鷹の泉トンネル
「何しとんねん、隆宏」
「もう迎えに来たんか。――気持ちええぞぉ。あと五分ぐらいで切れるし、ちょっと待ってや」
全身マッサージ機なんて物は、くたびれたサラリーマンが、日頃の疲れを癒すために使うマシーンだ。順番待ちをした挙句、金を払ってまで世話になりたくない。まだボーッとする頭を抱えて、俺は対面にあったベンチに腰掛けた。
そこへ館内アナウンスが流れる。騒がしかった店内が一瞬だけ静まり返った。放送の内容は、宿泊客以外は帰れ、との退店命令だった。時刻は二十一時五十分。
それぞれに着替えなどを抱えて、俺たち三人は渋々駐車場へ向かった。
ここの駐車場は、時間で料金が加算されるシステムだ。受付でスタンプを押してもらえば無料になるのだが、宿泊客でもないのに朝までお世話になると、いくら取られるやら……邪魔くさいので計算しない。なので、出ていくしかなかった。この一帯は地域ぐるみで防犯対策に力を入れてそうだし、路上駐車には厳しそうだ。それにまず友春が嫌がるだろう。
先頭を行く隆宏が歩きながら振り返った。
「さっきマッサージしてるときによぉ。隣のオッサンに〈鷹の泉トンネル〉のことを訊いてみたんやんか」
隆宏は知らない人に話しかけるのがつくづく好きな奴だと思う。
友春は目を光らせた。
オッサンの話によると――、この健康ランドに来る前に俺たちが通って来たトンネルが、まさにそれだったらしい。さらに別情報で、神奈川方面へ行くには、そのトンネルに入る手前の大きな交差点を曲がらなければ、だいぶ遠回りになるという。
「あぁそういえば、やたらと長いトンネルがあったなぁ」
「え、嘘ぉん……。さっきのトンネルが? イメージ違うやん」
友春が見るからに元気を失っていった。
――耐震問題が県の議題に上がった時期に、そのトンネルも国と合同で大掛かりな補修工事が行われた。それで、今の明るい感じに生まれ変わったらしい。もう五年以上前の話だそうな。
「心霊スポット? あぁ、どん詰りの温泉街に客を呼ぶためには、ほら……どうせ、観光協会発信のアレじゃないの」
オッサンはニヤニヤと笑って、言葉を濁した。
すると、もう一人のオッサンが、その会話に乗ってきた。
「ワシが若かった頃から、そんな話はあったな。新しくなる前のトンネルは、出る、出ない、は置いといて、暗くて湿っぽくて雰囲気があったのよ。女を連れて、キャーキャー叫びに、よく行ったもんよ」
友春はドアのロックを解除すると、ため息をつきながらスライドドアを開け、フラフラとベッドへ上がっていった。
隆宏が含み笑いを隠さずに助手席に乗り込む。
運転せよ、ということか……。夜風に当たって、だいぶ頭はすっきりとしてきている。仕方なく運転席に着いた。来た道を戻ればいいのだったか? 俺は車を発進させた。
「さっきのトンネルを抜けて、一つ目の交差点を右で、ええんやんな?」
助手席を一瞥して訊いた。
「でっかい交差点や、て言うとったで」
隆宏は地図も見ずに答える。
後ろの一人は無言だ……。友春の機嫌を直すには、何か新しいことが必要だった。
ヘッドライトを上向きにして走っていると、来るときには気づきもしなかった看板が見えた。少しスピードを落として通りすぎる。そこには確かに、鷹の泉トンネルと書いてあった。マスター怪談の舞台に違いなかった。
「お~い、友春ぅ。もうすぐ、お前のトンネルやぞ」
「俺のんとちゃうわ!」
座席の間から、友春が顔を出してきた。
星や月は雲に隠されてしまっている。そのせいで、ここら一帯が本物の闇になっていた。直線の先にあるトンネルの内部がオレンジ色に光っていて、大きく口を開けているようにも見えた。
「病院、廃墟、学校、トンネルもや。何かしら話を盛らんと、気が済まん奴が多すぎんねん。だいたいやな……」
隆宏の愚痴が、止まった。
トンネル入口の直前にひと塊の雑草がはみ出ていて、俺は接触しないように少し膨らんだ。
「こんなとこに、歩きの子供?」
隆宏の言葉を聞いて、友春はサイドカーテンを開け放ち、窓に張り付いた。
俺は雑草に気を取られていたこともあって、子供には気づかなかった。すぐにバックミラーで確認したが、よく見えなかった。この車の前方は元々何も走っていなかったが、後方からはずっと照らされていたのに、それがいつまにかいなくなっていることに気づいた。
トンネル内に入って少し行くと、故障車が停車するためのスペースが設けられていた。そのスペースには梯子が掛かっていて、それを登った所にある公衆電話ボックスに〈緊急〉の文字が照らし出されている。その梯子の根元にチラッと見えた黒い塊が、何なのかはわからなかった。わからなかったから、怖かった。
「何や今の? キュウ、戻ってくれ!」
突然、友春が叫んだ。
「アホか! キュウ、絶対止まんな!」
一旦アクセルから足を離して、また踏み込んだ。
「何やねん。お前ら、どないしたんや」
俺は嫌な気持ちを吹き飛ばすように、運転手にややこしい指示を出すな、と怒った。
「そやけど、今のって……」
友春が未練がましくブツクサと言う間に、次の待機スペースが迫ってきた。
二つ目を通りすぎた後、三人は言葉を失った。俺はアクセルをさらに踏み込んだ。すぐに三つ目が近づいてくる。もう見ないほうがいい! それなのに眼球が勝手にそっちへ向いた。そこには自然の摂理に反する、縦長の黒い煙の塊が浮いていた。とにかくアレから早く離れなけば駄目だ、と感じた。
トンネルの出口付近で、速度は百六十キロになっていた。この車のMAXスピードだ。そのまま外の世界へ飛び出して、車は予期せぬ方向からドンッと空気の衝撃を喰らった。
落ち着け! 考えろと、自分を律した。
ここからは緩いカーブの連続になっていたはずだ。街灯のないこの暗がりを、このスピードでは危険。今、この車を操っているのは誰だ。大丈夫、俺の頭は冴えている。大きな交差点を右折すること。ヨシ、これも忘れていない。何の問題もない。
迫る一つ目のカーブ手前で、しっかりスピードを落とし、くねる道路を道なりに抜けていった。
しばらく誰も声を発しなかった。そして、車はそれっぽい交差点に差しかかった。
「ここ、曲がるんやんな?」
どちらにというわけでもなく、声をかけた。
どちらからも返事はなかった。
こっちは黄色の点滅信号。見通しのいい交差点で、対向車もなし、歩道を渡る人もなし。ぐうっと減速してハンドルを切った。そのとき突然、左肩に衝撃を喰らった。右ハンドルの右カーブで……遠心力を無視した隆宏の体当たりに、俺は面喰らった。
交差点を立ち上がる車の挙動が大きく乱れる。
おい! と怒鳴って隆宏を一瞥すると、その向こう、助手席の窓の外に張り付くものがあった。
「ついてくんな、ボケ!」
後ろの友春がいきなり怒鳴って、スライドドアを内側から蹴った。
何が何だかわからないが、二人の焦りようが伝染して、俺はアクセルを目一杯踏み込んだ。
隆宏が助手席側の窓から離れようとして、ぐいぐいと俺の体を押してくる。シフトノブの上に覆い被さるように伏せて寄ってくる隆宏が、俺の動揺を煽った。
「隆宏、邪魔! シフトできひん!」
俺は隆宏の頭に肘を落として、髪を掴み引き起こした。背中に二本の張りがあって、力を入れるとそれが引き攣れて痛かった。
***
対向車からのパッシングが眩しくて、俺はハッとした。
どこをどう走ったのか……ずっと見ていたはずなのに、覚えていない。とにかく道なりに、交差点などはすべて直進したつもり。途中に赤信号があったかどうかさえも定かでない。街中に入ったと気づいたのは、メジャーなコンビニの看板が見えてからだった。
俺はコンビニに入り、エンジンを切ってハンドルに突っ伏した。
背中の痛みと、胸で押してしまったクラクションの音に驚いて、俺は弾かれるように上体を起こした。
駐車場の端には、地元の不良少年たちが屯して騒いでいた。今は、それすらも心強く感じられる。
何が起こったのかはわからないが、何かが起こった。それが未だに信じられない。風呂上りなのに、全く嫌な汗をかいたものだ。
友春はベッドで大の字になって動こうとしないし、隆宏は助手席にどっかりと体を沈めて放心している。誰も口を開かない。そうして時間が流れていった。
「おい、コーヒータイムや」
そう言って、脱力する二人に動き出す切っ掛けを作った。
隆宏が俺を虚ろな目で一瞥して、ようやく背凭れから体を離した。手はドアの取っ手に掛かったが、なかなか降りようとしない。ドアのガラスに顔をつけて、上下に左右にと念入りにチェックしていた。
「何しとんねん、お前は。何かが屋根に張り付いとるとか、ないって。さっさと降りろや」
「え~怖いこと言うなやぁ」
ガラガラ声がさらに掠れていた。
スライドドアの開く音を聞いて後ろに目をやると、友春が無言で降りていくところだった。
それを追うように、隆宏がやっとドアを開けた。
俺はキーを抜いて、最後に降りた。そのときによろめいてしまって、ドアにぶら下がる格好になった。体勢を立て直そうとしても膝に力が入らず、そのままズリ落ちてアスファルトに手を着いた。すぐに立ち上がって、何事もなかったかのように手を払ったが、店に入る寸前だった二人と目が合って、俺は情けなくはにかんだ。
店内ではトイレに行ったり、雑誌を立ち読みしたり、三人ともバラバラに行動した。なかなか出発しようという気になれない。おそらく一番鈍感な俺が、そろそろ行こうか、と声をかけるまで、誰も喋らなかった。
無性に腹が減ってきて、弁当のコーナーへ行ったが、何も残っていなかった。仕方なくクッキーを買って車に戻ると、二人が弁当を食べていた。隆宏が弁当を三つ、友春が寿司のパックを三つ、俺がクッキーを三箱購入していた。何となく笑いが起こって、俺たちは分配して食べた。
腹がいい具合に張ったところで、俺たちはコンビニをあとにした。日付がもうすぐ変わるという時間になっても、そこそこある交通量に安堵感をおぼえた。
俺は缶コーヒーを半分ほど飲んで、ドリンクホルダーに置いた。何の変哲もない夜の町並みを助手席から眺めている。時折、後方や上方に目を向けていた。
「なぁ、さっきのマジやんな?」
運転する友春が静かに口を開いた。
「そのことやねんけど……。俺は運転してたし、あんまりはっきりとわからんくてやな。その、何ちゅうか、おもっきり、はっきり、すっきり見えたんけ?」
後ろから返事はない。隆宏はこの話題に入ってこないようだ。
「えぇ! キュウ、マジか。――トンネルの入口から一人ずつ立っとった子供が、四人ぐらい一斉に走って追いかけて来よったやん。マジでビビったわいや。まぁ、それはトンネルを出たとこら辺で、見えへんなったんやけど……。それやのに、あの交差点の所でよ! 何や視線を感じて横のカーテンを開けたら、窓にペターって張り付いとんねん。マジでチビりかけたわ。ああ、もう終わったぁ、て思ぅたもん。――俺、金縛りにも遭ぅたことないのに、いきなりこれやろ。キツイでホンマ……」
まさか、あれが見えなかったのか、と友春が捲し立てた。
俺は斜に構えて、運転席に向いていた。凭れていた背後のドアが、スーッと冷たくなっていくような気がした。
しかし、今いち共感できずにいることも、確かだった。俺は二人がバタバタする姿に焦っただけで、黒い塊のことも、放置された段ボールの箱か何かが、トンネル内の変な色の照明のせいでおかしく見えた、と言われれば、それで納得のいくレベルだった。交差点を立ち上がっていく最中に見えたものも、黒いビニール袋だったように思う。
とにかく友春が言っていることは、俺が見た感じとは違う、と話した。意見が割れたなら、もう一人にも訊かなければならない。
「おい、隆宏。子供みたいなんが、めっちゃ追っかけて来よったやんな?」
ベラベラと良く回る舌だ。友春は大丈夫だ。
後ろからは返事がない。隆宏のほうは相当参ってしまっているのか。
「おぅ隆宏、大丈夫けぇ?」
俺が隆宏を気遣って、後ろを覗き込もうとした瞬間、呻き声を上げた隆宏が俺の頭をヘッドレストごと抱え込んだ。
「お前の脳みそぉ! よーこーせー!」
俺はヒッと空気を吸って、全身を硬直させた。
「隆宏……、それはお前、ゾンビとちゃうんか」
運転を続ける友春が、呆れたように長く息を吐いた。
「キュウは反応ええし、おもろいわぁ」
隆宏が、ブッサイクで憎たらしい笑顔を見せた。
「だ、か、ら、お前は、そういうの止めろや!」
俺は助手席で膝立ちになって、隆宏の顔を両手で挟んで潰して揺すった。
***
時刻は午前零時を回っていた――
俺たちは気持ちを切り替えるように、呪いだ、お祓いだと、車内でふざけてはしゃいだ。しかし、それぞれの表情や、言葉の節々に強がる様が感じられた。俺たちが弱さを見せ合えるような、親友と呼べるほどの関係ではないと知れるようだった。
そうしているうちにも、景色はどんどん都会になってきた。コンビニの駐車場はいちいち狭いし、路上駐車もし難い雰囲気になってきた。俺たちは静かに眠れる場所を求めて、未だ走り続けている。
「このまま、夜通し走ってもええけど。今日は、何や……疲れたのぉ」
友春に深く共感する。今はただ静かに眠りたい。俺は車内の暖房のせいだと考えて、幾度か外気を取り込んだりした。
そして、しばらくノロノロ運転。すると、車はどこかの駅へ着いてしまった。まさか、駅のロータリー内で路駐泊というわけにはいかない。目の前に交番も見えている。エンジンの振動を止めて休みたい、という気持ちは見事に裏切られた。
ならば逆に、まだ休みたくないと願えば、休めるのではないだろうか? と友春が言った。
そんな発想が浮かぶ時点で……。友春の限界は近いと感じた。




