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第六章:旅立ちのあわいに(二)

 朝の光が広間をやわらかく照らす中、澪は湯飲みを手に、ひと息ついていた。


 金時と季武は、澪の代わりに仕立て屋へ衣装を受け取りに行くと言い残し、すでに外へ出ていた。


(……本当に、よくしてもらってばかりだな)


 昨日のにぎやかな買い物や市の景色を思い返しながら、澪はぼんやりと湯気を見つめていた。


 ふと広間の戸が開き、茶を飲みに来たのか綱が入ってきた。ふと視線がぶつかる。


「渡辺さん、おはようございます。お茶、飲まれますか?」


「おはようございます。ああ、いただけるだろうか。ーー急いでないから」


 立ち上がろうとする澪に、綱は付け加えるように急いでいない旨を伝える。

 澪が頷いて湯呑みの支度をしていると、ほどなくして頼光も姿を見せた。


「おはよう。澪さん、俺も一杯もらっていいかな?」


「もちろんです。お二人分、用意しますね」


 澪が手際よく湯を注ぐ姿を見て、綱が感心したようにつぶやいた。


「ずいぶん手慣れてるんだな」


「確かに。もともと女中をしていたわけではないんだよね?淹れ方も手際がいいし所作も綺麗だ」


 意識していないことを褒められ、萎縮しながらも澪が頼光の疑問に答える。


「はい、私のいた世界では階級制度がなく、女中に近い職業はありますが、それも特別なお金持ちでなければ雇えません。なので私にとってはこういったことは自分でやることの一つだったんです。慣れてると思っていただけるのは、母の実家が昔ながらの家だったので、来客の際によく手伝っていたからかもしれません」


「なるほど…。私たちとは随分と環境が違うのだな」


「そうですね……」


 自分がおそらく未来の世界から来たということは伏せつつ、澪は曖昧に返事をした。

 頼光が澪の返答を受けて興味深そうに続ける。


「澪さんが来てからも何かとせわしなかったし、ここに来るまでの経緯は聞いたけど、暮らしぶりまでは詳しく知らなかったよね。よければ教えてくれない?」


「そんな話でよければ。わかりづらい部分もあるかもしれませんが……私は大学というところに通っていまして」


「大学? 大学寮だいがくりょう※とは違うのかい?」


「大学寮…?というのがあるんですか?私たちの世界では、12歳まで義務教育を受けた後、さらに高等学校を経て、大学という場所で専門分野を学ぶんです。専門学校だったり進路は大学だけではないんですが…」


「なるほど…澪さんはそこで何を学んでいたの?」


「古典文学を中心に学んでいました。祖母の影響で好きになりまして。皆さんにとっての”詩経しきょう※”のようなものを学ぶ、と言えば伝わるでしょうか?」


「驚いたな……詩経を知っているとは。それこそ大学寮で学んだ内容だよ」


「いえ!詳しく知ってるわけではないんです。存在を知ってるくらいのもので…」


「なるほど…仕事は何かしていたのかい?それともその大学というところにずっと?」


「基本的には大学で過ごすのが中心だったんですが、何かとお金は必要なので、学業に支障が出ない程度に働いてもいました」


「へえ…。何をやっていたの?」


 頼光が澪の話す新たな情報を興味深そうに聞く。


「個別指導の塾というところがあって、それはさっき言った高等学校に通うくらいまでの年齢の人が、より高度な勉強をしたり、自分の苦手な部分を教えてもらうために行く学び舎のようなところなんですが、そこで先生をしていました」


「先生までやっていたの?すごいね」


「そんなに大したものではないですよ! もともと祖母が先生をしていて、辞めた後に家の一角で個人塾を開いてまして、自分が高校生くらいの時まではたまにそこで小中学生の子たちに教えたりもしていたので、自分に馴染みがあるってことで選んだものだったんです」


「そうなんだね。教えることが好きだったのかい?」


「そうですね…、教えるのが好きというよりは、どうやって説明したら伝わるんだろう?とかわかってもらえるんだろう?とか、自分ではわかってるつもりでも人に伝えるとなると知ってる以上の知識や理解度が必要で、なんとか伝わるように工夫することが、楽しかったのかもしれませんね」


「そうか…君から教わっていた人はきっと幸せだっただろうね」


「うーん、そうでしょうか? 私の説明は細かすぎてよくわからないって言われたこともありましたし、あんまり教えるのは上手じゃなかったと思います…」


澪はそう言いながらふと、祖母の塾を手伝っていた高校時代を思い出す。

大学先で下宿するようになって足が遠のいていたが、今頃当時の中学生も大学生になったり大学受験を控えていたりとそれぞれの道を歩んでいるんだろうな、と考えると感慨深い気持ちになっていた。


「やはり聞けば聞くほど家柄も上流の家系だったのではと思うが…。 それこそ月守の一族とかーー」


 頼光と澪の会話を茶を飲みながら聞いていた綱が、唐突に腑に落ちないというように澪を見ながら呟くように話しかける。


「綱」


 頼光の一声に、綱は我に返る。


「……失礼しました。今のは忘れてくれ」


「謝らないでください。確かに、物草さんには月守命に似ていると言われましたし…そうですよね…。ですが本当に、月守という名前は聞いたこともありませんでした」


 澪の言葉を受けて、頼光が静かに語る。


「この際だから、俺たちの知っていることと見解を伝えるとね、月守命や幹部たちは、現世と月世を繋ぐ力を持っているんだよね。俺たちもその力によってここへ来た。だから君がここに来たのも、本や君自身、あるいは両方に月守に似た力があると思っている」


 澪はしばし沈黙し、やがて思い出したように口を開いた。


「私に何かしらの力があるかはわからないのですが、ここに来る直前、誰かの声が頭の中に響いたんです。それがきっかけでこの世界へ……もしかすると、あの声の主が月守の方だったのかもしれません」


「その声を感じ取れたのも、君自身に力がある証ではないかと思うよ。にわかには信じがたい話かもしれないけどね。きっと澪さんだからこそ、今ここにいる、俺はそう思うよ」


「私だからこそ…」


 頼光の真剣な語りに、澪は自らの出自に対する不安を拭えずにいた。


 自分がこの世界と交わっているのなら、当然今手元にある本を残した祖母も例外ではないということになる。祖母は好きで古典の知識を深めていたわけではなかったのか? 少し古風で、ただ古典が好きなだけの家だと思っていたのに、この家には自分の知らない何かがあったのか?


 澪は知らず知らずのうちに開けてはいけない箱を開けてしまったような、そんな心許なさを感じ始めていた。


 と、それを察したように、頼光が空気を変えるように言う。


「そういえば、卜部たちが着物を取りに行ってるんだよね?」


「は、はい、もうすぐ戻られると思います。あ!渡辺さん、早速今日から稽古をお願いしてもいいですか?」


 ぎこちなく頼光の気遣いに乗っかりながら、澪が綱に話を振る。綱もその意図を汲んでか素直に頷く。


「ああ、構わない」


「ーー綱が澪さんに稽古を?」


「はい、そうなんです!私からお願いしまして」


 意外そうな顔をする頼光に澪が答えると、少し考えてから頼光がにこやかに言う。


「そうか……なら俺も参加しようかな。今日の予定は特にないし」


「頼光さんも?」


「うん、君の武術、しっかり見てみたいと思ってたんだ。この前綱をひっくり返してたよね?」


「なっ!頼光様、見ておられたんですか…!?」


「あんなところでやってたら見えるだろ、貞光も一緒に見てたぞ」


「き、恐縮です…」


「ふふっ、あれは渡辺さんが私のやっている武術を見せてほしいとおっしゃったので、元々渡辺さんも受け身しかとっておられませんでしたもんね。できれば、護身用に体術だけでなく、懐刀など道具を使った護身術を教えていただきたいんです」


「懐刀、か。武器を使うとなると、相手を傷つける場合がある。それはわかってのことかな?」


 澪の要望に、頼光が優しく、しかし澪の本心を見抜こうとする瞳で真っ直ぐと問いかける。


「ーはい。正直に言いますと、相手を傷つけることにまだ現実感を持てていないのですが、このまま自分だけ身を守る術が体術のみというのは心許ないので、なんとかしたいんです」


「望月殿は一度も刀を扱った経験はないよな?」


「実は私のやっていた合気道という武術の中には木剣を使う合気剣という剣術もありまして、以前にその稽古をしていたことはあります。ただ、真剣は扱ったこともありません」


「そうなのだな。いきなり懐刀を扱うのは危険が伴う。ひとまず木刀で現状の体捌きを見た上で、基礎をどこまでする必要があるか判断してからのほうがいいと思うが、それでもいいか?」


 綱の問いかけに、澪は基礎からとなると時間がかかるのではという懸念から、首を縦に振ることに躊躇ったが、綱と頼光の真剣な表情から、いきなり懐刀を扱うことがいかに危険かを察し、素直にお願いしますと頷いた。


 こうして、季武や金時が市へ行っている間に、頼光と綱が澪に稽古をつける約束が取り付けられたのだった。

※大学寮:飛鳥時代末期から存在したもの。朝廷が設置した国家の正式な教育機関で主に貴族・官人の子弟が学ぶ場所

※詩経:中国最古の詩集で、儒教の経典のひとつ。約300篇の詩が収められており、王や貴族の暮らし、庶民の恋愛や労働、儀式などを歌ったものが多い。もともとは歌や舞に用いられていたが、のちに政治や道徳を学ぶ教材として使われるようになった。

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