第五章:忍び寄る影(三)
「澪さん、大丈夫かい!?」
鬼が去り、身体が自由になった瞬間、頼光が駆け寄ってきた。強く肩を掴み、真剣な眼差しで澪を見つめる。背後には、刀をようやく鞘に納めた綱の姿があった。
しばらく呆然と立ち尽くしていた澪だったが、頼光の声とその手のぬくもりに引き戻されるように、ようやく現実へと意識を戻す。
「……はい。怪我はありません」
震える声ながらも、澪ははっきりと答えた。
「よかった……」
頼光は安堵の吐息を漏らし、そっと手を下ろす。間を置かずに、綱が駆け寄ってきた。
「先ほどの男……鬼だったのか?」
澪はゆっくりと頷き、記憶をたぐるように言葉を選ぶ。
「額に角がありました。だから、鬼だと思います……。ただ、髪も瞳も赤くなかったので……。頼光さんたちが追っている“赤い鬼”とは別の存在……ですよね?」
「たしかに。俺も一瞬しか見ていないが、黒髪だったな。だが、鬼に違いはない。澪さん、本当に何もされなかったんだね?」
「はい。名前を聞かれただけで……。でもその時、体が動かなくなって、気づけば勝手に口が動いて名前を答えていました」
「俺たちが感じたのと同じ現象か……あれは鬼の力だったのか」
頼光は鬼が消えた方角を睨みながら、眉をひそめた。
「しかしなぜ、ヤツは君に名前を聞いたんだ……?」
「分かりません。ただ、『お前は誰だ』って……。でも、敵意は感じませんでした……」
「敵意がなかったとしても、身体を封じて名前を尋ねるとは、妙な話だな」
綱の言葉に、澪は昨日の出来事を思い出すように続けた。
「物草さんも、私を誰かと重ねて見ていたようでしたし、あの人も、もしかしたら……」
「月守命か……」
頼光が低く呟き、唇をかみしめる。
「……何にしても、我々が知らなかった鬼が人里に現れた。それを放っておくわけにはいきませんね」
綱がそう言って顔を引き締めると、頼光も頷いた。
「そうだな。月守が知らないのか、それとも黙っていたのか……いずれにせよ報告が必要だ」
そこへ、様子を見に来た貞光が合流する。
「不審者はーーいなくなったようですね」
3人と合流した貞光に、頼光が一連の出来事を簡潔に経緯を説明すると、貞光は呆れたように澪を見やる。
「……望月さん、昨日の物草聖のことといい…貴女って引き寄せ体質なんですか?」
「そ、そんなことないと……言いたいんですけど……。昨日の今日じゃ、何も言えませんよね……」
澪がしおらしく項垂れると、頼光がかばうように口を開いた。
「澪さんを責めても仕方ない。だが、君は……この世界に、何らかの深い因縁を持っているのかもしれないね」
頼光に同意するように貞光が続ける。
「私も、そう思います。本のことだけじゃありません。物草家の当主に、今度は正体不明の鬼まで貴女に興味を持っている。」
「そうですね…。わからないことばかりですが…この旅に同行してご迷惑ばかりかけているので、私としても自分がなぜこの世界に来たのかは知らなければいけないと思います」
「迷惑だなんて思わないでくれ。よし、……今回の鬼の件も含めて、月守に報告すべきことが山積みだな。月の宮へ急ぐとしよう。皆、動けるか?」
「はっ」「問題ありません」「大丈夫です」
三人がそれぞれにうなずき、歩を進め始める。
澪は去り際にもう一度、鬼が立っていた場所を振り返った。木々の隙間からこぼれる朝の光が、静かに地面を照らしているだけで、そこにはもう何の気配もなかった。
(……あなたは、誰だったんですか? 誰を、私と思ったんですか……?)
澪の心の声が、風に乗って消えていった。
*
こうして一行は来た道を引き返し、あたりが薄暗くなりはじめた頃、ようやく月影離宮へと帰り着いた。
広間へ案内され、女中が運んでくれた茶を手に人心地ついていると、金時と季武が出迎えに現れた。
「おかえり〜! 澪ちゃん、慣れない旅だったと思うけど、大丈夫だった?」
金時が待ちかねたように駆け寄ってきて、澪の様子を伺う。が、すかさず季武がその襟首をつまんで、必要以上に接近させないよう制止した。
「金ちゃん、澪さんは疲れてるに決まってるやろ。ぐいぐい行ったらあかん。あと挨拶するなら、まずは頼光さんが先やろ」
「ごめんごめん。……ライコウさんたちも、おかえり!」
「ははっ、俺たちは“ついで”扱いか」
頼光が呆れたように笑う。
「頼光さん、綱くん、貞くんもお疲れさま。何か収穫はあったんかな?」
「卜部殿、金時。留守を任せてすまなかった。収穫は――まあ、あったにはあったが……というところだ」
「なんや、含みある言い方やなぁ」
頼光と季武のやりとりをよそに、金時は首をかしげつつ、再び澪に向き直る。
「……澪ちゃん、ちょっと顔が疲れてるね?」
その言葉に、澪は思わず小さく笑った。金時の屈託ない明るさが、緊張していた気持ちをふと和らげてくれる。
「ふふ、大丈夫ですよ。坂田さんも卜部さんも、お変わりなさそうで安心しました」
「な〜んにもなかったよ〜。……澪ちゃんがいないから寂しくて死にそうだったけど」
「金ちゃんは、ほんまブレへんなぁ。ボクらは月の宮を見回ってたけど、変わったことは特になかったわ」
「ねえ、変なヤツに言い寄られたり、絡まれたりしてない?」
金時の問いに、口を開いたのは澪ではなく貞光だった。
「言い寄られてたし、絡まれてましたよ」
「碓井さんっ!?」
思わず澪が驚きの声を上げる。
「えっ!?だ、誰に!? ……まさか、物草の当主に!?」
金時が飛びつくように尋ねると、貞光は平然と答えた。
「まあ、恋愛感情という意味ではありませんが――物草聖に“月守命に似ているのでは”と問われ、さらに望月さんが一人きりになったところで我々が知らされていない鬼に出会い、その鬼にも興味を持たれた……ということがありました」
「……え? “月守命に似てる”? “鬼”??」
簡潔すぎる説明に、金時は完全に困惑して目をぱちくりさせる。すると横で話を聞いていた頼光が、苦笑まじりに口を挟む。
「こら、貞光。混乱を招くような言い方は控えなさい」
「えっ、今のさっちゃんの冗談だったの? え?何がホント??」
きょとんと頭にいくつもの疑問符を浮かべているような金時の様子に、一同は思わず笑みを漏らした。
「まあまあ、澪さんの話はボクも気になるけど――今日はもう遅いし、頼光さんたちも疲れてはるやろうから、詳しいことはまた明日や。ほら、ご飯食べて、はよ寝ましょ」
季武が気を利かせて話を切り上げ、込み入った話は翌日に持ち越されることとなった。




