第七章:芳しき乙女の国(一)
『浦島太郎』
むかしむかし、あるところに、浦島太郎という心の優しい漁師がおった。
ある日、浜辺で子どもたちが亀をいじめておるのを見た太郎は、かわいそうに思って亀を助け、海へ逃がしてやったそうな。
それから数日後のこと。釣りをしておった太郎のもとに、大きな亀がやって来た。
「あなたに恩返しをしたい。竜宮城へお連れします」
太郎がその背に乗ると、海の底にあるという美しい御殿──竜宮城へと連れて行かれた。
そこでは乙姫という、それはそれは美しい姫が待っており、太郎を手厚くもてなしてくれたそうな。魚たちは舞い踊り、竜宮城の暮らしは夢のように楽しい日々であった。
けれど、やがて太郎は地上の母のことを思い出し、帰ることを決めた。
乙姫は別れを惜しみながらも、「決して開けてはなりません」と言って、玉手箱という不思議な箱を太郎に手渡した。
太郎が地上に戻ってみると、見覚えのあるはずの村の景色はすっかり変わり果て、家も、人も、なにもかもが見知らぬものになっておった。
人に尋ねてみると、自分の名は何百年も前の伝説の人物の名だと言う。
太郎は愕然とし、乙姫からもらった玉手箱を、つい開けてしまう。
すると、箱の中から白い煙が立ちのぼり、見る間に太郎は白髪の老人になってしまったそうな――
〜〜〜〜〜
翌朝、澪は男性的なシルエットに見えるよう、晒で胸元を平らにし、腰回りにも布を重ねて慎重に身支度を整えた。呼吸に支障のない程度に締め具合を確かめ、荷を手に離宮の前庭へと向かう。
青空の下、旅支度を済ませた頼光、金時、季武の姿がすでにあった。頼光は穏やかに澪を迎え、季武は軽く会釈をする。金時は大ぶりの双剣を背に、いつも通りにこにこと笑っていた。
「おはよう、澪さん。準備は万端かい?」
「はい。荷物もできるだけ軽くしてきました」
そう答える澪の腰には、綱から譲り受けた懐刀が差されていた。その小さな重みが、心に静かな緊張を与えている。
頼光が落ち着いた声で説明を続ける。
「今回向かう水の国は、距離的には土の国と大差ないが、海を越える必要があるため、船上で一夜を過ごすことになる」
「月世の海はずっと凪だから、酔ったりはしないと思うよ」
金時が頼光の説明に補足を加える。
「承知しました。……船上で一晩過ごすのは初めてです」
「四人が足を伸ばして休める大きさの船を手配してあるけど、でももし気分が悪くなったりしたらすぐに言ってね。」
「は、はい……!」
「天気もええし、土の国とは違った景色が楽しめるんとちゃうかな。せっかくやし、ゆるりと参りましょ」
不安げな顔を見せた澪に、季武がさりげなく声をかける。その言葉に背を押されるようにして、澪も少しだけ表情を緩めた。森とは異なる景色を見られるというだけで、心がすこし明るくなる。
出発直前、今回留守番となる綱と貞光も見送りに姿を見せた。
「望月さんの言っていた地名はこちらで調べておきます。戻られたら、またお話を」
他の者には聞こえないような声でそう告げる貞光に、澪は小さく頷いた。
こうして二人に見送られながら、一行は月影離宮を後にした。
*
港に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
金時の言う通り、海岸に寄せる波は静かで、水面は空の青を映してきらきらと輝いていた。潮風が肌に心地よく吹き抜ける。
岸辺に浮かぶ船を目にした澪は、思わず息を呑む。木造の船は想像よりもずっと大きく、どこか異国のもののように見えた。
「……思ったより、大きい船なんですね」
「このくらいないと、揺れて船酔いで死にそうになるからね」
驚く澪に、頼光が答える。
船頭への挨拶を済ませ、四人は船に乗り込んだ。
潮の流れに乗って静かに滑り出すと、水面が空の青と溶け合ってゆらめいた。
甲板に立った頼光が振り返り、皆に言葉を投げかける。
「この海を越えた先が、水の国だ。女性の当主が治める、月世でも珍しい国。占術を得意としていて、月世の中でも月守の一族に最も近い存在と言われている。警戒を怠らず、礼を忘れぬように」
「りょーかい!」
金時が軽く手を挙げて応じ、季武は無言のまま頷く。
澪は波の音に耳を澄ませながら、遠ざかる港を見つめていた。越えた先には、どんな人々がいて、どんな世界が広がっているのだろう。
彼女の胸には緊張と期待がしめていた。
*
日はすっかり暮れて、夜の帳が海を包んでいた。
澪たちの乗る船は、月光に照らされながら、静かに水面を滑ってゆく。聞こえるのは、櫂が水をかく音と、かすかな潮のざわめきだけ。空には雲ひとつなく、星々が鏤められ、凪いだ海にその光が映っていた。
澪は屋形の片隅に腰を下ろし、肩から羽織を引き寄せた。潮風が思ったより冷たく、日中とは違って肌に染みた。
「寒くない?」
ふと隣から声がかかった。金時だった。彼は羽織も着ずに澪の側に寄ってきた。
「ちょっとだけ。でも、大丈夫だよ……金時さんは?」
「オレ? オレは暑がりだから平気〜」
そう言ってにこりと笑った彼の顔が、月の光を受けてどこか柔らかく見えた。
「澪さんは現世で海ってよう見てたん?」
少し離れたところで座っていた季武が話しかける。
「……いえ、そんなに。実家の近くに海はなかったから、たまに旅行で見るくらいでした」
「そうなんやね。こっちの海とはちゃう?」
そう問われ、澪は少し考える。
「……似ているけれど違う気がします。静かだけど、底が見えないくらい深くて…現実の海よりも、少し夢の中みたいな感じがします」
「夢の中みたい、か……ええ表現やね。ずっと見てたい気もするし、でも呑まれそうな底知れなさがあるような」
「……そうですね。季武さん、海は慣れてらっしゃるんですか?」
「いや〜、ボクも海のないトコで育ったから滅多に見てへんなぁ。新鮮な気持ちやわ」
「オレも山育ちだから海って片手で数えるくらいしか見たことない!」
3人で話しているところに頼光が戻ってくる。頼光は布に包んだ包みを手にしており、それを3人に手渡した。
「夜餉だ。簡素なものだが、腹は満たせる」
その包みの中には、海藻でくるんだ握り飯が四つ。塩と、干し梅が中に仕込まれている。澪はそっと手に取り、感謝をこめて小さく頭を下げた。
「ありがとうございます……いただきます」
乾いた海苔のような海藻を噛み締めると、ほどよい塩気が口に広がる。中の梅の酸味が、かえって空腹を心地よく刺激した。船上で火を焚くことが難しいことは知っていたが、それでもこうして用意されたものがあることに、澪はほっと胸を撫で下ろす。
「塩だけでも、お腹がふくれる気がするなぁ」
金時がそう言いながら、握り飯を片手で持ち、大きくかじる。口いっぱいに頬張りながらも、どこか満足そうな顔だ。
「塩と梅……海の上でも傷まんよう工夫されとるんやな。ようできとる」
季武も黙々と口に運びながら、感心したように呟いた。
夜の海を背景に、屋形の中は静かだった。余計な言葉がいらない、旅路の仲間としての距離感が、そこにはあった。
「明日は朝方には水の国に着く予定だ。今夜はしっかり眠っておけ」
頼光の静かな声に、皆が頷く。
食事を終えると、それぞれが敷かれた布の上に横になった。金時は早々に仰向けになり、星を数えるように空を見上げている。季武は風下の端に体を収め、目を閉じた。
澪も横になる。揺れを感じる中で寝る経験がなく、初めは不思議な感覚だったが、歩いた疲れが出たのか、目を閉じれば、遠い潮騒とともに、心もゆるやかにほどけていった。




