あれから六年
品商が中商になったりしていても
気づかなかったので驚いた
テレビで梅雨明けが発表された。
節水だ、節電だ、と経理兼電話番の社長夫人が喚きだした頃、俺は社長に呼ばれた。
「山西くん、来月から〈品川商事〉の担当主任になってくれ。四年目だとちょっと早い気もするけど、まぁ大丈夫だろ。工場長と門倉くんに詳しく教えてもらってくれよ」
「え、品商っすか?」
大口取引とか業販扱いになっている会社は他にもあるのに、よりによって品川商事……。
(代車をもっと良い車にしろ)だの(社員個人の車も優先的に点検修理しろ)だのと、あそこは特にうるさい会社だ。(煙草臭いのを何とかしろ)と言ってきたときには、普段はおおらかな現担当者の門倉先輩も怒りまくっていた。そういうのを見てきたから、正直にいって気が重い。――それでもまぁ、いち社員として(えへへ、嫌っすね)とは言いにくかった。
ここは静岡のとある街。
就職のことで悩んでいたところ、学生時代に同じ屋根の下で暮らしていた先輩が呼んでくれたのだ。それで、俺は縁もゆかりもない静岡で就職した。
とりあえず、俺は学校卒業と同時に、整備士の資格を取ることができた。しかし実際に働き始めると知らないことのほうが多かった。新しいテクノロジーを使った車が次々と発売されていく中で、それについていくのは結構大変なことだ。それでも給料を貰っているのだから、正規ディーラーと連携して、勉強していくしかない。
給料といえば、ここ〈中田 自動車販売修理工場〉で貰っている額には不満がある。しかし、住宅手当として三万円を支給してくれるので、何とかやっている。同僚もみな気のいい仲間だ。いずれは独立して地元で店を持つ、なんて淡い夢を抱きながら、俺は日々経験を積んでいた。悲しいかな現在も彼女はいない。
品商担当の話があってから、一週間後。
いつものように午前の引き取り業務から戻ると、工場長が小さなプラスティックケースを振りながらやってきた。
「お―い、キュウ! 発注かけてた、お前の名刺が上がってきたぞ。――で、早速よぉ、昼一で品商さん所に、面通しに行ってくれよ」
三十台の社用車を抱える品川商事へは、現担当者と車検や点検で何度も訪れている。
「ういっす! ほな俺、今、預かってきた車を仕上げたら、遅メシにして、一時間ほど抜けますわ」
品川商事までは、混んでいなければ十五分ぐらいで行ける距離にある。俺は工場長に言われた通り早めに出発して、普通に早く到着してしまった。世の中には、ここ一番というときに限って事故などに巻き込まれたり、自らが何かやらかしてしまったり、ツイテナイ人がいるらしい。今日の俺は、そいつらとは違うようだ。
空には薄く雲がかかっていた。このところ毎日のように突然の激しい夕立にみまわれているが、今日はそんな感じがしない。
そんな雲をバックにしてそびえ立つ品商ビルが、俺の心情を反映してか、刺々しく見えた。本社でもないくせに、そこそこ大きな自社ビル。その堂々とした構えも、俺に隔たりを感じる要因の一つだと思う。
そのビルに隣接する駐車場は配達業者が占領していたので、俺は第二駐車場へ向かった。第二からだと、少し歩きになるので少々面倒くさかった。
そして、トコトコと歩いて戻ってくると、さっきまで占領していたトラックがいなくなっていたりする。少し待てば良かったのか? あぁ、ツイテナイ……。待つのが嫌い、並ぶのも嫌いな性格は、時に損をするものだ。
ビルの中に入ると、これがまた広い。接客ソファーが数席並び、その間を仕切るような、観葉植物が同じ数だけあって、これでもかと威張るサイズの絵画が壁に填め込まれている。しかもこの広さで冷房がちゃんと利いているのだから、気持ち悪い。それで、一番奥が受付カウンターとなるのだが……。俺はこの会社に来るたび、ここのレイアウトは変だと思っていた。
入口から受付カウンターまでの距離が、このビルの奥行とほぼ同じ。つまり、来客はまずこのビルの端から端まで歩かされるのだ。駐車場から直接入って来れる通用口もあることにはあるが、俺たち出入り業者は使っちゃ駄目よ、ということになっている。俺のような面倒くさがりじゃなくても(受付が霞んどるやんけ!)と、多くの人が心の中で叫んだに違いない。
品商には何度も訪れているとはいえ、いつも駐車場か、一階ロビー待機だったので、俺はここより上へ行ったことがない。引き取りが複数台になる場合、ツナギがゾロゾロと入って行く様が不快、と言いやがるスーツに気を遣ってのことらしい。
まぁ、そう文句ばかりは言っていられない。自分の胸をトントンと叩いて気を静め、遠くの受付を窺った。
受付には背筋をピンと伸ばして座る女性が、二人。
今はその両方に四人ずつの来客があった。あの受付嬢は品商の社員ではなく、専門スキルの会社から綺麗処が派遣されていると聞いている。いつ来てもにこやかに対応してくれるので、彼女たちには結構和まされたものだ。しかし……。
「それとなぁキュウ。受付の女の子には手ぇ出すなよ。特に向かって右の髪の長いほう。海外何とか部部長の愛人らしいぞ」
「え、マジっすか」っすか……っすか……。
現担当者に釘を刺され、俺のピュアな恋心が砕けたのは、ほんの一時間前のことだった。あそこに並ぶのか……。俺は細く息を吐いて受付に向かった。
そのとき、男女ひと組のスーツに追い抜かれた。すると途端に並ぶ気が失せていった。
「みんなバタバタしとんのぉ。靴に加速装置でもついとるんかいな」
そう言って舌打ちした後、周りに聞いていた人がいないかを確認した。
ソファに座って待つか、トイレに行っておくか。案内板が目について、俺は進行方向から直角に折れ、トイレに行くことにした。
「あ、ちょっと君、田中自工さん?」
トイレ間際で、知らないスーツに呼び止められた。そのスーツの立ち振る舞いから(ヘイ、ボーイ)と呼びかけられたように錯覚して、ムカッときた。
中田自工です、と訂正するのも邪魔くさくて「はい、何か?」と、笑顔で返事をした。一般客からも、よく間違えられるので、特に気にはしていない。
「今から上に行くの? 八号と十五号車だっけ、そろそろ新車にしてもらえるように、配車管理に頼んじゃってくんない?」
何の用かと思えば、八と十五って、まだ五年落ちぐらいの車だろう。俺は持って来たファイルを捲った。八号車が四年目で、十五号車が三年半……。さては、どこかにぶつけたとかで、報告せずに証拠隠滅を謀ろうとか?
「そら、新車を入れてくれはったら、うちは嬉しいですけど、入れ替えとなると本社の承認が必要になるって聞いてますよ。六年未満の車は、さすがに難しいんとちゃいますかねぇ」
そのスーツは、母親に玩具をねだって拒否されたときの、子供と同じ顔のような顔をして立ち去った。
何なんだアイツは! いや、ここは(そうですね。交渉してみます)と適当にでも言っておいたほうが良かったか? あぁもぅ面倒くさい。これ以上気分が悪くならずに済むよう、俺は足早に一番奥の個室へ逃げ込んだ。
「来月一日から、こちらの車両担当ちゅにん……担当主任ににゃります……な、な、納豆ネバネバ、ナニヌネノ、なります。山西ヒサシでーす」
どうも舌が上手く回らない。名刺って、どのタイミングで出すのだったか? とにかく、必須伝達事項の順序だけ整理しながら、顎のエラ辺りをマッサージして「滑舌、良くなぁれ」と三回唱えた。
昔から緊張したときに起こる背中の張りが、キリッと突っ張った。
受付に挨拶にきたことを伝えて、訪問者帳に記入した。それから内線連絡をしてもらって、案内役みたいな人について行く。一つ一つの扉が、社員証のICチップを読み取って開くシステムなので、部外者の俺は送り迎えをしてもらわなければならなかった。機密保持だか何だか知らないが、面倒くさい、の一言に尽きる。
エレベーターで六階まで。そこから歩いてやっと営業課の前に立った。オフィスの扉を開けてもらい、一人で颯爽とドアをくぐった。
ドーッと声の波が押し寄せてくる。みな忙しそうに、電話をしたり、パソコンを叩いたり。俺は仰け反ったまま、横歩きでその場から移動した。
――やっぱり工場長が間違っていると思う。普通、引き継ぎのときだけは(これが、来月から担当責任者になる云々……)と紹介するものではないのか? どの人に会いに行けばいいのか、わからない。俺はキョロキョロと困った素振りをしてみた。
だが、誰も御用伺いなんてする気はないようだ。
それで仕方なく、一番手前に座っている太った女性に声をかけて、名刺を渡した。
「中田自工様ですね。車両管理の安達を呼んで参りますので、そちらの接客ブースでお待ち下さい」
接客ブースとは名ばかりの、磨りガラスのパーティション一枚で隔てられた、接客コーナーで待たされていると、先ほど応対した人とは別の女性が、お茶を運んできた。その女性から、責任者が電話中だと告げられた。
俺はその女性が離れて行ったのを確認してから、ここでもまた待つのか、ちゃんと電話でアポイントを取ってから来ているのに! とソファーにふんぞり返った。
そんな中、OLさんたちの話し声が漏れ聞こえてきた。
「あの人が、新しい車両担当だってさ。ほら、これ名刺」
俺はパーティションの端からスーッと顔を出して、その声の主を確認した。
長い黒髪を匠に使い、顔の輪郭に修正を施している女性が、俺の名刺でピラピラと顔を扇いでいた。一旦オフィス内に入ってしまえば、機密保持なんて話は関係ないようだ。
向かいの席の女性が立ち上がって、その名刺を受け取った。立ち上がると同時にサッと払われたダークブラウンの髪から、やけに白いうなじが覗いていた。その女性は、名刺の表裏に目を通して、
「うん、さっき見た見た! 担当の人、何か若返ったね。山西 久……キュウちゃん?」
太ったほうの女性は口を大きく開けて、声なく体脂肪を上下させ「キュウリの漬物みたい」と、手を叩いた。
俺は思いの丈を舌打ちに凝縮した。
そのときの眼力が鋭すぎたのか、茶髪で細身で色白の女性が突然に振り返った。あまりの急な動作に、俺は反応できなかった。彼女はこちらを見たまま、驚いた表情こそ浮かべているが、目は逸らそうとしない。気不味いとは、思わないのだろうか?
そして、俺たちは長い間見つめ合った。実際のところは、ほんの二秒ぐらいだったろうけども……。結局、俺のほうが首を引っ込めた。俺はソファーに浅く腰掛け、冷たいお茶を一気に飲み干した。
あの女性に負けたような気がしていた。先に目を逸したほうが負け(喧嘩上等ーガンたれ対決)みたいな話ではない。おそらく自身初の一目惚れを体験していた。
ポーッとしたのも束の間。俺は思考を巡らせた。
あの女性をデートにお誘いしたいのは山々だが、シチュエーションの整ったナンパスポットでの声かけじゃないし、俺にだって常識はある。無作法は後々の仕事に影響が出るだろう。いきなり、電話番号を教えてくれ、では彼女も身構えるか……。何よりもまず、名前を教えてもらわないと。う~ん、すでに彼氏がいるというパターンもあって当然か。いや、待て待て。以前にどこかで会ったような気がする。普通、一目惚れするような人と、会ったときのことや、場所を忘れるだろうか? それにしても、横にいるの白ブタは邪魔だな。早く養豚場に帰ってくれないか、などと熟考しているうちに、背中の張りはどこかへ飛んでいってしまった。
ソファにふんぞり返り、腕を組んで目を瞑る。名案を閃かない固い頭と、経験値の低さを嘆く縦じわが、俺の眉間に深く現れていた。
車両管理者の安達という人が接客ブースにやって来たのは、そんな状態のときだった。
「あのぉ、だいぶお待たせしたようで……。一件だけ、どうしても連絡いれなきゃいけない所ができまして……」
その言葉で我に返って、俺はあたふたと間を外して立ち上がった。
「あ、いえ、考えことをしてました」
頭を掻きながら、咄嗟に言った台詞がこれだ。誤解も何も言い訳でしかない。友達じゃあるまいし、ましてや初対面で、お得意先だ。
(工場長、すんまへん。初っ端で躓きました)と、俺は心の中で呟いた。
「では、それでお願いします。――ほんと、ウチの連中は社用車を雑に扱いますから。何だと思ってるんでしょうかね。まぁよろしく頼みますね」
安達さんは丁寧に頭を下げた。車両管理を任されるだけあって、整備内容に詳しい人だった。
「はい、こちらこそ。引き続きよろしくお願いします」
どうにかその場を取り繕い(安達さんの内心はどうであれ)打ち合わせは和やかに終わった。
「私が下までお送りしますので、どうぞ」
安達さん自らが? これでは、彼女に声をかけられない。
部屋を出る際に、俺は自慢の視力で、彼女の胸にある社員証を読み取ろうとした。――チッ! 角度が悪い。蛍光灯の光が反射している。あまり凝視しすぎて(キュウリのエロ兄さん)なんてあだ名をつけられては、彼女への道のりが険しくなってしまう。
結局、俺は何もできず、わからず、で品商ビルを後にした。
まぁこれから何度も足を運ぶことになる。仲良くなるチャンスはいくらでもあるはず、と思うことで、俺は落胆せずにいられた。
それよりも、雨がパラつき始めている中、俺がここまで乗ってきたサービスカーが見当たらない。すぐに、第二駐車場に停めたことを思い出し、口を尖らせて肩を落とした。
片手で車のカギを弄びながら、早歩きで第二駐車場へ向かっていると、それが俺の手を離れて地面に落ちた。
誰がいつの間につけたのか、仔キツネのキーホルダーを拾い上げて、まじまじと見つめた。




