健康ランド
ハザードランプを点滅させ、見えない車線を無視して停車する。クラクションを長く鳴らした。
豪雨の中、クランションが返ってきたように聞こえて、多恵と顔を見合わせる。確かに返事があったと、お互いが確認した。
「どうなっとんやろ? あの車やったら、あれぐらい簡単に抜けられると思うんやけどな。まぁ、ちょっと見てくるわいや」
私も行こうか? と言う多恵を手で制し、その手で庇をを作って飛び出した。
ランドローバーの後部のドアノブに手を掛けた。開いている……。さっと乗り込んで声をかけた。
「どないしはったんですか? 体はどうもないっすか?」
見たところ、エアーバッグも開いてないし、夫妻に怪我はなさそうだ。
「いや~ビックリしたね。俺たちは相当嫌われたみたいだわ」
寺島さんの表情は硬かったが、意外に落ち着いた様子なので、安心した。
「こんな霊符じゃ、抑えきれなかったわね」
なぜ寺島さんがこんなことになっているのか、大まかには理解した。
「俺、車に牽引ロープを積んでますんで、引っ張ってみますわ!」
「そうなの? イケるかなぁ。山西さん、スマンねぇ」
俺は車に戻って、多恵に状況を早口で伝えた。あの女の子が原因なのだろう。それなら、こちらに負い目はたっぷりある。酸性雨に頭皮を晒して禿げたら嫌、とか冗談を言っている場合ではない。道路幅の関係で斜めに引っ張ることになってしまうが、イケるか?
ロープを繋いで車に戻ると、なぜか陽子さんが俺の車の後部座席に乗っていた。少しでも車から降りれば、たちまちズブ濡れになってしまうのに、不思議な行動を取る人だ。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。今はこの二台で道路を完全に塞いでしまっている。
俺はクラクションを合図に、弛んだロープをジワッと張った。弛みがなくなったところで、もう一度鳴らして一気に引っ張った。
この路面状況に加えて、相手が重量級なだけにもっと梃摺ると思っていた。が、救出は案外に上手くいった。
寺島さんは自走して車を端へ寄せた。
大丈夫そうだ……。ボンネットを開いて、ざっと点検してあげたいところだが、とにかく、今は天候が悪い。水温計にだけは注意するように言って、車に戻った。
「お疲れ。グッジョブ」
多恵と陽子さんは親指を立てた。示し合わせていたかのようだ。
多恵は労って、シャツの着替えとタオルを用意していた。おそらく、俺に惚れ直しているのだろう。
「本当にゴメンね。改めて出発する前に、一度どこかへ寄って、服とか髪とかリセットしたい感じよね」
「そうっすね」
同感だ。下着の替えはあるものの、俺のズボンは、今履いているこれ一着しかない。とにかく、太ももに張り付く不快感をどうにかしたかった。
「じゃ、そう伝えてくるわね。また、ついて来て」
一緒に行く気なんてなかったが、陽子さんの濡れて透けた胸元に、気を取られて「はい!」と言ってしまった。
「……もぉ」と言った多恵に続いて『アハハ』と、笑うような音がした。
少しバタバタとして忘れていた。やはり、もうこっちの車にいるという状況か……。
それからというもの、寺島さんの車は緊急停車することもなく、無事に峠を下りきった。その先のT字路を左折すると、田んぼが広がっていた。その中を真っ直ぐに貫く農道も、かなりひどい有様になっている。それでも、遠くの空は、雲の切れ間から光が差しているのが見えて、この雨もそろそろ治まるかと思った。幾分、気は楽になっている。
「あのオッサン、スイスイ走って行きよんやけど、目的地は決まっとんやろか?」
「陽子さんと、ケータイ番号を交換しといたら良かったね」
多恵は腕を組んで鼻息をついた。
「ホンマやな。こんなんなるって思わへんもんな」
長閑な、とは程遠い田園風景の遠く先に、ひと塊の街が見える。寺島さんはそこへ向かっているのだろう。とにかく今は、前の車について行くしかない。トイレを我慢しているので、もう少しだけ急いでほしい。
***
「多恵ぇ、乾燥時間、ケチったやろ。生乾きやん」
「そんなの、そのうち乾くじゃん」
健康ランドに行き着いた俺たちは、風呂に浸かってリフレッシュ。多恵は、館内着を身に着けていたが、俺と夫妻はもう私服に着替えていた。今は四人で、喫茶コーナーのソファーで寛いでいる。
元々人気店なのか、俺たちのように緊急回避組が押し寄せているのか……。館内は家族連れで大いに賑わっていた。
無料サービスのウコン茶に手を出して、顔を顰めながらも何やら楽しそうに話す、陽子さんと多恵。
俺は寺島さんは席を辞して、壁に掛けられている観光パネルを見に行った。
そこで、ここからのルート確認やら、車の損傷具合について立ち話をした。
「冷却水が漏れると水温計は反応せぇへんから、オーバーヒート寸前になっても、逆に針が下がるんですよ。今なんてどこへ行っても渋滞に填まるやろうし、ガソリンスタンドにでも寄って、いっぺん水圧を計ってもろたほうが、安心すよ」
「あぁそうなの? わかった。そうするよ」
「――ところで、あの、何が起こったんか訊いてええすか?」
寺島さんは一度目を回してから言った。
「あぁ、膝に何か触ったと思ったら、足元からね……。無視しようとしたんだけど、ズルズルと這い上がってきて、視界が塞がれたんだよ。もっと早い段階で、止まれば良かったんだけどね。山西君には影響が出ないって、未だに信じられないんだけど……。まぁ、気をつけてね」
そう言って寺島さんは微笑んで見せた。
『うそつきや』
俺はその声には反応せず、聞こえなかったフリができた。
しかし、寺島さんは狼狽したように「それじゃ、俺たちはもう行くよ」と手を挙げて歩いて行った。
彼は陽子さんに声をかけると、振り返って、もう一度俺に手を振った。
多恵は靴のロッカーまで夫妻についていって、何度か頭を下げている。お揃いの変な館内着を身に纏った客たちの話し声が、あちらこちらで急に騒がしくなった気がした。
『アイツ嫌いや』
う~わ~、見えてるやん……。
俺の腰ぐらいの背丈の女の子が、すぐ目の前に立って、出入り口のほうを向いていた。
不思議と恐怖は感じない。まだ少し湿ったズボンのポケットに手を突っ込み、俺はその子をまじまじと観察することができた。
黒く艶やかな髪が肩より少し長い。エレベーター内やレストランで、一瞬見えたときと変わらず、その子は黒いワンピースを纏っていた。現実にこんな近くでじっくりと見るのは、初めてのことだった。この子が頭から血を流していたり、体が薄らと透けていたりしたなら、それは恐怖以外の何物でもなかっただろう。しかし、目の前にいるのは、普通に存在しているとしか思えない。ごく普通の女の子だ。
ふと、ポケットの中で指先にヌルッと触れる物がある。
取り出してみると、それは昼食でライスにかけ損ねた、ふりかけの小袋だった。洗濯機で揉まれてふにゃふにゃになっている。
多少の不純物には目を瞑り、俺はゴマ塩をそっとその女の子に振りかけてみた。もしかして、それは彼女を通過してしまうかも、と思ったが、白黒の粒は上手い具合に女の子の頭に載った。
少し間があって、女の子はさも迷惑そうに、手で頭をパッパッと払った。
そして俺の腹部に凭れ掛かり、見上げて『心臓、止めるで』と言う。
女の子は笑顔だったが、目は笑っていない。俺に触れている彼女の頭部から、質量を感じなかった。
――駄目だ! 用法用量が違うのか? コイツに清めの塩は通じない!
「す……すまん」
俺は絞り出すように謝った。
背中は痛いし、脚は動かない。立ったままでの金縛りも、初体験だ。(多恵、気づけ! 彼氏がピンチですよ)
寺島夫妻を見送った後、余韻の笑顔で振り返った多恵は、俺を見て顔を強張らせた。
彼女が糸みたいな目を見開いて歩み寄ってくると、その距離と比例するように、徐々に体は解れていった。
俺は壁の案内パネルに背中をあずけて、ズルズルと落ちていった。首に掛けていたタオルで汗を拭って、多恵に力なく笑いかけた。
「すごい汗。何やってんのよ」
「何もしてへんわいや」
「キュウから、ちょっかい出したら駄目じゃん」
「何も……いや、ちょっと軽~い感じのやつやん」
多恵と合わせて、小さな女の子に向けても弁解した。
「キュウって、見えてんの?」
体の開放と同時に見えなくなっていた。それでも、多恵の視線から、まだあの子が俺の右側にいることが知れた。
俺はのっそりと立ち上がって、彼女にレストランで一瞬見えたことや、今起こったことを話した。『うそつきや』という声のことも話すと、多恵は薄い胸の前で腕を組み、訳がわからないといった表情で眉間にしわを寄せた。
「俺が言うのも何やけど、あんまり考え込むなや。――そや、ここって、隣の別棟で宿泊もできるみたいやな。一晩、泊まっていかへん?」
自分で言って、驚いている。慣れとは恐ろしいものだ。直接体に苦痛がなければ、憑かれていても構わないと思い始めているのか……。
「それはいいけど、キュウのお兄さんにも都合があるでしょ。いいの? 二日も遅れて」
「おぅ……。まだ帰るって、連絡してへんねん」
多恵が息を詰まらせた。
怒りはそのまま飲み込んでしまえ、と願った。多恵が声を張り上げて、俺たちが好奇の目に晒される予感がした。
「多恵、周りに人がいっぱいおるで!」
俺に先手を取られた多恵は、モーモーと牛みたいに鳴いて、俺の背中を何度も叩いた。
ついでに、右の太ももにもポクポクと軽い打撃があって、なぜコイツにも責められなければならないのか、と思った。




