電話
「もしもし義姉さん、お久しゅう。ヒサシです」
(え~ヒサ君? めっっちゃ久しぶりやん!)
「うん。まぁそのいろいろあって。――相変わらず、兄貴が電話に出よらへんねん」
音信不通だった期間があまりにも長くて、近況報告も解説付きでなければ通じ難い。一方的にウケ狙いの話題を連発して、俺にしては長い通話になっていた。義姉さんに苦手意識があったはずだが、かれこれ三十分も喋り続けている。
「……ちゅうわけで、寝泊りできる部屋って、空いとんやろか?」
なかなか返事がない。やはり急遽ではさすがの義姉さんも困るか?
(途中からおかしいって思ぅてたんやけど、ヒサ君さぁ、アタシらが離婚したって知らんのやろ)
「……え、離婚?」
記憶の中の義姉さんは、そういう冗談を言って、俺の反応を楽しむ悪癖があった。電話では表情が窺えないだけに、判別の難易度は極端に上がっている。
「それって、真面目のマジ話なん?」
(やっぱりなぁ。――武ちゃんと、ホンマに全然連絡取ってへんのやねぇ)
別れて、もう二年になると聞いて、俺は何て言っていいのかわからなかった。そんな俺を気遣ってか、義姉さんのほうが、あっけらかんとして話してくれたので、暗くならずに電話を切ることができた。
三十歳を越えた大人の事情に、弟の俺が何を説教するわけでもない。それでも兄貴と直接会って、話をしなければならない、という気になってくる。
宿泊の追加料金等の手続きを終えて、少し前から戻ってきていた多恵が、俺の横で心配そうな顔をしている。断片的とはいえ、だいたいの事情は把握したようで、俺の太ももに手を添え、総じて「大丈夫なの?」と訊いた。
多恵の表情を見ていると、離婚することに対しての感じ方に多少の開きがあるように思う。俺は驚いてはいたが、特に落胆してはいない。もちろん、それは血の繋がった兄弟という立場からの違いである。
俺は兄貴のケータイに着信履歴を十件以上残して、返信を待つという作戦を開始していた。
「あまりのご無沙汰加減で、俺んちの状況がだいぶ変わっとうわいや」
ケータイを耳に当てて、情けなく笑って見せた。
***
リクライニングチェアが四十席ほど並ぶ大きな部屋で、映画を観ていた。今いち内容に集中できないのは、もちろん兄貴のせいだ。
兄貴は基本一人で何でもできる奴なので、生活に支障はないはず。しかし、過去俺の前で見せた唯一の狼狽え……両親が死んだときに見せたあの泣き顔が、どうしても脳裏をよぎる。さすがに離婚して二年も経つと言っていたので、大丈夫だとは思うが……。家は無事か? 馬鹿犬は腹いせに虐待されていないか? 近所で有名なゴミ屋敷になっていないか、などと俺の思考はマイナスへ向かっている。
多恵は隣の席で、壁一面に設置されている本棚から取ってきた漫画を読み漁っていた。時折、へらへらと笑い声がするので、俺んちの事情のことは、もうどうでもいいのだろう。
今は手の中でケータイを温めて待つしかなかった。
しかし、そんな殊勝な気分を持続させるのにも、忍耐が必要だ。そういう性格なのだから仕方ないと思っている。
多恵は俺の復帰を待っていてくれたのか、声をかけると、すぐに館内のエステに誘ってきた。聞くと六千五百円もすると言う。奢ってあげるから一緒に行こう、と言ってくれればついて行くのに「じゃぁ一人で行ってくる」と言うので、暇を持て余した俺は、結局、四千五百円のマッサージを受けた。
そうして時間を潰している間に、やっと宿泊所に入れる時間になって、そちらへ移った。
ここはチェックアウトするまで、外に出られないという決まり。どうせ天気が悪いので観光という気分にはなれないが、館内の食事処で割高のメシを食って、後はぶらぶらとするしかない。
そこへ俺のケータイが、やっと鳴った。
通路の途中にあるソファに腰掛けて、ゆっくりと、じらして通話ボタンを押す。
(着歴見てビビったわ。キッショいのぉ、お前。どんだけワシが恋しいねん)
「アホか! 兄貴が離婚のこと何も言わへんし、俺、全然知らんと、義姉さんに思い出話を長々と語ってしもたやんけ」
(ワハハ……ホンマかぁ。アイツ、元気にしとったけ?)
「知るかボケ! 自分で確かめに行けや」
それは単なる男兄弟の挨拶だ。しかし、多恵には喧嘩口調に聞こえたようで、隣で、ちょっと、と言っては、落ち着きのない中腰で、上下にカクカクと揺れている。
(今の嫁はんも、友美っていうねん。漢字は違うけどな。また今度、紹介したるやんけ)
「はぁ? 今の、て何じゃい!」
声を荒げたところで、多恵がケータイをもぎ取った。
「あの、はじめまして、藤堂多恵と申します」
智美から友美? ……名前なんてどうでもいい。兄貴の再婚をとやかく言うつもりもない。兄貴が浮気をして今に至る? という過程が問題だ。想像するうちに段々と腹が立ってきて、俺はケータイを取り戻そうと、手を伸ばした。
機嫌よく喋る多恵は、一方の手で匠にブロック。ついには立ち上がって向こうへ行ってしまう。俺は鼻息を荒げて、手のひらに拳で何度も打ち付けた。
やがて会話を満喫した多恵がスッとケータイを差し出してくる。
「お兄さん、面白ぉい。電話代わってってさ」
「ぬぅ……」
(お前よぉ。女連れて来るんやったら、先にそれ言わんかいや。――お前の彼女を拝みたいとこやけど、ワシら、明日朝一からグアムやしよぉ)
「あ、何やそれ?」
(鍵の隠し場所は変わってへんし、部屋は自由に使えや。ほななぁ)
プッツ――
「…………うぉい!」
相変わらずというか、兄貴はどこまでも弟を舐めくさる。ケータイをグギギと握り締めて、周囲に八つ当たりする物を探した。
トレーニングマシンコーナーを見つけて、嫌そうに顔を歪める多恵の手を引いた。
「キュウのお兄さんに……会って……いろいろ……話を……」
「どうせ、ろくな話はしよらへんで」
まだ十分くらいしか漕いでいないエアロバイクで、彼女はヒーヒーと根を上げている。息も絶え絶え多恵は、今回の目的の一つを失って残念だ、と言う。俺もNEW義姉さんには、興味がないこともない。くだらない昔話を、兄貴から彼女に暴露されずに済んだことだけを、良しとした。
「もう一回風呂入って、ミニシアター行って、明日早めって感じでええか?」
「う~太ももがぁ……」
***
――ぺっぷしっ! んあぁノンカロリー……。
盛大なクシャミで目が覚めた。俺は公園のベンチで身震いを一つして、素早く周囲を見渡した。
男が一人、エンジ色の通路を挟んで向かいのコンクリートブロックで横たわっている。アイツは俺がここに来る前から、ずっと変わらずあの格好だ。それに釣られたのか、どうやら俺も多恵を待つ間に眠ってしまっていたようだ。
待つといえば、多恵との待ち合わせで、俺のほうが先に来ているなんて、初めてのことじゃないだろうか? もちろん、これは威張って言うことじゃない。それで、待つことに慣れていない俺は、座ったまま首を伸ばして、どっちから彼女が現れるかと、何度もあたりを見渡した。
「もう、何しとんねん多恵。何時やと思ぅとんねん」
俺はポケットからケータイを取り出した。
画面には圏外と表示されている。この街中で? ここは多恵の実家の近くにある公園で、俺は彼女と待ち合せをしていて……えっと、これは夢だな。
そう気づいたとき、俺の視界の端に動く物があった。画面から顔を上げると、着物姿の女の子がかくれんぼでもしているかのように、向かいに立つ大きな木から、顔だけを覗かせていた。
その視線は、コンクリートのベンチで眠る男に注がれている。――で、あれも俺なんだな。
俺は腕を組んで、背凭れにふんぞり返った。薄目を開けて、しばし女の子を観察した。
その子はこっちには目もくれず、眠っているほうの俺に近づいて、そいつの体を徐ろに揺すり出した。
それで起こされた男は、倦怠感を満面に顕して、頭を掻きながらベンチに座り直した。
男はペットボトルのお茶を一口飲むと、座った姿勢でまた固く目を閉じた。――何て寝起きの悪い奴なんだ。見ているこっちがイライラする。
俺がため息をついて目を閉じると、やっと「え~マジで~」と、微かに自分の声がした。
近寄って来るような気配。そして「うっそーん」と言った。
それからすぐに、熱い物を飲み込んだときのような感覚が食道にあった。俺はそれが落ち着くのを待って、ゆっくりと目を開いた。
目の前にあの男はいなかった。着物姿の女の子が袖に手をしまい込んで、一人で立っていた。
「久しぶりやな。う~んと、はじめましてかいな?」
俺は柄にもなく微笑みかけた。
その子は何も答えない。ただ、上目遣いに体を揺らして、照れたような仕草を繰り返していた。
よくよく見ると、写真で見た幼少期の多恵に似ているのかな? 服装からすると、富貴恵婆ちゃんの若かりし頃の姿だとか?
「また、世話になるんやな。よろしく頼むわいや」
俺が右手を差し出すと、女の子は無言で握手に応じた。
その手を軽く握り返して、俺は何度も上下させた。段々とお互いに笑みが溢れて、終には声に出して笑い合った。
――右手の甲に、ペチペチと叩かれる感触がある。
「ちょっと、ちょっと、キュウ!」
顔の前で多恵の声がした。
俺はうすら笑いを浮かべ、多恵の胸を上下に擦りながら夢から覚めた。
***
道路を川に変えるほど酷かった雨は上がっていた。
どんよりと曇る空模様が、あたりを陰気なムードに染める。駐車場に止まる車は、みな一様に白く汚れていた。ゴロゴロと引くキャリーバッグが、昨日より重く感じられる。
出発してすぐに、多恵が揺れる車内で顔を作りだした。毎度、器用なものだ。多恵が鏡を覗くとき、俺が丁寧な運転を心がけていることに、彼女は気づいてないだろう。
「本当に今日中に着くの?」
皮肉を込めるように、助手席の多恵が化粧の手を止めずに訊いた。
「さすがに、今日中には着くわいや。まぁこの調子やったら、昼前には到着やと思うで」
時刻はまだ朝の六時。周りを見渡しても、混み始める様子はない。
しばらくして、多恵がゴソゴソとポーチを片した。
「完成! どぉ? 陽子さんに教えてもらって、いつもとはちょっと感じ変えてみたんだけど」
いつもと何が違うのか、俺にはさっぱりわからない。ビューティホーと言ってやったほうがいいのか? わざとらしいのは、かえって駄目な気がする。結局「ええんちゃう」と、おざなりを言った。
……あれ? 彼女が、もぉ、と言わない。
気になって助手席を見ると、彼女は体を半身にして後部座席をじっと窺っていた。
多恵の視線を追って、俺も後ろを一瞬振り返る。そこにはもちろん何もない。前に向き直って運転に集中。背中の突っ張りも気になって、ルームミラーにチラッと目をやった。
予想通りのモノが映って、俺はもう一度後ろを振り返った。再度、ルームミラーを見て、寺島さんの話を思い出した。
俺は静かに車を道路脇に停車させた。
この車を何台もの後続車が追い越していく。然程広くない道路での障害物に、クラクションを鳴らしてくる車も数台あった。
ルームミラーの中だけに映る女の子と、ずっと目が合ったまま、数分が過ぎようとしていた。
女の子は誰を睨むでもなしに、清ましてチョコンと座っている。
多恵はシートベルトを外して、完全に後ろを向いていた。
「もぉ! 仕方ないなぁ」
多恵は何度か頷くと、後部座席に移ろうとした。
「え、何しとん?」
俺は多恵を咎めた。
「その子、話ができそうだし、言い分を聞いてくる」
今の俺にできそうなことは何もない。それはわかっているが、何もしようとしないのは違う。
なぁ、と俺が話しかけると、多恵は「大丈夫。キュウ、車出して」と言った。
釈然としないまま、俺は車を発進させる。すんなりということを聞く自分に腹を立てながら……。




