パイセン門倉
予想に反して、雨はドバッと強く降って、すぐに止んだ。
すでにうるさいセミも復活を遂げている。これしきの雨では、気温が下がってくれることはなかった。アスファルトから立ち上ってくる熱気と生乾きの匂いで、俺は一味違った不快感を味わっていた。
駐車場では、今年入ってきた後輩二人が、納車前の車を見て肩を落としている。洗車したばかりだったのに……とか何とか。
俺はそいつらの背中を叩いて、コーヒーでも飲め、と言う。
「よぉお帰り、遅かったな。どこでサボってたんだよ?」
車の下に潜っていた門倉先輩が、寝板をずらし、頭部だけで出迎えてくれた。
「サボってたんとちゃいますよ。ちゃんと電話してったのに、何やタイミング悪ぅて、散々待たされたんすよ」
俺は困った表情をオーバーに作り、大変さを精一杯アピールした。
「そんなことよりも、カドやん、あの営業の部屋に入ってすぐの席に座っとん女の人って、知ってはります?」
「あん? どの女のことよ?」
先輩は工具を手の中で回し「はっは~ん、あの娘だろ! あの娘いいよなぁ。ほっぺたなんかプニプニしてて、今どき長い黒髪でさ」と言った。
いや、その出荷前の白ブタのほうじゃなくて……。先輩がデブ専だったことを思い出した。
「ちゃいますよ。その人と迎え合わせの席で、ほら、このキーホルダーに何となく似た感じの」
それは先輩のツボに填まったようだ。車の底をカンカンと工具で叩きながら笑い出した。
「あぁ、わかる、わかる。あの目の細い子な!」
ウケ狙いで、仔キツネのキーホルダーを持ち出したのではない。言ったのは俺だが、あの人が馬鹿にされたような気がして、へそを曲げた。
「キュウは、ああいうのが好みなんかよ」
工場長への報告義務を理由にして、俺は先輩から足早に離れていった。
「キュウ! 今日の帰り、飲みに行こう!」
毎日の献立を考えるのが面倒になっているせいもあって、俺はこういう誘いを断らない。背中へ投げられた言葉に手を挙げて、了解、と返事をした。
品商担当主任であり、社交的な門倉先輩なら、あの女性について何か知っているだろう。しかしあの先輩は、俺と相反する趣味趣向を持っている。門倉目線で得た情報は、大したことはないかもしれない。
***
時刻は十九時半。
会社に残っているのは、社長と営業に力を入れている者が数名。
とっくに着替えを済ませた門倉先輩は、俺の上がりを急かしてくる。
「なぁキュウ、まだ終わんないのぉ?」
「品商の点検スケジュールを、毎月五日にファックスで送らんとアカンのでしょ? 整備記録が紛失してる車両とかがあって、引き取り優先順位の計画表が埋まらへんのですよ」
先輩が、俺の視界内でウネウネと気色悪いダンスを舞った。それがチラチラと、なかなかに鬱陶しい。
「初っ端から全部把握しようなんて、無理だって。追々教えてやんよ。それよりも店を予約してんだよ。早く終われよぉ」
折角、俺が仕事に意欲を燃やしているのに、PC入力の邪魔をする。
「へ? 二人で飲みに行くのに予約て、何すか? いつもの所やないんすか?」
そこへ営業の二人が顔を出した。
「お客さんとこに寄ってそのまま帰るから、後はよろしくぅ。社長もさっき帰ったよ」
「うい、お疲れっすー」
結局それが切っ掛けで、何となく片づけ始めた。戸締りは先輩がすでにやってくれていた。仕事のやり残しを気にしつつ、工場で自分の車を弄って遊ぶ後輩に声をかけた。
「もう事務所は閉めたしなぁ。工場のコンプレッサーの電源だけは落としとけよ」
「はい、お疲れっすー!」
そして、それから三分も経てば飲みモードへ移行した。移りゆく、人の気持ちの、摩訶不思議ってやつだ。
俺たちは会社の裏手にある社員通用門へ向かった。
毎朝、ツナギ姿で出勤している俺は、今もそのままの格好だ。手にはリュックが一つ。肩を並べて、今日も暑かった、と言いながらダラダラと歩いていた。これは、今からいただくビールを美味しくするための、前フリみたいな言葉だ。話題は専ら、東京モーターショーで出展されていた、コンセプトカーの話。
会社の敷地を出た所で、先輩は御用達にしている駅裏の居酒屋とは、反対方向へ向かった。そっちは社員駐車場だ。なので、予約の件も含めて、行き先を改めて尋ねた。
「まぁ、いいから、いいから、しかも今夜は全て俺の奢り」
俺の聞き違えではない。門倉先輩が男前な台詞を言い放った。
年齢を重ねるごとに(奢り)という言葉を聞いても、三日分くらい食い溜めしてやろうなどと、さもしい発想はしなくなっていた。それでも、反対意見を退ける力があるという事実だけは、今も昔も変わらない。
「何すか、カドやん。何かええことあったんすか?」
そのときに、先輩のケータイが鳴った。着メロは八代亜紀の舟歌。
「いいことがあったのは、お前のほうだろ。先輩としてたまには、な。――はい、もしもし」
中田自工で、大口顧客の担当を任されるということは、同時に出世と手当てアップを意味する。実際、渡された名刺には、新たに〈整備主任〉という肩書きが印刷されている。俺は先輩の奢りを、出世祝い、と受け取った。
先輩は電話を切ると、工場の社員駐車場の前で立ち止まった。
社員駐車場の奥には見慣れない車が一台停まっていて、動き出すと同時にヘッドライトが点灯。そして俺たちのほうへ向かって来た。
「遅いってば! 二人ともさっさと後ろに乗って」
「だってコイツが、いつまでもグダグダとやってんのよ」先輩は俺の肩に手を置いた。
助手席の窓を下げて顔を出したのは、品商で俺が最初に名刺を渡した、ふくよかなOLさんだった。
……訳がわからない。俺は、躊躇することなく乗り込もうとする先輩の腕を取った。
「ちょっとカドやん、どないなってますの?」
「まぁまぁ、いいから、いいからぁ」と、先輩はニヤリ。
「ブヒヒ、いいから、いいからぁ」と、助手席の女性も急かしてくる。
太い女性と先輩にはぐらかされて、促されるままに後部座席へ乗り込むと、運転手が振り返った。
「こんばんは」目を細めてピョコッと頭を下げた。
運転していたのは、今日の昼すぎに俺が一目惚れした女性だった。
「細井さん、急でゴメンな。藤堂さんも、車を出してくれてありがとねー」
車は静かに走り出し、先輩の指示通りに路地を抜けていった。
品川商事の担当主任を五年も続けるということは、そういう力とパイプを持つということか。
俺は調子よく喋る先輩を見ていた。その眼差しには、感謝と尊敬と恨悔が入り混じっていた。汗と雨のブレンド汁を、夕方四時からの自然のみに頼った乾燥……俺の体は、今、ヤバい。
たまには、工場のシャワーを浴びれば? とか、今日は着替えて行こうぜ、とか、ヒントぐらいくれてもいいのに! ツナギしか持って来ていないけど、ロッカーには洗濯済みのツナギが入っていたのに!
俺は、こっそりとツナギの襟に鼻を近づけた。
先輩はそんな俺を気にも止めず、誰が見ても明らかに太っているのに、細井と言い張る女性と、店に着くまでずっと喋っていた。
居酒屋に着いた俺たちが通されたのは、一番奥の六人掛け。両隣とは低いレンガの壁で仕切られている。
訳も聞かされないままの乾杯に無理やりテンションを高め、先輩の馬鹿話に俺は絶妙なツッコミを入れ続けた。
「あのぉカドやん、これどうなってますの?」
ひと盛り上がりした後、俺は小声で訊いた。
「男二人だけで飲むより、ずっと楽しいだろ?」
「そら、そうやけど……」俺は前の二人をチラリと窺う。
「キュウが一目惚れしたって言うから、先輩の俺に何かできることはないか、と一肌脱いでやったのよ」
「ほ、惚れたとかって、言ぅてないですやん」
見透かされているので、反論は苦しい。そんな大きな声で、しかも本人の前で……。もう、どんな顔をすればいいのかわからない。
向こうは向こうで「多恵っち、彼氏欲しいって言ってたじゃん。あの人いいかもって言ってなかった?」
「ちょっと、変わってるって言っただけで、い、いいなんて一言も……」なんてやっている。
主に喋っているのは、先輩と細井さん。俺と藤堂さんは、ときにネタとして扱われ、完全に聞き役に回っていた。
そして、焼酎をいいペースで開けていくうち、先輩がさらりと言ってのけた。
「俺たち、このまま付き合っちゃおっか?」
先輩の企みが、やっと見えた。
「ブヒ、それいい! 後は若い二人に任せて、私たちは、もう行きましょうか」
細井さんが、ベタに見合いの席のオバハンを真似た。
藤堂さんも利用されたと気づいたのか、憮然とした表情を浮かべた。
「ここの勘定は任せとけ!」ブヒーッ!
そう言い残して、二人は店を出て行ってしまった。
俺は店の出入り口まで二人を見送り「ゴチになります」と頭を下げた。
さて、と振り返って席に戻る。あまりの急展開に俺は何の準備もできていない。今まで気にもしてなかった店内の喧騒が、このテーブルに訪れた。
しかし、いずれはこうなることを望んでいたはず、と考えると決意は固まった。
「藤堂さん、あの……好きなタイヤのメーカーはどこですか?」
彼女が大笑いした後、俺たちは徐々に打ち解けていった。
今までは細井さんのせいで鳴りを潜めていたが、藤堂さんも良く喋る人だった。聞くと、偶然にも俺と年齢は同じ。育った環境は全く違うが、学生時代に流行った物が同じだったりして、話題には事欠かなかった。俺の話にコロコロと笑う彼女は、やっぱり可愛い。つくづく俺はキツネ系の顔が好みなのだ、と再認識させれていた。
そんな中、俺だけがビールを飲んでいる状況に気兼ねして、彼女に代行タクシーを勧めた。
「別に我慢してんじゃないよ」
彼女は元々アルコールに弱く、コップ一杯のビールで、頭が痛くなると明かした。
へぇ、と言った後、言葉が出にくくなった。
俺の周りには飲める人ばかりが集うので、下戸への気遣いがわからなかった。彼女から、居酒屋で長居したくない、という信号が送られたようにも感じたが、受信先である俺のアンテナが思いの外ポンコツで……。
こちらの意思は、先ほど先輩がバラしたので伝わっているはず。これからも個人的に誘っていいか、と尋ねたいところだが、酔った勢いでする告白は軽々しいというか、俺の思考は硬くできているいというか。先の先輩を非難するわけではないが、酒を飲まない人がその対象だと、余計に嫌われそうな気がした。
とりあえず、日と場所を改めるとしよう。
彼女にそう伝えて立ち上がろうとしたとき、ふと気になったのは、皿に残る料理の数々。奢りだとはいえ、食い物を残すことに抵抗を感じた。
「もったいないし、もうちょっと食ってから出ようか」
「そう、ね」
俺は急いで皿に取り掛かった。食っている最中に、ふと、セコイ奴と思われたのではないかと危惧したが、大丈夫そう、を通り越して好印象だった。
藤堂さんも手伝ってくれて、結構きれいに平らげた。
店を出た後は、どうしようか? このままドライブに誘ってみようか?
「家、遠いの? 飲んでるんだし、近くまで行くよ」
「あぁ、そうやね。え~っと、ほな頼んます」
帰宅……。いや、酔いを醒ましてから帰りたい、なんて言ったら、しつこいと思われるだろうか? うん、仕方ない。今夜はもう帰ろう。
「私、人混みがあんまり得意じゃないの。もう少し静かで涼しい場所が好きだな」
「今の時期は特に、涼しい場所が恋しいわいね」
これは脈ありと踏んだのは、早とちりだったかもしれない。店では、酔って告白がどうのこうの、と格好をつけてみたが、何せ勢いづいてしまったものだから仕方ない。俺は帰りの車内、助手席から彼女をデートに誘ってみた。
結局、俺は近所ではなく、アパートまで送ってもらった。
片手をポケットに突っ込んで、彼女の車のテールランプを見送った。片方のストップランプ球が切れているようだ。今度、無料で交換してあげよう。――有頂天だった。明日はバスで出勤しなければならないが、どうでもいいと思った。門倉先輩が、あれからどこへ行ったのかなんて、全く気にならなかった。




