珈琲
ベッドへ上がってきてすぐに、隆宏は「ここ、離れたほうがええわ」と、ガラガラ声で言った。
海へ豪快に放尿している最中、ふと見ると、埠頭沿いにまだ幼そうな子供たちが二人だけでいる。こんな時間に、こんな場所で、遊んでいるようで、踊っているようで……。不思議に思ったが、こっちは暗い所だし、距離もある。こちらに気づいていないように見えるが、いちおう、気にして背を向けた、と。
その子たちの教育上、かなり良くないことだが、確かに隆宏の下劣なものは、怖いもの見たさ感を湧き立たせる。見えていないなら問題はないか。
ただ、隆宏はずっと背中に誰かの視線を感じていた、と少し怖いことを付け加えた。
そして用が終わって車へ戻ろうとしたときには、その子たちとの距離がぐっと狭まっていたらしい。
俺は嫌な予感がした。いや、予感なんてものではなく、ただ嫌な展開だと思った。隆宏が話している途中に、俺は靴を履いて運転席に着いた。
「ありえへん……。あの子ら、あの女の子らは二人ともジグザグに滑っとった」
俺はエンジンを始動させ、目一杯ハンドルを切って車をUターンさせた。
二人の女の子というキーワードが出てきて、気が動転した。隆宏には例の夢の話をしてないのに。
体勢を崩した二人が、ひっくり返って声を上げた。
見覚えのあるゲートをくぐって一般道へ出ていく。車は一度大きく跳ね、天井に吊るしていた電灯が落ちた。それは友春が上手くキャッチした模様。緩やかな坂をアクセル全開で登り、タイヤを鳴らして広い道路に出た。ゴンッという音の後、隆宏が、痛っ! と叫んだ。
「キュウ! おい、キュウって!」
後ろから助手席に這い戻ってきた友春が、俺の肩を掴んだ。
それで余計に焦った。さらには突然、隆宏が笑いだす。
――ああ駄目だ。着物とジャージの幼女に取り憑かれて、きっと隆宏は発狂した。どこかに捨てて行こう。
「冗談やてぇ。キュウって、お化けアカン派やったんけ?」
隆宏が運転席に掴まって顔を出した。
俺は鼻息を漏らして、アクセルを緩めていった。
「ほな、このまま、どっか明るい所まで行こうけぇ」
堪えているような、大笑いの前触れのような揺れが俺の背凭れに伝わった。
「お前なぁ……、あの雰囲気の中で、そういう嘘を吐くなよな!」
ヘタレ部分を晒して、繕えなかった。その口惜しさに、舌打ちばかりが連射された。腹立ちまぎれに繰り出した俺も左拳も、隆宏はサッとかわした。しかし、拳の先に触れた毛を、返し刀で毟った。
隆宏はギョギョーっと呻いて、ベッドへ引っ込んでいった。妖怪退治、一矢だけ報いたような……。
俺はそのまま車を走らせた。道路は充分に広いし空いていた。というよりも、前後に一台も走っていなかった。漁師町で街全体が早寝早起きなのだろうか? 中央の分離帯から伸びる街灯は、一つ飛ばしで消灯している。その灯かりで断片的に照らされる、隆宏の顔がルームミラーに映リ込んだ。
「キュウ、めっちゃ反応ええやんけ。どや、なかなかやったやろ。俺、俳優になれるんとちゃうか?」
隆宏は、まだその話を引っ張るつもりか……。友春が後ろを向いて、
「俺は最初からわかっとったで。ヒゲヒロのあんなクソ芝居で、キュウのスイッチが入ってしもた理由のほうがわからんわ」
「チッ! もうええやろ。お前らはホンマに……」
俺は呆れて、ルームミラー越しに隆宏を睨んでやる。その途端に、静まりかけていた俺の鼓動が、またペースを上げた。
隆宏の表情はドッキリ大成功という顔ではなかった。確かに笑ってはいるが、目が情けなく眼底付近で揺れていた。それもまた冗談の続きなのか? 冷静沈着なイケメンと言われたことのある俺が、判断できずにいる。一瞬三人の声が途切れ、それがまた俺の心拍数を上げた。
「どっちみち、隆宏が帰って来たら、移動しようかって、キュウと話してたんや」
友春が後ろを向いて、地図を片手に説明した。
「うぅ、そうやのぉ……。そやけど、この時間から熱海とか伊東は遠いぞ」
隆宏が全国的にメジャーな地名を挙げた。
その地名はもちろん知っている。だからといって、すぐに別の候補地を提案できるほど、この辺に詳しい奴はいない。俺は前方にある看板に目を凝らした。
「とりあえず、コーヒーでも飲みとぅない?」
もう少し明るくて、人のいる所へ行きたかった。
「さっき、缶コーヒー、飲んでたやんけ」
「いや、飲みたい感じやな。胃に穴が開くくらい本格的なやつ」
隆宏が珍しく同調した。
「何やねん、お前ら。こんな夜中に都合良く……」
友春は言いかけて、黙った。
俺は左ウィンカーを点滅させた。広い歩道を横切って駐車場へ入っていった。
〈直進三00M先、珈琲自慢、24h営業〉の看板を見て提案したのだから、店が都合良くあるのは当然だ。しかも到着してみると、ここがなかなかに広い。今夜のお泊り場所確保の期待が否応にも高まった。
店内にはかなりの客がいた。駐車場にあった車の数よりも多い。それでも賑わっているように感じないのは、その客のほとんどが、テーブルに突っ伏して寝ているからだ。少なくとも、渋めの珈琲通が集い、知識をひけらかすような場所には見えなかった。
「おい、見ろや。この店、無茶しよんのぉ。一番安いブレンドコーヒーが、七百円て書いとんで!」
開口一番に友春が小声で言った。
隆宏はキョロキョロと見回して落ち着きがない。
「どんな凄いのん出しよるか、挑戦したろうやんけ」
さっきのことを振り払うように、俺は意気込んだ。
長らく待って出てきたコーヒーに、せぇの! で口をつけた。「…………」
店内に流れる、眠たいBGMが吹き飛んだ。通ぶって(これは美味い。本物や)と言うつもりだったのに、予想を別方向に超えた。苦すぎる濃さに身震いが起きた。他の二人の反応を窺うと、まるで俺が悪いかのように睨んできた。俺は負けじと睨み返す。
そんな俺たちの様子を窺っていた店のマスターが、俺たちのテーブルへやって来て感想を求めた。
そういう絡みもあるシステムなのか、と面倒くさく思った。そして友春だけは黙っていられない質だった。
それを聞いたマスターは、フフンと鼻を鳴らして、ミルクと砂糖で調整していった。
「あ、美味い……」
友春が間抜けな顔をして言った。
俺たちもそれぞれ調整してもらうと、この激薬物指定の泥水はめちゃくちゃ美味いコーヒーになった。
マスターが〈顧客カード〉を作って、いつ来られても最高の物を出す……なんて言い始めたので、そんな複雑なシステムを利用したことのない俺たちは、気後れした。まだまだ、質より量を重視する年頃だ。そもそも、ファストフードで育った俺たちの雑な味覚を舐めるなよ、と言いたい。
旅行中に寄っただけで、滅多に来られないことを告げると、マスターはカウンター席へと誘ってきた。話題といえば、どちらかが俺の入寮失敗事件を蒸し返しそうだったので、二の足を踏んだ。
そのとき、後のテーブルで寝ている人が、わざとらしく咳払いをした。
俺が察するより早く、半自動的に友春が動いた。こいつの気遣いは何なんだ? 仕方なく、友春に続いた。
カウンター席に移るとすぐに、マスターから質問攻めにされた。
主に喋っていたのは友春だ。その会話は予想外に弾んでいった。出発してからの出来事はもちろん、いつの間にやら家庭のプライベートなことまで喋らされていた。――これか! これが噂の〈女にモテる条件、其の一、聞き上手〉というやつか。大変勉強になる。
そしてやっぱり、さっきのお化け騒動の話が始まった。
友春が調子に乗って再現してみせると、俺は舌打ちして、それは言うなや、というスタンスで笑う。一番はしゃぎそうな隆宏が、今いち乗ってこないことを気にしつつも、時間は流れていった。
そのうちに、今度はマスターがホラー小話を、先ほどの話に被せてきた。他の寝ている客を気遣ってか、小声で語られるその話は、俺たちの耳を澄まさせた。
聞き役から一転、マスターはネタの披露でも、熟年の風格を漂わせる。特に友春は、マスターを師匠と呼びかねないくらいの食つき様で、すっかり聞き入ってしまっていた。
結局、俺たちは深夜二時までマスターに魅了され、追加注文までしていた。有料ながらシャワールームも完備していると営業を受けて、お金は小出しに吸い取られていった。
俺たちは駐車場泊の許可をちゃんと貰って、車へ戻った。
明かりを消して眠る体勢でいるものの、マスターのせいか、コーヒーのせいか、俺たちに眠気がやって来ない……。暇人は、こうして夜型になっていくのか、と思った。
折角、俺が寝る努力をしているのに、友春はケータイで何かを検索している。それに釣られて、隆宏までケータイを弄り始めた。画面に照らされた二人の顔だけが、宙に浮いているように見える。マスターの話を聞いた後だけに、その顔が妙に怖い。
それを眺めていると、急に悪寒が走った。友春が悪事を思いついたときの顔になっている。光の加減で、そう見えるだけならいいのだが……。
俺は二人に背を向けて目を閉じた。
***
昼前の十一時……。いい加減、誰か目覚ましをセットしろよ。
「ついでやし、昼飯、ここで済ましていくけ?」
歯ブラシをくわえた隆宏が、固まった体を解しに掛かっていた。
「モーニングの時間は、終わっとうやろなぁ」
ケチと思われるのは嫌だが、お金を節約したい俺が、隆宏の思惑を挫く。
「トイレだけ貸してぇ、では入りにくいのぉ」
友春らしい。が、話の流れは嫌な方向に向いていた。
「お、マスターやん」
隆宏の顎ヒゲが差すほうを見ると、マスターが手に紙袋を持って近づいて来る。
「交代の家内がやっと来たからね。私はこれから帰って寝るんだよ。コレ、うちで出してるモーニングの余り。日持ちしないパンだから、良かったら車の中で食べてよ。――昨夜は遅くまでゴメンね」
マスターはスッと手を挙げて行った。
常連客を増やす作戦だの、大人の常套手段だの、と捻くれた考えは止めておく。食料に釣られたのでもなく、俺たちは揃って「マスター、かっちょええ!」と言った。
俺たちは走る車内で、貰いたてホヤホヤのロールパンにかぶりついた。
隆宏が「富士山を横目にパンを食う」と言った。
「何じゃそりゃ?」
笑いながら、俺たちが富士山を滅多に拝めない地域に住むジャパニーズである、と実感していた。
紙袋の中にはパンが六つも入っていた。悲しいかな、俺たちの胃袋はそんな量で満足に至らない。三人ともに筋肉質の低燃費で、三十分後には追加の食料を欲した。
それで、食事処を探していたのだが、先にコンビニが目に入ったので、そっちに寄った。
白米だけは移動しながら食べないという、訳のわからない拘りを見せる友春に、隆宏がしつこく理由を聞いている。ただでさえ食うのが遅い友春に話しかけるなよ、と思いながら、俺は一人、車の外に出て辺りの景色を眺めた。
コンビニがあるような所だけに、景色といっても、何の変哲もない田舎の街並みだ。名も知らない山がすぐ近くに見えた。近く見えるだけで、行けば結構な距離があったりするのだろう。さっきは富士山が後ろに見えていたから……。景色にも飽きて、俺は車に戻った。
「なぁ友春。東名に乗って、東京を目指すって言ぅてへんかった? ここって、めっちゃ行きすぎとんとちゃうか?」
走行中はベッドにひっくり返っていて、周囲を気にしていなかった。俺は今さらながら、おかしいと気づいた。
お茶をチビチビと飲みながら、友春が不敵な笑みを浮かべた。
「昨日の晩、マスターが言うてたトンネルに行ってみとうない?」
ケータイで検索していたのは、やっぱりそれか。マスターの怪談話に、一番食いついていたのは友春だ。その時点で、俺の中に嫌な予感はあった。
「そのトンネルて、近いんけ?」
昨日のことがあるので、心情として俺から反対だとは言いにくい。それに、友春の生き生きとした目が、もう行くと言っている。
「毎日のように通る人が、たまに見るってレベルやろ? 行くだけ無駄っちゅーもんや」
意外な所から反対意見が出た。たまに見るって? 隆宏は信じてしまっている……。やっぱり隆宏のほうが俺よりも怖がりだ、と小さくガッツポーズを作った。
「俺よぉ、UFOも幽霊も、河童も見たことないねん。これって十代の思い出、ゼロやんけ」
友春の理屈は、さっぱりわからない。
「そういうのは、止めといたほうがええのに……」
往生際の悪い隆宏が、助手席で呟いていた。




