今小浦
一言も発せぬままに何曲かの歌が流れていった。
ルームミラーを気にしながら運転を続けていたが、緊張はそう長く続かなかった。痛みが退いた俺の背中が、もうこの状況に慣れたといっている。
「なぁ多恵、まだ? ちょっと給油しにスタンド寄るわな」
彼女からは頷きすら返ってこない。
「セルフの洗車機が空いてるみたいやし、ちょっと洗ぅていくわいや」
多恵は半身に寄りかかり、左腕を枕にして眠っているようだった。
洗車ブラシが車のボディを叩く音や、水滴を吹き飛ばすブロアーの音の中でも、彼女の状態は変わらない。車を移動させて、残った水気を丁寧に拭っていく。窓を拭きながら、時折、車内の様子を窺ったが、まだのようだ。
仕事柄、飽きるほどこなしてきているので、俺は洗車が嫌いだ。まぁ、それも自分の車となれば話は別。黒のボディが輝きを取り戻して、少々悦に入る。すっかり綺麗になった車に、俺は調子よく鼻歌を奏でた。そんなごまかしの仕草さえ、今は空しさをおぼえる。
向かいの車内掃除機コーナーでは、朝早くから、一組の親子が分担作業に勤しんでいた。
俺は只々、つまらなかった。
車は福井を抜けて、京都へ入った。
久しぶりに見る日本海は慰み程度に心を逸らせる。また海が見えなくなる道へ戻る前に、俺は一服しようと車を停めた。
防波堤から向こうはゴミの漂着が目のつく狭い砂浜。厚い雲の隙間から、数本の光の矢が海へ刺さっていて、その光景に短く感嘆の息が漏れた。砂浜で犬を散歩させている人がいたが、その人も止まって海を見ているので、もしかして俺と同じように感じているのでは……なんて想像してみる。
ここまで帰ってくれば、もうひと頑張り。俺は左右に大きく体を捻って自販機へ向かった。
「私、午後ティーね」
ホッとすると同時に熱いものが胸に去来する。俺は振り向かずに手を挙げて、財布を手のひらで遊ばせた。
「これ日本海よね? 海がこっち側に見えると、方向感覚がズレるわよね」
太平洋側の生活も八年以上になると、彼女の言い分もわかるようになっている。
「そうかぁ? わかるような、わからんようなやのぉ。もうちょっと天気が良かったらな」
海を見ながら、俺たちは他愛のない話をした。
「なぁ、あの辺まで、ぶらぶらと行ってみぃひん?」
多恵と久しぶりに会えたような気がして、俺は彼女の手を取った。彼女は俺の腕を頼って立ち上がり「……嫌。遠い」と尻の砂を払った。
思いの一方通行なんて局面はよくあることだ。きっと多恵の通っていた学校では、以心伝心という四字熟語を取り扱ってなかったのだろう。俺たちは空き缶をゴミ箱に投げ入れて、車へと戻っていった。
再び走り出す車の中で、多恵は化粧の手直しをしていた。少し泣いたようで、目の周り重点的にチェックしている。
俺は途切れた会話を期に「で、どうなん?」と訊いた。
多恵は頭を整理するように、一度外を見た。
「みんなそれぞれ、今に至る経緯があって、出会う理由があるってことね……」
「何やそれ?」
複雑な事情を、後ろにいる本人の前で語るのは宜しくないということか?
「一つ提案があるんやけど。昨日、持ち歩いてへんて言うてたけど、あの髪飾り、今持ってるんちゃうの? それ使ぅたらアカンの?」
「あ、これ?」
多恵はバッグの中から、木彫りの髪飾りをすんなり出した。出し惜しみしていたわけではないようだ。
「キュウの考えてることはわかるけど、用途が違うっていうか……。まぁ、どうせ渡そうと思ってたし、持っててよ」
髪飾りをホイッと俺に渡した。
これは、ヒトだった頃の未練や怨念による、憑こうという(意思)から身を護る物で、それをもかいくぐってくるモノを取り込み縛りつける。そういう意思がないモノには効果がない、と今いちわからない注釈が付いた。
「そんなモノにまで? 何で……」
「キュウ! 前、前!」
急ブレーキでタイヤが激しく鳴いた。危うく信号待ちの車にオカマを掘るところだった。
二人同時に、いや、前の車の運転手も合わせれば、三人同時に大きく息を吐いて、多恵の「ちょっと、もぉ!」に「悪い……」と返した。
とりあえず、運転中に深く考えるのを止そう。俺は後ろの女の子を、勝手に〈そういうモノ〉として諦める、と決めた。本当に慣れとは恐ろしいものだ。
「でもさぁ、何で持って来てるって? あっ、私が後ろへ行ってる間に、まさか……持ち物検査した? え~キュウ、最低!」
『キュウはカス』
……ちょっと腹立つ!
何も言っていないのに、話は勝手に創作されて、二人の女性からサイテー呼ばわりだ。
これは、あの夢の話を披露するしかない。多恵も、俺がそんなことをするはずがない、と思っているだろうし、弁解するのを待っているはずだ。フフ、面倒くさいが、その要望に応えてやろう。
俺は一つ咳払いをして、じつは今朝、夢の中で着物を着た〈髪飾りの精〉と握手を交わした――と話した。
自分でもよく理解していないので、だいぶ端折った説明になった。すると多恵は、何それ~、と大笑いして、俺の肩を突いた。……信じようが、信じまいが、冗談だと捉えてもらっても、俺は一向に構わない!
「じゃぁさ、今子浦って知ってる?」
多恵の口から出た懐かしい地名に虚を突かれ、その(じゃぁ)が、どこから続いているのか、とツッコまなかった。
「あぁ、ちっこい頃にバス遠足で行ったな。それが?」
多恵は手のひらで後ろを差した。
「行きたいんだってさ。それがキュウに憑いてきた理由」
――へぇ、ホンマにタクシー替わりなんや……。
横着せんと、自分で歩いて行けや。
いっそのこと空でも飛んで行かんかいや。
今は機嫌良く乗っているようだが、健康ランドでのこともあるので、滅多なことは口にしないほうがいいか。
「今子浦ていうたら、海に突き出た所やし、俺んちからはだいぶ距離あるで」
「ふ~ん、じゃぁ昼ごはんは海の幸ね」
もう、行くというのは決定事項なのか?
一呼吸置いて「何で、俺の車やねん」と愚痴るように訊いた。
多恵は俺の愚問に答えず「寄れるの?」と、質問で返す。
負けじと「寄らなアカンのやろ?」と、さらに被せると、後ろから『絶対行くねん!』と、とても強い返事があった。
連休中の日本三景方面へ続く道は、是非とも避けて通りたかった。今子浦に寄ると決定しているのだから仕方ない。どのルートを進もうが、京都は混雑するものだと自分に言い聞かせて、俺は天橋立へと続く最短距離の渋滞へ突っ込んでいった。
***
ずっと坂道発進の連続で、クラッチペダルを操る左足が悲鳴を上げていた。暇を持て余した多恵が、俺の左太ももを、ガンバレー、と半笑いで揉んでくれる。
たっぷり二時間、交互に襲い来る怠さとくすぐったさに耐えて、車はようやく渋滞を抜けた。前を行く車と同様に、スピードメーターの針はグイッと立ち上がっていく。俺は反対車線の混み具合を嘲笑った。
ところが、兵庫に入るとすぐに、またこちらの車線が詰まり出して、あっという間に止まってしまった。最大の山場は越えたはずなのに、これはどういう訳か? 俺たちは顔を見合わせて「駄目だコリャ」と首を折った。
「こういう訳やから……」と、ルームミラーを見たが、俺にはもう女の子が見えなかった。
多恵は渋滞に填まる車の中で、予定を指折り整理し始める。俺には旅行計画を綿密に立てると、その予定は尽く狂うというジンクスがあったので、彼女に意見しなかった。
「何とか浦へ行くでしょ。キュウんちで泊まってぇ、単独行動タイムね。で、用事を済ましたら、神戸周りで、お土産と服を物色して、帰ると……」
「何や? その単独タイムて」
「キュウんちの隣町にね、親戚が住んでんの。おばあちゃんの姉に当たる人。先週、おばあちゃんにこの旅行のことを話したら、用事を言付かっちゃってさ。おじいちゃんの葬式の他に、二回しか会ったことない又従姉妹も久しぶりだし。私のほうからあっちにお邪魔するのは、今回が初めてなのよ」
「へぇ、親戚……。あぁそんなん聞いたことがあるなぁ。それやったら別に一人で行かんでも、なんぼでも送って行ったるやん」
「いいって、いいって、長居するかもしんないし」顔の前でチャイチャイと手を振る。「キュウも地元の友達に会ったりさ……。ほら、いろいろとあんじゃん」
何と、怪しいことこの上ない。明らか過ぎて、少し笑えるほどの狼狽。まぁそれもわからんではない。富貴恵婆ちゃんの姉となると……。俺が行くことで、いろいろ面倒くさいことになるからだろう?
「まぁ、ええけどよ」
それ以上の詮索を止めた。俺は話題を、さっきから全然進んでいないこと、に変えた。
「前のほうは、どないなっとんねん」
俺が窓から体を乗り出すと、車の横を歩く人とぶつかりそうになった。何でこの人は道の真ん中を歩いているんだ? お互いに目が合って、軽く会釈を交わした。サイドブレーキを引いて俺も外へ出てみると、他にも同じような行動をとる人が、何人か見える。
対向車線の渋滞は解消されているどころか、さっきから数台しか、こちらに向かって来ていない。それをいいことに、五台のバイクが反対車線を逆走して抜けていった。
交通事故か……参ったぁ。
俺は運転席に戻ってエンジンを止めた。言っていた尻から予定が狂うのだから、ジンクスとはなかなかに強固なものだ。
どんよりと厚い雲に覆われる空下、風まで出てきて、今日は気温の上昇が鈍かった。それに加えてこの道路状況なのだから、普通ならしんみりとしそうなものだが、逆に俺は口数が増していた。関西圏に入ったことで受ける精気もあるのか。俺は多恵に、地元についての予備知識を、ネタを交えて語っていた。
調子よく喋っていると、先ほど逆走していったバイク集団が戻ってきて、後方へ消えていく。次いで、俺とぶつかりそうになった男性までもが、駆け足で戻ってきた。
バイクも通してもらえないなんて……。トレーラーでも横転して、完全に道を塞いでしまっている、とか?
それから徐々に、対向車線を行く車が見られるようになって、この車もやっと進むときが来た。開通したわけではないようだ。どうやら、どこかでUターンさせられるらしい。
しばらく行くと、道幅の膨らんだ絶好のUターンポイントで、警察官が誘導灯を振っていた。
その指示に従いながら「多恵、何か見える?」と斥候を出すも、その向こうは警察車両がバリケードを作っていて「う~無理~」という報告を受けた。
大幅にルート変更させられてからというもの、俺はただ車の流れに乗っていた。前を行く車が鳥取ナンバーなのをいいことに、俺は新ルートの模索を止めている。しかし道路標示の案内板とは便利な物で、進行方向だけは間違っていないと、断言できる。取り留めのない会話が続く中、俺の運転に迷いがないことを、多恵は誤解しているだろう。じつのところ、俺は今どこを走っているのか把握していない。
「私たちは今、国家権力によって、逆行させられておりますっと」
多恵は声に出して、誰かにメールを送信していた。




