寮に到着
エンジンの振動が伝わってこない。どこかに駐車しているようだ。
薄目を開いて天井を見回していると、俺のランタン型懐中電灯がない。しかし、すぐに思い出した。走行中は外すと決めたことを。
首を擡げて前の座席に目をやると、二人の姿が見当たらない。いったいどういう状況なのか? 額に手首を押し当てて、頭の覚醒を待った。目の奥にずーんとした痛みを感じる。俺は呻きながら起き上って、サイドカーテンを開けた。
世間はもう夜になっていて、この車は大きな駐車場に停っていた。大きくため息をついた。頭は重いし、喉が乾いてしょうがない。
そこへ二人が戻ってきて、横のスライドドアが勢いよく開かれた。
「うい~す。キュウ、起きとるけぇ」
「コーラ飲む?」
受け取ってひと口、またひと口と流し込んだ。炭酸飲料がピリピリと喉を通って体に染み渡っていくようだった。ああっと息をつく。
「頭がクラクラするわいや」
俺は首を傾げて目をギュッと瞑った。
「そんなん、飯食ったら治るって。今日はここで一泊や。何食う?」
隆宏は俺の体調に関心がなさそうだ。
引きずられるように車を降りて、そのまま高速道路のサービスエリアで晩飯となった。
昼にカレーを食べて、寝て起きたらまたすぐに飯を食う。不健康極まりない。これでは駄目だと体に気合を入れ直して、親子丼を口に掻き込んだ。仕事も運動していないのに、いくらでも入る俺たちの胃袋が、不思議でならなかった。
相変わらず、ゆっくりと味わって食う友春を待つ間、隆宏がケータイを弄りながら言った。
「キュウは爆睡してたし知らんやろうけど、俺ら、大変やったんやで」
伊勢自動車道から東海北陸道に入るつもりをしていたが、友春が馴染みのある名神高速道路という表示の誘惑に、負けてしまったらしい。
「しかも京都方面に向いとんねん」隆宏はためを作って仰け反った。「戻ってしもてるやん! 俺が途中で目ぇ覚まさへんかったら、今頃俺ら、滋賀の琵琶湖で泳いどったで」
隆宏は大袈裟な身振り手振りで騒ぎ立てた。
友春は素知らぬ顔で飯を食っていた。
その対照的な二人を目の前にして、俺はただ笑っていた。
方向転換するために一旦高速道路から降りたが、今度は入口が見つからず、迷走したそうだ。
全ては眠っている間の出来事なので、俺は特に被害を被った気がしない。運転手を放って眠る俺たちに、腹を立てた友春の悪戯だろう。悪巧みが未遂に終わった、というところか。
暇潰しに店内をうろついていると、隆宏が土産物コーナーへ寄っていった。
隆宏はすんなりと決めた家族用の菓子折りとは別に、アクセサリーを両手に持って険しい表情を浮かべていた。あれが悩んでいるときの顔なのか? ……結構笑える。
男三兄弟で次男の友春と、俺は顔を見合わせた。
「お前らも家に何か送っといたら? こんなん一つで、帰ってからの扱われ方が全然違うんやで」
***
夜も更けてきていよいよ暇な時間が訪れた。
昼間はずっと本気モードで寝ていたので、今さらながら目が冴えてきた。友春の意識はとっくの昔になくなっているし、隆宏も船を漕ぐように揺れだしているので、眠りに落ちるのも時間の問題かと思われた。何をするにしても手暗がりで、動くとベッドが弾んでしまう。それにいちいち反応して、呻き声を発する隆宏が腹立たしかった。
俺は着替えの入ったリュックを背負い、そっと車から降りた。
サービスエリアの店舗はすでに全てが閉まっている。かなりの数のトラックがエンジンを掛けたまま停っている。
俺の他に、サービスエリア内でジョギングをしている奴なんていない。
昼間は汗だくになる夢を見たが、現実でも目覚めたときにはかなりの汗をかいていた。この時間まで放置すると、さすがにシャツは乾いている、が少々臭い。
シャワー施設を完備したサービスエリアがあると、話には聞いたことがある。残念ながら、このサービスエリアのことではないようだ。せめて上半身だけでも濡れタオルで拭いたいものだ。とにかく、今度は健康的な汗をかいてから、着替えたい。
トイレの近くに駐車した車から、サービスエリアの外周をきっちり二周走った。午前二時の寒さが体を調子づかせた。程良く汗ばんできて、ここからが脂肪燃焼ゾーンというところで、踵に違和感をおぼえた。
この巣立ちのために新調した靴が仇となったようだ。踵が破けてしまう前に、止めておくのが無難か。
「まぁまぁ、今夜はこのへんで」
そう独り言ちて、俺はトイレに向かった。
トイレに入ると、出入り口から一番遠い洗面台で、頭を泡立てている男がいた。一糸まとわぬ姿だった。
いきなりでビックリしたが、俺は平静を装った。
フルチン男は堂々としていて、じつに雄々しかった。
小便器に向かう途中、車椅子用の広い個室トイレを見ると、間違いなくあの男の物と思われる寝袋が、床に敷いてあった。雑菌にはかなり強いタイプなのだろう。
用を足した後、俺は男が使う洗面台から二つ間を取って、パンツ一丁になった。俺も筋肉には自信があるほうだ。
タオルを固く絞って全身を拭っていると、フルチン男と何度か目が合ってしまった。
すると、男が話しかけてきた。
「さっき、そこら辺を走っていたのは、君だろう?」
男が長髪をワシワシと洗いながら、ニヤリとした。
「話すと長ぅなるんすけど、寝られへんので、ちょっと……」
俺は背中をガシガシと擦りながら、対抗意識を燃やした。
「それなら、いい薬があるよ。ウィスキーだけど、一杯だけ付き合わないか?」
標準語のようで、違うようで……。イントネーションに違和感のある喋り方だ。俺はビール派だが、いい暇つぶしになると思って、男の誘いに応じた。
男は誰もいないのをいいことに、焼き鳥の缶詰を固形燃料の直火で温めている。公衆トイレ内でこの煙は大丈夫か? 火災報知器は? 手渡されたマグカップが、少し汚れていた。
聞けば、男はバイクで一人旅の最中だという。国内を転々としているそうだ。半年を超えるテント生活の苦労話や、九州地方でのエピソードには笑えた。ついこの間まで、行動範囲の狭い苦学生だった俺に、男の旅話は面白すぎる。
そのまま男の漫談を聞き続けて、時刻は午前の三時半。
酔いが回ってくると、男は一転して(駄目人間とは何か)と、熱く語り出した。
会社をクビになった話は最後まで聞いたが、妻が幼い子供の手を引いて出て行った話になったとこら辺で、俺は男を突き放した。
「あんまり、無茶せんといて下さい。ほな、ごちそうさんでした」
車に戻るとき、俺は細心の注意を払うつもりだった。それでもドアを閉める音と振動は消せなかった。
毛布にそっと俺が包まるのを待ってから、隆宏がグフグフと笑い出した。
「キュウ、トイレでちんちんシバいてきたやろ。おかずは何や?」
「アホか……」
俺は隆宏に背中を向けた。
明日の正午くらいまでは、さっきのトイレの話題で持ちそうだ。俺はニヤけ顔で、毛布を被った。
***
九時頃になって、俺たちはサービスエリアの騒音で目を覚ました。適度な運動と、少量のアルコールのお蔭で、今日は体が軽くて好調だ。
そのまま、ここのサービスエリア内で朝食を取った後「今日こそは寮に着く」と宣言して、俺が運転手を買って出た。
出掛けに三人でトイレに寄っていく。昨夜の男はすでにいなかった。場所が車椅子用だけに、通報される確率が高くて、長居はできないのだろう。何の痕跡も残さず、見事なものだと感心した。
退屈な車内の話題として、昨夜の男の話を上げるのは当然。その信憑性アップのために、俺は二人とあの男を会わせたかったのに、残念だ。
快適な流れに乗って、単調に続く高速エリアは、昨夜の男の話をしている内に終わった。
高速道路の出口から、寮までの地図は俺の頭に入っている。随分と遠回りする羽目になってしまったものだが、次の信号を右へ曲がれば、もう目的の学校は見えてくる。
一般道に下りてから、車の暖房は止めていた。窓を開けるほどではなかったが、陽差しは充分にあった。
六時間くらいで着く予定が、巡り巡って二日半。ようやく俺たちは目的地へ到着した。
寮は学校の敷地内にある。正門から入ってちょっと行った先の高台に建っている。どこまで車で乗り入れていいものなのかと考えたが、俺は地面に描かれた矢印の指すままに走って、結局、寮の玄関傍まで行った。
「ここが四月からのキュウの家かいや」
隆宏は手をかざして、屋上のほうまで見上げていた。入居定数にしては大きすぎるのは、三階以上からが、居住スペースになっているからだ。
「外観は、なかなか綺麗なもんやな」
「申し込みんときに、中に入れてもろたけど、中も綺麗やったぞ。ちょっと管理室に行って、聞いてくるわいや」
俺は小走りに中へ入っていった。
来客用スリッパに履き替えて、管理室を窓から覗いた。中ではおじさんが一人で気持ち良さそうに眠っている。シューシューと寝息を立てる顔があまりに幸せそうなので、起こすことに躊躇いを感じた。
俺はひと呼吸置いてから、ガラス戸をノックした。
おじさんは恨めしそうに俺を睨むと、目と口を擦って立ち上がった。
「はい、どうしたぁ? またトイレが詰まったのか?」
俺が名前と新入であることを告げると、おじさんは急に笑顔になった。
キャビネットの前に立って、薄いファイルを取り出した。そのファイルを持って席に戻り、老眼鏡をかけた。そして、後ろのページから指でなぞっていった。
ところが、その指が途中で止まることなく最後まで滑り切ると、おじさんは少し難しい顔になった。
「スマンな。もう一回名前を教えてくれるか?」
今度は俺に背を向けて、パソコンのキーボードを叩いた。
「お、出た出た。えぇっと……、入居手続き金―未納。――ありゃま! 山西君は一次募集で入居が決まった後、お金を振り込んでないの? 入居辞退になっとるよ」
「え、先にお金が要るんですか? と、いうことは……。僕はどうなるんですやろ?」
「折角、来てくれて残念だけど……、ここには、入れんやね」
おじさんが老眼鏡を外して、俺を憐れむように見上げた。
ズボンの裾から風が吹き込んだ。春休みで寮生の見当たらない建物が急に冷たくなった。俺は気丈を装って一礼した。
車に戻る途中、自分の靴をどの下駄箱に入れたのか、すぐには思い出せなかった。玄関脇の下駄箱の前で、友春と隆宏が俺の荷物を一つずつ持って立っている。
「キュウ! 部屋番はわかったんけ?」
「これ、どこに運び込んだらええねん?」
精一杯の笑顔を作って「アカンわ。撤収!」と言うと、当然、訝しげな表情を浮かべた二人は「は? 何がやねん」と、その場から一歩も動かない。
俺は、スマン、スマン、と繰り返して、二人を押し戻した。
雑に積み直した荷物の上のベッドで、俺は入居できなくなった訳を二人に話した。困り過ぎて、説明している最中にも自らが吹き出す始末。
他人の不幸が大好きな隆宏と、面白いことに飢えている友春は、俺の説明の途中から、ずっと半笑いのままだ。
「キュウらしい!」と、二人が同時に言った。
それには引っ掛かったが、一緒にオタオタされるよりも、笑い飛ばしてくれるほうがいい。二人の悪意に救われたような気がした。
ここで頭に浮かぶ相談相手は、一人しかいない。俺は兄貴のケータイに電話をかけた。その呼び出し音ごとに……。
一人暮らしはしてみたい。
三度の食事が付く寮生活を手放した。
元々、集団生活に向いていなかったかも。
生活費の負担が増える。
入学式まで、後九日もある――。
俺の思考は陰と陽を行ったり来たりする。乙女チックに花びら占いでもしているかのようだ。
結局のところ、仕事中の兄貴は電話に出なかった。ふと、着信が義姉さんからでも出ないのだろうか、と苛立ちは募るばかり。こんな所まで来て、これからどうすればいいのかと逡巡すると、だんだんと泣きたくなってくる。
「お~い、山西君! 良かった。まだいたかい」
さっきの事務のおじさんが、サンダルを引っ掛けてやって来た。
俺たち三人は、ほぼ同時にチッと舌を鳴らした。他の二人が舌打ちした理由はわからない。
俺は、何かの手違いやら見落としやらで、おじさんを責めるのは止そうと思った。(あぁ、良かった。……で、何号室ですか)と、言葉を用意した。
「アンタみたいなのが、毎年二人ぐらいいてねぇ。行く宛てがないなら、ここで相談に乗ってもらうといい」
おじさんからメモを渡された。
おじさんは、じゃ! と手を挙げて戻って行った。
メモには(常磐不動産)と書かれていて、地図と連絡先が大きく印刷されていた。
俺たちはそれぞれの思いを胸に、馬鹿笑いした。
「こんなとこで、うだうだ言うてても、しゃぁないやんけ。その、何て読むかわからへん不動産屋に行ってみよけぇ」
漢字も苦手な友春が車のエンジンをスタートさせたので、俺たちは慌てて定位置に着いた。
「毎年二人ぐらいおる、おっちょこちょいの一人が、キュウって……。もう一人のほうに、ヨロシクって言うといてくれよ―」
隆宏は日頃の仕返しとばかりに、しつこく弄ってくる。
地元に帰ったら言いふらす、と言ったとこら辺で、俺は隆宏のヒゲを毟った。久しぶりに聞く、おっちょこちょい、というフレーズに笑いながら、頭の中でおじさんの言葉を巡らせた。助手席の窓から空を見上げて願う。
今年度の間抜けが、俺一人だけとちゃいますように――。
「の」とか「は」が抜けるのよ




