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ゴールデンウィークの初日――
玄関のノブを手荒く回す音がした。
夢現で薄く目を開けると、光の筋が玄関の形になって、その長方形の中に人影が現れた。
「もぉ! 何回も電話してんのに! 部屋のカギ開けっぱで爆睡って、何なん!」
あぁ、ビックリした。耳の奥で多恵の叫びが、イーンと反響している。八畳一間のこの部屋で、この距離で……、彼女は声のボリューム調整機能がおかしい。俺はゆっくりと起き上がった。
多恵は乱暴にカーテンを開いて、俺に無理やり太陽光を注ぐ。その眩しさで、顔の構成パーツが中央に寄った。
俺は布団の上で正座していた。背中は限界まで丸まっている。明るさに負けて、薄らと点滅するケータイのランプを片目だけで捉えていた。
「昨日、何時に帰ってきたのよ。帰ったら電話してってメールを送っといたよね。見てないの? 一昨日に言ってたよね。(九時には迎えに行くさかい。多恵、待たすなよ!) はぁ? 馬鹿じゃないの? どの口で言ってたのよ」
多恵は、背後から首に腕を回し、俺の下唇を二本指でレロレロと弾いた。
「えぇ、目覚まし、鳴ったかぁ?」
俺は多恵をおぶったまま這っていって、目覚まし時計を鷲掴みにした。睨みつけてやるが、それで萎縮するはずもなく、時計の秒針は、今日も正確で元気がいい。タイマーは平日と同じく、七時にセットされていた。
「もぉ! まぁたツナギ着たまま寝てるし」
未だ半覚醒状態の俺を放って、多恵はクローゼットを開けていた。服を選んでくれているようだ。選択肢は少ないので、楽なはず。
「もぉ、何で前の日の晩に準備できてないかなぁ」
珍しく、ぎりぎり聞こえるくらいの声だった。
「あぁいやいや。旅行の準備は、そこの鞄に……」
君の負担は思いの他、軽いよ、という意味を込めたつもりだ。多恵の後ろ姿からは、それが上手く伝わっているのか、わからなかった。俺はまた、ふわっと横になった。
「はぁ……もぉ! ねぇ、コレとコレでいい?」
彼女は呆れたように言って、振り向いた。
「ちょっとぉ! 私が来たときから、一歩も動いてないじゃん!」
頭の上にバサッと置かれた服を受け取って、モソモソと着替え始めた。一度、袖を通す。裏返しになっていることに気づいて、また着直した。
ああ……、連休前夜の飲み会って盛り上がるのよ。
「しばらく留守にするのに、生ゴミとか、ほら、もぉ……」とか何とか言っている声は、また耳から遠退いていった。
俺は昨晩の飲み会を思い返していた。
――時刻も酒も深くなり、珍しく酩酊した工場長が、事もあろうに、社長の奥さんの胸を背後から揉む、といった粗相をしでかした。
目の前で、そんなことをされて黙っている社長ではない。目を吊り上げて、すぐに工場長に掴み掛かった。しかし、お二人はすでに泥酔状態。おっさん同士、組んず解れつの汚い光景が、居酒屋の個室で繰り広げられた。
この二人は学生時代からの親友で、便宜上、社長と工場長という肩書きを背負っているが、立場は同格である、と社長の奥さんが言っていた。
そんな二人が言い争いになるのはいつものことなので、俺たちは仲裁に入るタイミングを心得ていた。もう少し、自由にさせておくという判断は、フロント主任になっていた門倉先輩が下した。
二人はしばらく胸ぐらを掴み合って踊っていたが、店員に咎められて、終わった。
最終的には、なぜか、メタボ気味の工場長の胸を、社長と奥さんが揉み返す、ということで決着がついた――。
油の弾ける音が、玄関からすぐの台所から聞こえてきて、その回想シーンが掻き消された。続けて、多恵の声が飛び込んでくる。
「自転車で、そのキャリーバッグを支えながら、三百メートルくらい坂道登って来ましたけど! 途中バランスを崩して、一回コケましたけど!」
転倒した原因の九割は、お前自身が鈍臭いからだ。……と思ったが、わざわざ油を注いで怒度を上昇させることはない。
「えぇ! ホンマかいな、大丈夫やったんか? 怪我とかせぇへんかった?」
「うん、体は別に……。けど、バッグに傷ができた」
多恵は無理やり損害を見つけ出して、発表した。
いい加減、顔でも洗おうと、俺はのっそりと立ち上がった。ズボンのベルトを調整しながら、キッチンへ行く。
キッチンでは多恵が俺の朝飯を作ってくれていた。その後ろ姿から、また昨晩の光景が浮かぶ。一瞬、背後から胸を弄ってやろうと考えたが、頭を振って妄想を掻き消した。そして気づいたのは、多恵が日焼けをしているということ。
俺は、多恵の横で顔を洗い始めた。
前回のデートは確か……そう、釣り堀で二人してワーキャーと、はしゃいでいた。それから、一週間と経ってない。
「多恵ってよ、まだ四月やのに、何でそんなに顔黒いねん?」
どうにも腑に落ちないので、顔を洗いながら尋ねてみた。
フライパンの上では、タラコとソーセージがジャンジャンと音を立てている。いろんな音が混じって聞き取れなかったのか、返事はなかった。
タオルを掛け直して横を向くと、多恵がフライパンを持ったまま、俺にめちゃくちゃ凄いメンチを切っていた。
顔を洗うよりも、目覚めに効いた。
なぜだ? 美白自慢の彼女が、急に日焼けして現れたら、彼氏としては尋ねるのが当然だろう?
「このパン、賞味期限が切れてるけど、全部食べちゃってよね」
俺が朝飯を食べている間も、彼女は頬杖をついて、ずっとこっちを見て微笑んでいた。
どの部分でキツネの尾を踏んだのか?
日焼けのことしかないけれど……。
何を食べているのか?
ソーセージだけど……。
もう、味なんてわからない。
***
俺たちは大家さんにひと声かけて、駐車場へ向かった。途中、何とも心地良い風が吹き抜けていった。
「めっちゃ久々の遠出やん。気持ち良う出発しよかぁ」
俺の刷新な提案に、多恵はお下品にも舌打ちしながら、助手席に乗り込んできた。
ようやく出発した車は、多恵が自転車で登ってきた、勾配二%の緩く長い坂道を下った。
地元の小学生が描いた〈スピード注意〉のイラストが、等間隔に生える街路樹ごとに設置されている。それが、ここら辺の景観を著しく損なわせていた。
近隣住民ならみんな知っているが、俺のアパートの前の広い道は、二段階に傾斜が付いていて、目の錯覚により、後半部分は下っているように見えない。走る車両は知らず知らずのうちに、スピードが乗ってしまい、その上ブレーキの効く感覚も狂うので、よく追突事故が起こる区間だった。
そして車は、この坂の終わりとなる交差点の信号に引っ掛かった。
〈近隣住民あるある〉で、ここで赤信号に捕まると、国道に出るまで後三つある、全部の信号に引っ掛かる。待つとか並ぶということに、耐えられない質の俺は大袈裟なため息をついた。
「ここ、曲がって行こう」
信号待ちの間に、突然、多恵が言い出した。
「高速に上がるんやで。遠回りになるやん。どこか寄りたい所でもあんのか?」
俺は前の信号を睨んで、早く青に変われ、と念じながら訊いた。
返事がないので助手席を見ると、多恵は俯いて首を竦めている。顔が黒いのでわかりにくいが、たぶん青ざめている。こんな彼女を見るのも久しぶりだ。
「えっと、前にか?」と、フロントガラス越しに前方を見渡した。
彼女は目線を下に向けたまま、何度も頷いていた。
俺は耳を掻きながら、言われるがままに左折した。前方に注意しながらも、チラチラと多恵を気にした。
彼女は後ろを振り返り、交差点を睨むように見ている。シートベルトが体に食い込んでいるが、お構いなしだった。
「何なん? 大丈夫なん?」
尋常ではないその仕草に耐えられなくなった。
少し間があって、フゥーッと長く息をついた多恵はやっと前へ向き直り、背筋を伸ばした。手刀で首をトントンと叩く。
「もぉ……さすが」
俺の肩に手を添えると、多恵は困ったような表情で言った。
この車は下取り車の横流し品で、車両本体価格こそ三十万円だったが、部品代だけでも二百万円以上かけ、夜な夜な苦労を重ねて整備改造を施してある。自慢の加速力で、得体の知れないモノを振り切ったのか?
***
「折角、親切丁寧に優しぃく優しぃく、指導してるのにさ。また一人辞めちゃってさ。私の教育係としての評価なんて、あったもんじゃないのよ! この前も人事部のお局様に、散々嫌味を言われてさ」
多恵は何事も無かったかのように、ベラベラと喋り出していた。
時に、チラチラと俺に目を向ける。その同意を求めるような眼光は、俺に反論を許さない。多恵に教育される奴に、同情するわいや――とは、冗談でも言ってはいけない場面だ。
「面接に割く時間、新人の研修場所確保……、結構ぅ経費が掛かってんのよ。わかりやすく利益を上げる部署じゃないですからぁ、私たちもいろいろ言われちゃっててぇ。藤堂さんの所だけ、続けて二人とかってぇ……」
多恵は顎を突き出して、人事部係長のモノマネをして見せる。
「おぉ! そいつ、なかなか憎たらしい言い方しよるやん」
その人と会ったことのない俺に、多恵のモノマネが、どの程度似ているのかなんて判断できない。それでも彼女に調子だけ合わせた。
「うぅぅ知るかぁ! 実際、新人発掘の腕ないじゃん! 見る目ないじゃん! アゴ出てるじゃん!」
お、おぅ、だいぶヒートアップしてきたな。
多恵は助手席で愚痴りながら、水ばかり飲んでいた。
彼女の怒りモード話に、フンフンと相槌打っているだけでは、いつまで経っても終わらない。多恵と付き合い始めて、もうすぐ四年、俺はこの年月で培った経験から、ここらで話の方向を変えなくてはいけない、と思っていた。我が身にも、火の粉が飛んで来そうな予感がしたからだ。
「その人のこと、あんま知らんけど……。おぉ! 道、やっぱり混んできよったでぇ。水分控えんと、トイレとかヤバいんちゃう?」
多恵は細い目で、俺を見竦めた。
「雑誌とかのモデルで、一日に三リッターぐらい水飲む人がいるんだってさ。デトックス効果期待大って感じ?」
多恵の言う、その、お水大好きモデルさんだって、長距離移動のときは、きっともう少し控えるよ。そして、お前はモデルさんじゃないだろう。
ふぅん、と俺は返事をした。
***
ひと月前のこと――
(久々に晩ご飯でも作ったげる。帰りは何時頃?)と、昼にメールがあって、今は二人、俺の部屋で寛いでいる。ゆっくりと寛ぐに至るまでには、いろいろとあったが、とりあえずは一生懸命謝ったので、こうして肩の触れ合う距離で、テレビを観ることができていた。
多恵がキャラメルコーンを頬張りながら、今度の大型連休に俺の地元へ行ってみたい、と言い出したのは、芸能人が田舎の一般宅に泊まるという、テレビの企画番組を観ていたときだった。
そう言われれば、実家どころか、地元にさえ彼女を一度も招待したことがない。
兄貴が結婚をしたときに、何となくの追い出された感を抱いたような記憶があるだけで、俺と兄貴は、特に仲が悪いというわけではない。
親の七回忌に帰省したときには、智美義姉さんも含めて、夜通し飲んだ。
ただ、俺が就職してからは、それ一回きりだった。疎遠というのは、そのうちに機会があればなんて思っていると、どんどん余所余所しくなっていくものだ。
あのときもそうだ――。
高校時代の友達に会うついでに、俺は実家に訪れていた。家は知らないうちに増築リフォームされていたので、驚いた。兄貴たちはちょうど留守。その代わりに、いつまにか家族の一員となっている馬鹿犬がいた。あいつは、当然俺のことを知らないので、いきなり飛び出してきて吠えまった。その勢いには、腰が抜けるほど驚かされた。
俺が前もって、実家に寄る、と一本の電話を入れさえすれば、たぶん、義姉さんはそれなりの準備をして、迎えてくれるだろう。俺の一方的な不精のみで、時だけが過ぎていた。
会社の同僚と、中国地方へドライブ旅行に行った際には、俺は地元をただの通過点とした――。
連休の過ごし方としては、俺なりの別プランがあった。しかしそれは、大したデートプランではなかったので、多恵の意見に抵抗はしなかった。
俺たちは付き合ってもう四年。お互い二十八歳になる。兄貴たちに紹介するのも、遅すぎたくらいだと思う。
多恵を連れて一泊か、二泊……。今回こそは、兄貴に電話をしなければならない。
テレビの画面には、長閑な田園風景と、疎らに建つ大きな家屋が映っている。それを、マンション育ちの多恵は、食い入るように観ていた。
「俺の地元に何を期待しとんのか知らんけど、ここまで田舎と違うっちゅうねん!」
俺は口を尖らせた――。




