アパートへ行く
友春の運転でメモにある不動産屋へ向かった。
その道中、俺の胸には、賃貸契約を結ぶに至るまではどういった流れになるのかと、未経験+無知による不安が去来していた。それをごまかし振り払いたくて、隆宏のしつこい攻撃に応戦し続けていた。
そうしているうちに常盤不動産は見えてきた。
本来ならばもっと近かったのだろうが、比較的大きな通りから、脇道に一本逸れた辺りで、少し迷った。印刷された地図にない道が、実際には何本もあったからだ。
「あぁやっと着いたのぉ。あの爺ぃ、雑な地図を寄こしやがって」と、俺は毒を吐いた。
駐車場に入ると、俺は「ほな、ちょっと行ってくる」と、手を挙げて車を降りた。友春たちがついて来ようとするので「車で待っててくれてええぞ」と制した。
二人は、ええやん、ええやん、と手首をくねらせる。とにかく暇なわけだ……。
結局、三人で店の自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませー、こちらへどうぞー」
すぐに、ナイスバディの女性店員が対応してくれた。彼女はマネキンのように整った顔が、少し怖いくらいの美人だった。
「えぇと……もしかして山西様ですか?」
女性は確実に隆宏の顔を見て言った。
いきなり名前を呼ばれたのは、つい先ほど、寮館長から電話連絡を頂いた、とのことだった。あの事務のおじさんは、寮の館長さんだったのか……。
当然、彼女は事の成り行きを把握しているようで、その種明かしを聞いてしまうと、後に俺に向けられた美しすぎるスマイルも、小馬鹿にされているとしか思えないようになった。
しかし考えてみると、それならば隆宏と俺を、間違えたわけに納得がいく。振り込み忘れでアウトなんてことをしでかす奴……隆宏が一番間抜けに見えたに違いない。やはり客商売のプロの目は、ごまかせないということか。
そして、お勧め物件はすでに用意されているようだった。そのファイルには、預金残高を見透かしたような貧民用の物件がリストアップされていた。その四件のどれもが似たり寄ったりだった。
口早に捲し立てられる説明に、俺は「はぁ」とか「へぇ」としか言いようがない。勉強不足な俺を相手に、話は一方的に進んでいく。
長々と説明を受け終えた後「月二万五千円に抑えられますか」と訊くと、候補物件はまた別の棚から取り出された。それはコールタールのような毒々しい色のファイルだった。
やっと物件を見に行く段になって、女性が営業車を店の正面に回してきた。
「すぐに帰ってくるって」と言っても、二人は「絶対、ついて行く」と言って、聞かなかった。
「キュウとお姉さんを、二人っきりにしたら、危ない」
隆宏が人聞きの悪いことを言う。
営業の女性は、キャー、と声を上げて、体を隠すように腕をクロスさせた。
もちろん隆宏は冗談で言ったのだし、女性もノリで返しただけだ。
しかし「では、お乗り下さい」と、俺を促した女性は、運転席に着く寸前に顔を歪めて、舌打ちした。(全く……ガキの世話は疲れるわ)という文字が、顔に浮かび上がってくるようだった。俺はそれを見逃さなかったが、あの二人はどうだろう? 教えてやるか、黙っておくかは、隆宏の出方次第で決めるとする。
俺が車に乗り込むと、友春は自分の車でついて行く、と言い張った。一緒に乗せてもらったほうが、よっぽど楽なのに。隆宏はてっきりこちらに同乗すると思ったが、乗ってこなかった。最初に間違えられたわけをやっと理解できたか、それとも、彼女の冷たい視線に脈なしと臆したか……。
とにかく彼女は少々荒い運転で、右へ左へとぐいぐい進んでいった。
友春がこの車に離されまいと、必死の形相だ。
俺は景色に目もくれず、営業車の中を見回していた。
「あそこの生徒さんになるんですもんね。やっぱり車が気になるのかしら?」
ルームミラーで、俺をちらちらと気にしている。
「あぁいや、すんません。営業車とは思えへんくらい綺麗やし、新車価格で四百二十万円もする車には、滅多に乗れへんもんですから」
「さすがに詳しいね。ふふ、これ中古車よ。それに自前。うちはみんな自家用車で営業に回るの」
「へぇ、そうなんすか。これ、スタイルええっすよね。パワーあるし、静かやし」
「ふふ、ありがと。――あ、アパートは、もうすぐよ」
高級車は少しアクセルを緩めた。
俺は静かに息を吐いた。やっと座り心地が良くなった。堅苦しい敬語も消えたことだし、これぐらい褒めれば充分だろう。この後、芳香剤のことを褒めて、いや、お姉さん香水っすか……みたいなくだりへ進む予定だったが、やりすぎなくて正解だったと思う。
***
どこをどう走ったのか、ここがどこら辺なのか、さっぱりわからない。
今、俺の目の前にひっそりと建っているのが、それらしい。不動産屋が言うには、自転車を使えば、ここから学校まで十五分ぐらいなのだそうだ。
「これが築五十年かぁ。年季爆発やんけ」
隆宏の表現は、ときに伝わりにくい。自分が住むわけでもないのに、俺より先に感想を述べるなよ。
共同玄関から靴を脱いで、ぞろぞろと二階へ上がっていく。すると一番奥にその部屋はあった。元来ここは、大きな一軒家だったらしい。共同玄関に共同の風呂とトイレ、洗濯機は二台で共有。各部屋の広さもバラバラで、俺に紹介された部屋は、たった三畳のフローリングで真四角だった。これは世間一般でいうところの物置ではないのか?
引き戸を開くと、また隆宏が声を発した。――狭っ! 大家さんが後ろに立っているというのに、本当にやめてほしいものだ……。
プライバシー問題が取り沙汰されるようになった昨今、この手の物件は人気がないらしい。プライバシー云々よりも、原因はこの狭さにあると思ったが、そこは声にしない。俺がもう、ここに住むと決めたからだ。それに、ここには同じ学校の先輩となる人が、二人も住んでいるということなので、心強い、と思った。
恥ずかしい事情も説明すると、大家の爺さんは「礼金は元々取っていないし、今からでも、すぐに入居していいよ」と言ってくれた。
後は不動産屋とのやり取りだけだった。
「あ~もしもし、義姉さん。俺、今日着いたんやわ」
友春たちとぐるぐる回ったことと、寮のことを掻い摘んで話した。義姉さんは予想通りの大ウケ。兄貴たちの晩酌の肴になることが決定した。
義姉さんはリビングの郵便ラックを確認してくる、と言って受話器を置いた。俺の制止は届かなかった。本当に今さらの話なので、只々面倒くさいのだが。
「学校からヒサ君宛てで、簡易書留ってのが未開封で入っとぉわ! 二月十日やって~。ヒサ君、どんだけ放ったらかしぃ」
電話口で義姉さんの笑い声と、バシバシと何かを叩く音がした。
それを聞いて思い出すのは、あの寒かった日のこと――
雪が降り出してきて、積もるくらいの本降りになるのか、すぐに止むのか、と判断の難しい降り方だった。
友達に「今から、すぐ行ったるわい」と言って電話を切ったのに、原チャリのエンジンが、なかなか掛かってくれなかった。
そんなときに声をかけてきたのが、郵便屋さんだ。
「ハンコ、要りますか?」と、家に戻ろうとする俺に「サインでも結構ですよ」と、鼻を啜っていた郵便屋さんが、記憶に蘇った。
俺は口を固く結んで鼻息を漏らした。……確かに受け取ったのは、俺だ。義姉さんの反応に項垂れていたが、もう一段階、項垂れた。
「キュウがショボくれてから、たった二時間後に新しい住処が決まるって。展開がスピーディーでツイテルやんけ」
友春の言いたいことはわかる。俺もホッとしている。ほんの二時間前には、これからどうすれば良いのかと陰気に纏わりつかれ、正直にいうと泣きそうだった。
「捨てる神と拾う神が、肩組んでスキップしとんてやつやな」
頭上に、隆宏の言う図は浮かんだが、共感するのは嫌だった。
結局のところ、友春に車でついて来てもらったのは正解だ。さっそく荷物を運び込んだ部屋で、俺たち三人は小さくなっていた。
「これからどうするか……やな」
隆宏が胡座をかいて首を鳴らす。どうも落ち着かないようだ。この陽当たりの悪い、俺の新居に文句でもあるのか!
「先輩になるって人に、いろいろ聞きたいこともあるし、挨拶に行くかな」
「それは、今やないやろ。俺らが帰った後にせえよ」
しばらく、三人ともに考えを巡らせた。俺は地図を引っ張り出してきて、手持無沙汰にパラパラと捲った。
「なぁお前ら、東京に行ったことある?」
沈黙を破ったのは、やはり友春だった。
俺たちは高校の修学旅行で、ディズニーランドへ行っている。しかし、それは東京駅で新幹線から降りただけ、電車を乗り換えただけだった。俺はここでリタイヤすることもできる。しかし、ついて行くしかない隆宏のつり上がった目が、お前も、もうちょっとつき合わんかい! と言っていた。
***
その日の夜遅く、兄貴からかかってきた電話の第一声は(おぅ、シャクンッ、久ぃ。ワシや。お前、……ング、ホンマ笑わしよんのぉ。シャリ……)だった。
まるで他人事だ。俺の鼓膜に、兄貴の笑い声と耳障りな音が混じって届いた。義姉さんもそうだったが、心配してくれる人はいないのか。問題は、ほぼ解決しているので、兄貴の馬鹿にした笑いも、俺の神経は耐えられている。ただ、物を食いながら、人に電話をするなよ! 食後のデザートはリンゴだね、と丸わかりの音に、腹が立った。
「常盤不動産屋ってとこから、明日か明後日に速達で書類が届くと思うんやけど、保証人の欄にチョチョッと書いて、速達で送り返してくれや。頼んだでぇ」
俺は一方的に電話を切った。
顔を上げると、友春がベッドでニヤニヤと笑みを浮かべていた。
ここは、俺が新しく暮らす岐阜県ではなく、静岡県のとある港町だ。
晩飯は、道すがら立ち寄ったファミリーレストランで、適当に済ませた。スナック菓子を買い込んで、なるだけ静かな場所へとたどり着いたのが、ここだった。
倉庫が建ち並ぶ海沿いの静かな場所だ。この半時間で通ったのは、錆びた板バネの足回りをギチギチと鳴らす、ボロい軽のトラック一台だけだった。
時期が時期だけに、女性のみで卒業旅行に来ているグループと、仲良くなって……。
先ほどまで、妄想で浮かれていた隆宏の落ち込みように、夜の静寂が拍車をかけた。
車の周辺では、見慣れない車に乗ってやって来た俺たちに、警戒を怠らない野良猫たちが、あちこちで目を光らせていた。
「おい、地図見てみろや。ここって倉庫やなくて、市場の敷地内とちゃう?」
友春が懐中電灯に地図を近づけて、指を差している。
ここの市場が何時頃から動き出すのかは、わからない。俺たちが寝ている間に、この車が迷惑車両になることぐらいは予想できた。それでも、折角見つけた静かな場所だ。怒られてから、移動すればいいじゃないか。そう考える俺と違って、友春は顔を歪めていた。
ちょうどそのときに、隆宏が小便から戻ってきて、スライドドアを開けた。
何やら顔色がおかしい。暗闇の中で、一方向からの電灯に照らされた顔に色も何もあったものではないが、二人同時に「どないした?」と、声をかけたのだから、隆宏の様子が変なのは、気のせいではないはずだ。
「血尿でも出たんけ?」
茶化してみても、隆宏の反応は薄かった。
俺は友春と見合って首を傾げた。
「あれは、アカンやろ……」
隆宏は、強く握った拳を震わせて、呟いた。




