私が知っていた別のお話が書かれていました。ですが、それと今書かれているものは似て非なるものなんです。自分が知っている話から得られる情報を、どれだけあてにして動いていいのかわからなくて…」
思えば、それは浦島太郎の話が浮かび上がってから、特に感じるようになった悩みだった。
主体的に動かなければと思う一方で、知らない物語が動いているこの世界で、自分がこうに違いないと動くことで、悪い未来につながってしまわないか。
この物語を”正して”と言われ、ここに来たからこそ、迂闊なことをしてはいけないと無意識下で影響が出そうな行動を避けてきていた。
もし同じ世界にいたなら、同じ話を知ってるはず。だから元ネタを知るもの同士で相談しながら行動が決められるのではないかと期待していたが、そのあては外れてしまった。でも、陰陽師で自分の知らない世界を知っている季武なら、同じ現世から来ていなくても、この話をしてもいいのではないか。
澪は自分の迷いを断つために、季武の力を借りたいと思うようになっていた。
「下手に動いたら、誰かを不幸にするかもしれへん…。それが怖い…か?」
「はい。この本を”正して”と言う声を聞いたから、余計にそう思うのかもしれません。私が動くことで生まれた悪い影響が、”正す”ことにつながっていたら…そう思うと、怖いんです…」
この発言が、今の自分の核となる恐怖心であると、澪は腑に落ちるのを感じた。
頼光や季武に言われ、月守と陰陽師の血を引いていて、来るべくして来たかもしれないと知った。
そして昨晩は真実を見落としていないだろうか?と不安に苛まれた。
もちろんそれも不安の一つには違いない。
けれどそれ以上に、自分の与えた影響が、いつかこの本に刻まれることになるのではないか?それが必ずしもここに出る登場人物にとって、いいことばかりではないのではないか?…と、
他人に与える影響を、受け止められるだけの覚悟が、全くできていなかった。
ようやく自分の胸のモヤの正体がわかったことで、意外にも澪の内面は落ち着いていた。
「確かに、澪さんが与える影響は、もしかしたら良いもんばっかりではないかもしれへん。それはボクにもお世辞は言われへん。……やけど、陰陽師として言わせてもらうと、キミがそういう星の下でここに来たんやったら、その結果もひっくるめて、真実なんやと思う。やから……向き合うことを恐れんとって」
柔らかな、いつもの軽い調子とはちがった声色で続ける。
「それと。……どんな結果になっても、ボクは一蓮托生や。……それだけは覚えとって」
季武の鋭い視線が真っ直ぐに澪の目を射抜く。その言葉に、澪の心臓が思わず跳ねた。
「……季武さん」
「さっ!夜も遅いしもう寝るで。部屋まで送るわ。」
張り詰めた空気を取り除くように、季武が膝をパンっと手で叩き、そのままの勢いで立ち上がる。
自身の横に置いていた澪の本を手に取り、そのまま扉まで向かい、有無を言わせず澪を外へ誘う。
澪も慌てて立ち上がり、導かれるままに季武の後を追った。
それから道中では、浦島とは明日の朝話をしようと言うことで、明朝に二人で集合する段取りをつけ、澪は季武に送り届けられて宿舎へ戻っていった。
*
澪を送り届けた後、星のない空と、揺れる水面に包まれて、銀髪の髪を靡かせながら、季武が一人自室に戻る橋を歩く。
その顔には、いつもの貼り付けたような笑顔はなく、ただ茫然と一寸先のみを見ているだけだった。
「……堪忍な。”今はまだ”何も言われへんねん」
内に抱えきれずに口をついてでた言葉は、暗闇の中に溶けていった。




