寺島夫妻
助手席のドアが開いて、女性の脚がニュッと伸びた。背の高い車から、髪の長い女性がサイドステップを踏んで降りてくる。その女性は丁寧にお辞儀してから言った。
「すみません、地元の方でしょうか?」
俺は顔の前で手を振った。暗いので見えていなかったかもしれない。
「いや、ちゃいますねん。ただの旅行者ですねん」
そう答えても、女性はそのまま俺たちの前まで寄ってきた。
「そうでしたか……。じつは、この車のナビの地図情報、全然更新していなくて。このあたりの地図が真っ白なんです。どこか近くで宿泊できるような所を探しているのですが」
俺がホテルのことを言おうとしたとき、運転席から大柄な男性が降りてきて、訊いた。
「ここら辺、近所に泊まれる所、ないっすかねぇ」
女性が振り返って「それ今、私が訊いています」と言うと、男性はバツが悪そうに運転席へ戻っていった。
「俺らも今夜宿泊するんですけど、この先にビジネスホテルがありますよ」
女性は少し迷っているようだったが、多恵にチラッと視線をやり「ありがとうございます。行ってみます」と、また頭を下げて戻っていった。
コンビニで会ったときにも感じたことが、ひとつ……。今の女性は、どことなく多恵に似ている。顔も喋り方も声も髪型も、何一つ類似点はないのに。
「行っちゃったねぇ」
フッと息をついた多恵が、腕を絡ませてきた。
「おう、乗っけてって欲しかったなぁ」
「清々した。いいじゃん。ゆっくり帰ろう」
多恵の言葉に首を捻って、車に乗り込む女性を何気なく見送った。似ていないか……。
「ちょっとぉ! キュウ、見過ぎ! あんなの胸が大きいだけじゃん」
Aカップの多恵が、俺の尻を膝で蹴り上げた。
いや、やっぱり似てるかもしれない、と類似点が置かれていた棚に、指を掛けた矢先の……ズンッ! だった。すっかり気を抜いていたので、その衝撃は背骨を伝って脳天へと突き抜けた。ヒントみたいなものが、彼女の見当違いの一撃で、スパッと飛んだ。
「尾てい骨狙いの膝蹴りはアカンやろ……」
同じホテルに泊まるなら、あの二人とはまた会うかもしれない。そのときに、また同じ感じを受けたなら、改めて考えてみるとするか。
俺は頭の切り替えのために、胸の前で腕を組み、渋めの声で「Fぐらいか……」と言って、二発目を頂戴した。今度は尻に力を入れていたので、大丈夫。
ところが、ブレーキランプが消えて発進した車は、すぐにまたランプを光らせて、ガクンと止まった。
運転手が下手なのか、サスペンションがフニャフニャなのか、とにかく妙な動きをする車だと思っていると、助手席から推定Fカップ女性がまた降りてきた。さっきとは違って、慌てているように見える。
多恵と触れていた部分に力が入ったのを感じた。目をやった瞬間、彼女が囁いた。(誘われないで)と言ったように聞こえた。その意味がわからず、俺は彼女に耳を寄せた。
「度々でスミマセン。お二人ともそのホテルへ向かわれているのでしたら、車に乗って行かれませんか? 案内して下さったら、私たちも助かりますし」
女性は車を差して片腕を広げた。
人によって感じ方は様々と断った上で、俺は美人の丁重な言葉遣いにエロスを感じる。好きとは裏腹に、照れてしまうので困るというか、苦手というか。
「あ、案内も何も……、信号一つ曲がるだけで、その……すぐにわかりますよ。俺たちはブラブラと歩いて……」
「それでも折角ですから、遠慮せずに是非……」
尚も食い下がろうとする女性に、俺は不信感を抱いた。何だ? まさかの誘拐?
ずっと無言だった多恵が一歩進み出る。
「車だと十分もかからないかな? キュウ、寒くなってきたし、どうせ目的地一緒だし、乗せてもらおっか」
多恵がさっき言ったのは、乗るな、と言う意味ではなかったのか?
並んで車に向かう二人を、え~何やねん、と地面を蹴ってから追った。
女性はわざわざ後部座席のドアを開いてくれた。それに多恵が礼を言って、乗り込んでいった。俺も後に続く。外車は雑な音と振動を伴って、動き出した。
運転席には、やたらと厚い胸板の大柄な男がいた。その男は、ハンドルで胸を擦りそうなほど前のめりになって、運転している。ヘッドライトが暗くて前方が見えづらいのか、夜目が利かないのか。その位置だとバックミラーは見えないだろう? と思った。
車は、俺たちが行きしなに見ていた、プレハブ小屋の前で停まった。車ごと看板に寄せて、ハハーン、なるほど、なんてやっている。そこに多恵のお喋りも加わって、また同じようなやり取りを始めた。俺だけが反対方向を見ていた。
後部座席の窓には、濃いスモークフィルムが貼られていて、元から暗い景色が、車内からではただの闇に見える。他の三人の会話は、つまらない授業のように眠気を誘った。そんな中、俺は左横の窓ガラスに落書きを発見した。『ごりら』――小指で書いたような細い文字だった。
それを見て、クスッと鼻息をついて口元を緩ませた。サーカスのゴリラが、ミニカーに乗ってテント内を周回している様を、想像してしまったからだ。(ゴリラが鳥目ってウケるやん)と、心の中で呟く。
「俺たち、ちょっとした用事で、千葉から京都へ行くんだけど、お兄さんたちは旅行?」
改めて動き出した車内で、ゴリラがヒトの言葉を喋ったので、俺の肩が小刻みに震えた。今、口を開けば返答も震えてしまう。
「静岡からです。この彼の田舎が兵庫で……。帰省も兼ねての旅行です」
察知した多恵が、俺の脇腹を拳でグリグリと突く。
「あ、彼氏、関西弁だもんね。俺たちも神戸に住んでみたい、なんて話をしてた時期があったよ」
兵庫県に神戸しかないと思ったら大間違いだ。
この腹立たしい思いは、名古屋以外に住む愛知県民ならわかってくれるはず、と多恵に言ったことがある。そのとき、多恵は「私も横浜じゃない神奈川県民」と言っていたが、俺には、その落差加減が今いちピンと来なかった。
そんなことを思い出しているうちに、寺島陽子と名乗った女性と、多恵は意気投合。目元メイクのポイントが、どうしたこうしたと、座席の前と後ろで会話を弾ませていた。陽子さんの口調から、先ほどの馬鹿丁寧な話し方は、すっかり消えている。その会話に男性陣の入る隙はなく、俺は後部座席に身を沈めて外を見ていた。
定期的に、貧相な街灯に照らされて浮かぶ『ごりら』の文字は、いつの間にか『まんとひーひー』と変わっていた。
一瞬、クッと込み上げる面白さがあったのは、確か。しかし、それと同時に明らかな異常現象を目の当たりにしているという事実。背中にキンッと張る筋を感じた。
無視したほうがいいという頭に反して、肘が勝手にその文字を拭って消した。外部からの揺れとは、別の細かな振動で膝が揺れた。両手を膝頭に添えて、静まれよ、と深く呼吸した。
もう、ホテルは左前方に見えている。ホテルに到着して、この車から降りさえすれば、それで終わりと思うと、背中に張った筋が少し緩んできたのがわかる。口元をイーと引いた、無理からの笑顔を上げると、いつの間にか会話の止まっていた多恵と陽子さんが、困った奴でも見るような眼差しを向けていた。
「ん? 何や」多恵を一瞥する。
「駐車場の入口は、ここを左にクルッと回った所ですよ」多恵は早口で言って、前方を指差した。
「あ、ここ? 本当に近ぁい」陽子さんが胸の前で手を合わせる。
二人の変に芝居じみた会話と、変な間があって、俺たちは今夜の宿泊地に到着した。
***
「有難う。助かったわ」
寺島夫妻は丁寧に頭を下げた。二人はフロントのある二階で、エレベーターを降りた。
「こちらこそ。乗せてもらって楽できました。あ、ここのフロント……」
多恵が言っている最中に、俺は閉のボタンを押した。
「もぉ何よぉ」と睨む多恵に「話が長いねん。言わんでもええことやん」と言った。
挨拶もろくにできないと立派な大人になれない、と言われてもいい。もう二十八歳だし……。そんなことよりも、多恵に確かめたいことがあったので、早く二人きりになれる部屋へ戻りたかった。
多恵は部屋に入るなりベッドへダイブした。
それはさっきやっただろう……。一日に二回もすることか? 幸せそうな顔で目を閉じる彼女を見て、ふと、普段ベッドで寝ている人はどうだろうか、と考えた。これだけ大きなベッドなら、俺たちよりは嬉しさは半減するだろうが、やっぱり飛ぶか? 逆に和室に布団という組み合わせに、ぐっと来るのかもしれない。それにしても、多恵のお尻は年々デカくなってないか?
いろいろ考えていると、問いたかった内容が薄れていった。
俺はトイレに立って洗顔を済ませ、頬を両手で挟んで叩いた。鏡に映る自分の顔を見て、いつもと変わらない男前ぶりにホッとする。
「どうしたの? 何か変。そのままシャワー浴びちゃったら? スッキリするよ」
多恵は俺の後ろに立って、覗いていた。
「そうやなぁ……」
スッキリという言葉に惹かれて、その場で素早く全裸になった。
脱いだ服を多恵に投げつけて、行動開始の号令のような、彼女の〝もぉ!″を聞いた。
――ゆったりと湯船に身を沈めたい。
そんな気になって、俺は浴槽に体育座りになった。その体勢でお湯が張れるのを待っていたが、これがなかなか溜まらない。結局、ヘソくらいまでしか待っていられずに、また立ち上がって、泡立ちの悪い石鹸を体に擦りつける。洗髪も完了。しかし、どうにもスッキリとまではいかなかった。
俺が風呂場から出ると、多恵はテレビを観ながら買ってきたお菓子をかじっていた。
「文句言うてたくせに、一人で食うなや」
「……うん」
そうだ、何とか饅頭。あの車に憑いていたんじゃない。あそこにいたんだ! このホテルに連れて来てしまったかな? 備え付けのお茶より、買ってきたコーヒーより、喉にシュワシュワと来るものが欲しかった。
「ちょっと二階まで降りて、ビール買ぅてくるけど、何か要る?」
「ううん、要らない。一緒に行こうか?」
その言葉を介護補助? と想像した。俺はフッと笑って、彼女に手を振った。
浴衣にスリッパを引っ掛け、エレベーターへ向かう。
二階に停っていたエレベーターを呼び寄せ、その間に首のタオルを頭に巻いた。
チンと同時に踏み出して、足が止まる。中には子供が二人乗っていた。俺たちがこのホテルにチェックインしたときに、乗り合わせた子供たちだった。
「エレベーターで遊んでたら、ホテルの人に怒られっでぇ」
――返事はない。冗談っぽく言ったつもりだが、二人の顔は怯えているように見えた。
自分では、見た目まだまだ若いお兄さんのつもりでいても、この子たちからすると、俺はただの知らないオッサンであって、警戒されても仕方がない。
それ以上は子供たちとは目も合わさないで、俺はエレベーターの表示ランプを見上げた。
そのとき、照明がチッチッと点滅したかと思うと、突然、エレベーターは上下動の余韻を残して止まった。箱内がすうっと暗転していく。
「大丈夫や。落ち着きや」
何の根拠もない。自分自身に言い聞かせた台詞だ。
言った途端、エレベーターは何事もなかったかのように動き出して、照明も元に戻った。
「何やったんやろ……。大丈夫か? ビックリしたな」
今の事態を共有した子供たちに、目をやった。
ところが子供は一人になっていて、しかも、違う子になっていた。
「イリュージョン?」
ふざけることで平静を保ち、開のボタンを連打した。
二階に到着すると、俺は扉が開ききる前に飛び出して、全体に薄暗いフロアの中、唯一明るい自販機コーナーへ駆け込んだ。
「キャ! ビックリした」
「おぉ? 山西さん。どうしたの?」
そこには、先ほどの寺島夫妻がいた。
「あぁ、あれ、何でもないです。ハハ、こんばんは」
力なく笑って頭を掻いた。
自販機に小銭を入れながら、呼吸を整えにかかる。誰が見たって挙動不審だ。
「コンビニでも迷ったんだけど、やっぱり寝る前に、一本だけって思っちゃってね」
寺島夫妻は俺のことには触れないで、先に自分たちがここにいる理由を告げた。
「お、俺もなんすよ。シャワー浴びたら、急に一本だけ欲しくなって」
陽子さんはちょっとの間、思案して「それなら、彼女も一緒に私たちの部屋で飲みませんか?」と言った。咄嗟に出た社交辞令という感じはしなかった。
「いやぁ、アイツは一滴も飲みよらんのですよ。それに俺、ホンマにこれ一缶だけにするつもりなんで」
コンビニの帰りに、車に乗ったときと似たパターンだ。面倒くさいことに、いちおうは多恵にも声をかけて、すぐに部屋の電話で返答する、と約束させられた。
聞けば、夫妻は同じ六階の六〇二号室だという。そこが六〇五号室と同じ間取りなら、十中八九ベッド上での飲み、となる。それも何だか嫌な感じがするし、この話はナシだな。六階まで一緒に行ってくれる人ができたことだけを、素直に喜んだ。
じゃぁ部屋に戻ろうか、となって、俺たちはフロントの前を横切った。
エレベーターは俺が降りたときのまま、二階に停っていた。
本当に森で暮らしている? と連想させるくらいゴツゴツとした指で、ゴリラが躊躇なく上ボタンを押した。
アッと声に出しそうになる。先ほどの怪奇現象を知らない人が、エレベーターのボタンを恐る恐る押すほうが変だ、と咄嗟に思い直した。
すぐにチンと鳴って開いた扉の向こうには、黒いワンピースを着た女の子が、まだ立っていた。
誰も、動かなかった。
俺は二人に、乗らへんのですか、とは訊けなかった。
――ゴリラがゆっくりと振り返って、唇をペロッと舐めた。




