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第七章:芳しき乙女の国(二)

 

 澪が次に目を覚ましたのは、空がほんのりと白みはじめた頃だった。

 慣れない船旅のせいか、熟睡とはいかず、身体の芯にわずかな疲れが残っている。


 屋形の中を見渡すと、季武と金時がまだ静かに眠っていた。けれど、頼光の姿だけが見えない。


 (もしかして、もう起きているのかな……)


 気になった澪は、二人を起こさぬよう静かに身を起こし、そっと屋形を出て甲板へ向かった。


 朝の海風がひやりと頬を撫でる。まだ夜の名残を残す水平線の先で、頼光は船頭の傍らに立ち、遠くを眺めていた。


 澪がそっと近づくと、気配に気づいたのか、頼光がゆるやかに振り返る。


「……澪さん?」


「頼光さん、もしかして一晩中眠っていないんですか?」


「万が一の備えだよ。ときどき仮眠は取っているから、心配しなくて大丈夫」


 そう言う頼光の目元には、どこか疲れの色が滲んでいるように見えた。先入観もあるのかもしれないが、澪は胸の奥がざわつくのを覚える。


「もしよろしければ、少しだけお休みになってください。私、目が覚めてしまいましたし、何かあればお声をかけますから」


 頼光は一瞬迷うように澪を見つめたあと、ふっと微笑を浮かべた。


「……じゃあ、少しだけ甘えようかな」


「はい。任せてください」


 頼光はその場に腰を下ろし、背中を帆柱に預けて目を閉じる。澪はそっとその隣に立ち、同じように海の向こうを眺めた。


 しばらくして、目を閉じたままの頼光がぽつりと呟いた。


「こうして澪さんと、二人で話すのは久しぶりな気がするな……」


「そうですね。戻ってから、頼光さんはずっとお忙しそうでしたし……」


「澪さんは昨日、綱と稽古していたね。あいつ、意外と教えるのが上手いだろう?」


「はい。身体の使い方を丁寧に説明してくださって、とても分かりやすかったです」


「認めた相手には、面倒見がいいんだよ。昔から、そういうやつなんだ」


 波の音が、ふたりの間の沈黙を優しくつないだ。


 少しして、頼光がまた静かに口を開く。


「……最近は貞光ともよく話してるみたいだね。本のこと、かな?」


「はい。碓井さんと話すと、自分では気づけなかったことが見えてきたり、考えが整理されたりするんです。とても助かっています」


「……そっか」


 それきり、また短い静けさ。


「澪さんがここに来て、まだ半月にもならないけれど……もう、すっかり馴染んだね」


 頼光の声はどこか遠く、感慨を含んでいた。


「皆さんが優しくしてくださるので。でもそれもこれも、頼光さんが居場所を作ってくださったおかげです」


 その言葉に、頼光は肩を揺らし、小さく笑った。


「……なんだか、言わせてしまったみたいだね」


「そんなことありません。本当に感謝していますから」


「……ありがとう」


 頼光はそのまま、ゆっくりと目を閉じた。そしてすぐに、静かな寝息が聞こえてきた。


 (……お疲れだったんだろうな)


 澪はそっと頼光の顔を見やり、それからまた波間へと視線を移した。空は、夜と朝のあわいを漂いながら、少しずつ明るさを増してゆく。



 *



 ーー澪が頼光と交代する少し前。


 季武は澪が起きた物音で目を覚ましていた。元々深い眠りには着いておらず、どこかでずっと意識があるような眠りだったこともあり、少しの物音でも覚醒する状態だった。


 季武は体を起こすことなく、静かに寝息を装う。だが耳は、遠ざかる足音を追っていた。


 少しして、今度は甲板から、低く穏やかな声が聞こえてくる。風と波の音に紛れそうな頼光の声と、それに応じる澪の声。言葉の輪郭は掴めない。けれど、その音の柔らかさと、言葉を交わす間の静けさが、ふたりの距離を物語っていた。


 ふと、季武はごろりと寝返りを打つ。屋形の隙間から、うっすらと朝の光が差し込んできている。その先に澪と頼光の影が見えた。


 頼光は座ったまま眠っているようだった。その隣には、まっすぐ海を見つめる澪の姿がある。風になびく髪を押さえることもせず、ただそのまま海と空の境を見つめていた。


 ふたりの間に言葉はない。それでも、並んだ肩の距離が、互いに静かな心を交わしていることを感じさせた。


 季武は、その距離を見つめる。


 遠くもなく、近すぎもせず。


 それは、傍で見ている者にしか気づけないような、繊細な間だった。


 すでに睡魔は彼方へいき、まんじりともできなかったが、季武はそっと目を逸らし、背を向けて横になった。


 船はなおも緩やかに水の国へ向かっていた。



 *



 空がすっかり明けきる頃、船はゆるやかに湾へと進み入っていた。空と海の境目はほとんど消え、朝の淡い光に染まった水面が、まるで白絹のようにたゆたっている。


「……見えてきました」


 甲板に立った澪が思わずそう呟く。

 船首の先、波の向こうに浮かぶのは、水の国の港――浅葱色の水面に映える白い岸壁と、幾つもの楼が連なる港町だった。


 その建物はいずれも屋根が丸みを帯び、曲線を多用した優美な造りをしており、遠目にも「女性の国」と称されるのが頷ける景色が広がっていた。港の先には大小の水路が張り巡らされ、あたかも町全体が水の上に築かれているように見える。


「すごい…水路を移動するんだね……まるで浮き島みたい」


 金時が感嘆の声を上げる。隣で季武も小さく頷いたが、その目は港に立つ数人の迎えの影へと向けられていた。


「迎えが来てる。……白い装束の女性ばかりだな」


 頼光も甲板に出てきて、その一団に目を留める。

 たしかに港に整列しているのは、皆一様に水色や白を基調とした衣をまとった女たちだった。年若い少女から中年の女性まで、穏やかながらも整った立ち居振る舞いが印象的だった。


「女性だけの一行か……やはりこの国は、男にとっても少し異質かもしれないね」


 頼光がぽつりとそう言い、澪に視線を向けた。

 澪はすでに顔を隠すため、頭から布をかぶっていた。


「澪さん、くれぐれも“今の姿”を崩さないように」


「……はい。心得ています」


 澪は晒で締めた胸元にそっと手を置き、小さく頷いた。


 やがて船が岸に到着し、一行は静かに船を降りる。

 その瞬間、澪の足元に、やや冷たい潮気を含んだ風が吹き抜けた。


 ――ここが、水の国。


 澪はふと、『浦島太郎』の一節を思い出していた。

 あの物語に登場する竜宮城は、こんな空気をしていたのかもしれない。


 だがそれと同時に、何か胸の奥で静かに波立つものがあった。

 それは自分がここで目をつけられてはいけないと思う警戒心と、浦島太郎の幸せと思えない物語の終わりを思い出したからかも知れない。

 朝の光はやけにまぶしく、鋭く澪の瞳に刺さっていた。


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