髪飾り
――ベンチに浅く腰掛けて、エンジ色の道路の向こうにいる男を眺めていた。
男は左腕を枕にして、硬いコンクリートブロックの上でも、じつに気持ち良さそうに眠っている。口のあたりを、何やらムニムニと動かしているようだ。右手は腹の上に添えられていた。
不意に、その手がだらりと垂れた。その手に払われて飛んだペットボトルは、地面で一度跳ねて、見事に立った。
――おっと、プチミラクル!
俺はそんなことで、茶柱が立ったくらいの小さな幸福感を得た。要するに何もすることがなくて、暇だというわけだ。
そもそもなぜ俺がこんな所にいて、あんな男を眺めていなければならないのか。そう思って立ち上がろうとしたとき、向かいの男が顔をこちらに向けた。あっ……俺?
男はあまりにも似ていた。俺はバランスを崩してベンチに座り落ちた。そのまま呆気に取られて、男とペットボトルを交互に見ていた。なぜだ、どういうことだ、と繰り返すうちに、頭は留守になっていった。
ふと我に返ったのは、歌とも会話とも取れる声が、耳に届いてきたからだ。自然と意識は左側へ。そして、徐に寝たふりをした。
(これはまた、お子ちゃまの団体様やん……。あんなんに絡まれたら、堪ったもんやないで)
その声はどんどん近づいてきて、行き過ぎた、と思った所でやんだ。
俺は、そうっと薄目を開けた。
見ると、五人の女の子たちが輪になっている。着物姿の女の子四人に混じって、ジャージの子が一人。何やら楽しそうに話していた。囲まれているのは、あの男。
そのうちの一人の子が男を指差して、それを皮切りに、男は揺すられたり、つつかれたりし始めた。
あれで良く寝ていられるものだ。それとも、我慢して相手にならない作戦か?
変だと思いながら、なおも観察していると、女の子たちは遂に男の顔や手に落書きを始めた。(あ~あ~悲惨)
顔が似ているだけに、男が不憫でならなかった。
悪戯する子供たちを追い払ってやろうか? う~ん、ここは考えどころ。できるだけ優しい口調で言うとしても、あの子たちが泣き出してしまったら、どうなるだろう。昨今の社会事情を考慮したとして、あの子たちが親を召喚すれば、こっちのほうが面倒くさいことになりかねない。
(そうや! あいつを起こしたったら解決やん)
やれやれ……、ゆっくり腰を上げながら、何て優しい奴なんだと自画自賛した。
しかしそこで、俺は突然肩を掴まれて、また座らされた。
「向こうのキュウは、凄く守られてんじゃん」
肩にそっと手を置いて、言ったのは多恵だった。
向こうのキュウ? あれのどこをどう見れば、守られているように見えるのだろう……。
「喉、乾いてるでしょ。このお水、飲む? 冷たいよ。雑誌のモデルさんとかって、一日に三リッターくらい飲む人がいるんだってさ」
先ほどから、喉の乾きは感じていたので、有難いし、頂くけれども……。十八リットル入りのポリタンクでラッパ飲み? 何だ、この光景は? いつから多恵が後ろにいて、何で大量の水を持ち歩いているのか? ……何が何だか。
多恵に言われるがまま、ポリタンクの水を飲む。普通に美味いけれども……。
ポリタンクがやけに軽い。なるほど、そういうことか。――これは夢だ。
この公園の夢は、高校を卒業したとき以来だ。あまりに久しぶりすぎて、夢だと気づくのが、だいぶ遅くなった。
「キュウ。そろそろ起きたら? いろいろとやることあるんでしょ」
この声は多恵だったか。景色が薄い分、声色も普段と少し違うので、今まで気づけなかった。
しかし、俺が多恵と出会う前から、この夢を見ているという疑問が、新たに湧いた。
頭を巡らせながら水を飲み続けていると、目の前の風景が動き出した。周辺が騒々しくなってきた。
家族連れや、買い物帰りのおばちゃん達が、俺たちの前を行き交った。
急に登場人物が増えたな。
あの男と子供たちは、いつの間にかいなくなっていた。
ポリタンクの水は、まだ十七リットル以上残っている。
多恵は俺をじっと見つめている。
何だろう? これを全部、飲み干さなければならない、という条例でも施行されたのか?
***
そこそこ猶予のない尿意で、目が覚めた。
のそっと起き上がってトイレへ向かう。すぐに、ここが多恵の部屋だとわかって、進行方向を変えた所で、彼女に蹴躓いた。
「痛っ! 何よぉ、もう起きるの?」
「あ、悪い、ちょっとトイレ。多恵が夢ん中でアホみたいに水飲ますし、漏れそうや」
「何の話よ……。もぉ、勘弁してよ」
気持ち良く二度寝した後、次に目覚めたのは九時頃だった。
多恵が支度をする間、お出掛け効率を考えて、朝飯の用意は俺が担当した。
「今日のデートは寺社巡りかいな?」
ちょっと崩れてしまった目玉焼きをつついた。
「巡りって、一箇所だけでしょ。私、いいとこ知ってんだから」
多恵は、クッサイ、クッサイ、納豆をまだ捏ねくり回している。
「そこって、祭日でも営業しとん? また今度でええんちゃう?」
彼女は、もぉ! と言った後、味噌汁が薄い! と、俺を睨んだ。
***
今日も朝から日差しは強い。
もうすぐ俺のアパートに到着という所で、多恵が言った。
「いちいち駐車場に入れるの、面倒じゃん。どこに置いてあるか言ってくれたら、取ってくるよ」
ピンポイントで、どこと答えられるはずもないので、俺は焦った。
「いや、着替えたいし、俺も戻るわいや」
多恵は、ふ~ん、と気のない返事。視線はずっと続く街路樹に向けられていた。
車を駐車場に入れて、俺たちは並んで道路脇に立った。
うちの駐車場はアパートに隣接していない。道路を挟んですぐ前だが、この直線区間は飛ばす車が多いときたものだ。それでなかなか渡れないときがある。
俺たちは小走りで道路を渡り、カンカンと響く階段を上がった。
ドアを開けると、丸一日締め切った部屋の熱気に襲われた。
多恵が「キャー死ぬぅ」と言いながら、窓を開け放つ。そして扇風機を外に向けて、最強レンジ。熱気を追い出そうとしているようだ。
その間に、俺はクローゼットを開いて、左下のほうから漁っていった。
置いた場所どころか、片した記憶すらなかったが、それは一発で見つかった。中を確かめるまでもなく、この缶の箱だという自信があった。窓際まで行って、積もった蓋の埃を吹き飛ばす。それをテーブルへ置くと、多恵が蓋を開けた。
「うぅわ。本当に四つ入ってる。怖ぁ」
多恵は静かに言って、しばし蓋を持ったまま固まった。
その箱には髪飾りの他にも、ミニ四駆や、ネジの余りに、訳のわからない電子基盤が入っていた。
「おぉ、懐かしい」
箱の中を多恵の肩越しに覗き込んで、言った。
「全然、大事にしてるようには見えませんけど……」
振り向きもせずに呟くので、俺は口を噤んだ。
彼女は髪飾りだけを取り出して、テーブルに並べていった。
「こんなことって……。え~マジでぇ」
その中の一つを手に取って、驚きの声を上げた。
「これ、私が小学校んとき、夏休みの図工の宿題で作ったやつ。――えぇ何で?」
「またまたぁ。……ホンマかいな? それがたぶん母ちゃんに貰ぅたやつ」
「おばあちゃんのを、見よう見真似で初めて作ったやつだもん。うん、絶対そう!」
臍の下辺りに痺れを感じた。背中にいつもの張りがあった。
俺は、多恵を後ろから抱きしめた。
「ちょっと、暑いって。もぉ、運命とか感じてんの?」
「これは感じるやろ、普通」
「……うん、ビックリした」
そして、俺たちは……あれ? 見つめ合わなかった。
多恵は俺の高揚を無視して、別の髪飾りを舐め回すように見ていた。多恵が見る角度を変える度に、付いていた鈴が、チリリと鳴った。
俺はスーッと冷めていった。なおも観察し続ける彼女を尻目に、箱を片付けて、着替えに取りかかった。
「久しぶりに、電話してみよっかな」と、多恵が呟いた。
「あん? 誰によ?」
「いいの、いいの、こっちの話。それよりキュウ、早く着替えてよ」
とっくの昔に、俺は就寝用ツナギから、他所行き用ツナギに着替え終わっている。とぼけた彼女が、自身の観察力の無さを晒した。
「どこ見とんねん。着替えたやんけ」
多恵はため息をつくと、手で顔を扇ぎながら立ち上がった。
「暑い……。じゃ、出掛けよっか」
***
新しく貰った髪飾りを一つ部屋に残して、俺たちは浜名湖方面へと向かった。
「ちょっと遠いんだけどさ。おばあちゃんの知り合いの神主さんがいるのよ。その人なら、いろいろ説明しなくていいし、信用もできるしね」
「とにかく道さえ混んでへんたら、どこでもええんやけど。今日なんか、どっち方面も厳しいんやろうな」
この髪飾りを捨てに行く……か。
今日まで、どこにしまっていたのかも、忘れていたような物だ。捨てる段になって、何を迷うことがあるのかと思う。頭では、そう言い包めようと努力しているが、多恵からのもそうだし、母ちゃんからのも、今さらながらに惜しくなった。
そんな気持ちが多恵に伝わってしまったのか、彼女は神妙な面持ちで、焚き上げるまでコレの役目は終わらない。終われないまま効力を失うと、その物自体が嘆く、と難しいことを言った。
「借りてたって思えばいいじゃん。――で、今日がこれの返却日」
訳もわからず持っていた物だが、そんな簡単に割り切れない。使い込んだ工具を買い替えるときとは、また違った未練が尾を引いた。
「なぁ、その中に多恵がくれた物もあるやん。あれって付き合い出して、すぐのときやなかった? ……て、ことは、そのときも、もう何か憑いとったん?」
彼女は思い出すように、視線を回した。
「キュウに初めて会ったときね。ほら、あの品商のオフィスで。――あのときねぇ、キュウの後ろに、首にロープを巻きつけた男の人が憑いてたの。あれを背負ったまま、元気でいられる人がいるってことに、ビックリした」
「あぁそう……」
その、吊ったか絞められたか、わからない男がそれに封じられているのか。なるほど……、借りた物は、きちんと返さないといけないな。
車のエンジンは唸りを上げて、俺たちを加速させた。




