台無しの朝
俺たちが寝そべっている所は、下段の荷台と、マットレスの厚さの分だけ高くなっている。
隆宏は背中のすぐ近くにある窓ガラスを、突然ノックされて、友春に抱きついた。
「びっくりしたぁ。何の音やねん?」
「コンビニの店員とちゃう? やっぱココで、お泊りはアカンとか」
近所迷惑に人一倍気を遣う友春が、いち早く上体を起こした。
俺たちは、お前が行けよ、お前が出ろよ、と譲り合った。
二度目のノックで、なぜか俺が代表に選ばれた。仕方ないので、運転席まで這い出ていって、運転席の窓に垂らした目隠しの布を捲った。
見ると、暗がりの中で二十代とも三十代とも見てとれる女性が、一人で佇んでいる。細面の綺麗な顔立ちをした女性だった。
その女性の笑顔に、何か文句があって怒られるわけではなさそうだ、と思った。窓の開閉スイッチを押す。車のキーが抜かれていて応答しなかったので、ドアを開けた。
「もう、お休みでした? 手とお口でヌキますけど、七千円でいかがですか?」
状況がよく飲み込めずに、キョトンとする俺を見て、女性は続けた。
「あら、お若い。お兄さんやったら、五千円に負けてあげるけど、どう?」
貧乏です、と言いかけて「間に合ってます」と言った。
スッと真顔になった女性は、粘りの営業魂を発揮することなく、向かいのトラックのほうへ、そそくさと歩いていった。
俺はドアをロックして、ベッドへ戻った。
「何やアレ、ビビらしよんのぉ」訝しんで言った。
「あんな商売があるんやな……。キュウ、間に合ってるって、俺ら、間に合ってへんやんけ」
友春がからかい半分でツッコんでくる。
「ほな、お前、呼び止めてきたらええやんけ。二十分くらいやったら、コンビニで時間を潰してくるぞ」
「いや、俺、歳上は……、ちょっと……、あんまり……」
口篭る友春を無視して、隆宏が「うわ! あのトラックのオッサン、買いよった!」と、嬉しそうに俺たちに手招きした。
覗きに行こう、止めとけよ、と、しばらく攻防が続いた後――
「寝るか……」
定位置に着いた俺たちを、若い虚しさが覆い被さった。
***
二日目の朝――
慌ただしく響くディーゼルエンジンの音に続いて、地面から伝わる振動が、俺の体をフワフワと揺すった。
俺の太腿を抱えて眠る、気色の悪い隆宏を引き剥がし、欠伸をした。夜中に友春がトイレに立ったので、寝る位置が入れ替わってしまったのだ。
ケータイの時計を見た俺は「ウソやん」と呟いた。水平線から昇る朝日どころか、時刻は七時半を過ぎていた。
俺が上体を起こすと、その揺れで他の二人も目覚めた。
「背中がちょっと痛いな」
「今、何時ぃ?」
目を擦ったり伸びをしたりして、各々が悠長に尋ねてくる。
「七時四十分ってとこやな」と答えた。
「ホンマか……。朝日は、まだけ?」
友春はまだ寝ぼけているようだ。
俺は「まだやとええなぁ」と言って、タオルを首に掛けて車を降りた。
三人もいて、誰一人、目覚ましをセットしていないとは……。俺たちの他力本願ぶりにも困ったものだ。
コンビニのトイレで洗顔を終えると、俺は三人分の缶コーヒーを買って戻った。
それを飲み終える頃には、他の二人の頭も活動し始めたようだった。予定ルートを外してまで、こんな所へ来た手間を何と心得るかと、一分ほど罵り合った。
以前からの計画が、水の泡と化したなんて例と比べれば、所詮は友春の思いつき程度の計画なので、気持ち的には落胆の、ら、くらいだ。隆宏に至っては最初からどうでもいい話だろう。
俺たちの気持ちはすぐに切り替わり、朝食についての話に移る。
相談の結果、コンビニ弁当が三食連続するのは、嫌だということになって、とりあえず走り出した。昨晩、寝る前に決めた予定ルートをすでに外れている、と指摘する係が俺たちの中には一人もいない。
道が混んでくると脇道に逸れ、あちこち走り回っていると、快適走行道路に差しかかった。この走りやすい道路に人気はなく、そんな所に食い物屋さんは見当たらなかった。
またさらに走り回って、やっとたどり着いた、CoCo壱番屋。
「昼過ぎまで走り回って、結局、カリーかいな……」
隆宏の一口は大きい。セットメニューのサラダが、見る見るうちに消えていく。
「カリーて何やねん。今、ちょっとイキった言い方したやろ」
注文した中辛が想像よりも辛くて、俺の額に汗が滲んだ。
「お前ら、カレー嫌いけ? 俺は三食カレーでも、一週間はイケるで」
友春は食うのが遅かった。
さっさと食べ終えて、暇を持て余す隆宏がケータイを弄りだした。それとほぼ同時に着信があって、隆宏は喋りながら店を出て行った。
「女の声やったな。オカンからとちゃうけ?」
友春は言ってすぐに、下を向いてカレーを頬張った。
俺の両親が交通事故で亡くなったことは、クラスの全員が知っている。そういうことに気を遣うタイプではないと思っていたので、意外だった。友春は場の空気が読めない奴と思いきや、近所迷惑ということに敏感だったりする。人間関係という大雑把なカテゴリー内で、友春が気を遣うのは、ココから、という線引きがわかりにくい。
「友春、あいつんとこって、無断外泊をどうこう言う家とちゃうやろ?」
「あぁ、放ったらかしや。家に何回か行ったことあるけど、茶ぁの一つも出てきたことないで」
すぐに、隆宏が困った顔を作って戻ってきた。
「妹に土産を頼まれたわいや」と言って、ドカッと座った。
隆宏の妹は、同じ高校の一学年下なので、何度か見かけたことがある。隆宏からヒゲを取って髪を伸ばし、背を縮めれば妹になるので、遺伝子の凄まじさを垣間見ることできる。それを思い浮かべると、毎回吹き出しそうになるのだが、隆宏は妹のこととなると本気で怒り出すので、俺たちは何も言わず平静を保った。
先に我慢できなくなったは、友春だった。
「隆宏って、妹と区別するために、そのヒゲを生やしとるんやろ?」
「よ? 何か言うたけ?」
隆宏が徐ろにソースを手に取り、友春のカレーにドボドボとかけた。
「あ、ちょっちょっ、止めろや!」
友春は皿を傾けて、できるだけソース被害の少ない部分から「うわ、不味いし、濃いし」と、言いながらも必死になって食べている。
……余計なことを言うからだ。言うとどうなるかくらいわかりそうなものだが、つるっと滑る口を持つ友春が、不憫でならない。俺は笑っていたが、お店のスタッフが、こちらをじっと睨んでいた。
腹拵えも済んで、再び快調に走る車。俺は後ろのベッドにいた。
隆宏が文句を言うように、後ろに支えがないので大変だ。前の座席に掴まるか、後ろ手に突っ張っていなけばならない。最初のうちはドアに凭れて横向きに座っていたが、友春が急ブレーキを掛けたときに派手に転がってしまって、それから前の座席に掴まるようにしていた。
しかし、何度か揺られているうちに踏ん張ることにも疲れて、俺は完全に仰向けになった。横の窓ガラスに映る知らない景色を眺めながら、俺は時折振られる会話に、相槌を打つだけになっていた。目を閉じると、すぐに眠りに落ちてしまうくらい、暇だ。面白いことは自分で探しに行かなければ、そうそう起こるものではない。そうとわかっていても、やる気が出ないって状態が、まさに今の俺だった。
「この交差点を左やったかいな? あぁもう、真っ直ぐ行ってしもたわ」
「さっきは左に曲がったんやし、今んとこは右やんけ」
「いやいや、左、左、休んで、右の方がリズミカルやんけ」
「休んでって何やねん。カスタネット方式やんけ」
「お前ら、ちょっとぐらい地図を見ろや。リズムとかいらんねん」
堪りかねた俺が口を挟んだ。
このダブルボケの二人に、いちおうツッコんでみたものの、俺の声量は鼻歌程度にしかならなかった。
今晩はどこで寝ることになるか? どこでも何も、この車内のこのベッドになる。問題は寝るまでの暇な時間を埋める何かが、その場所にあるかどうかということだ。
「紀勢自動車道の表示発見! アレやんな?」と、隆宏。
「俺らが探しとんのって、伊勢自動車道とちゃうの?」と、友春。
「同じやろ。看板が漢字を間違えとるだけかも知れへんやんけ」
もう、思いつくままに突き進めよ……。
隆宏に言われたときは癪に触ったものだが、計画性という文字が頭に浮かんだ。ひと眠りして活力が戻ったら、俺を寮に送り届けることを憶えているか、尋ねてみるとするか……。
***
――俺が立っている場所に、ざっと風が通りすぎた。半歩下がって、咄嗟に庇った腕を下ろす。すぐ横には大きな木があって、その木の根が奇怪な形態で、地上に見え隠れしていた。隆宏はその根の一つに腰掛けて、白いギターを弾いていた。
目の前に通るエンジ色の道路では、二人の女の子に手を引かれて、気怠そうに歩く男がいた。
その男は子供らに促されるまま、木のベンチへ腰を下ろすと、一方の子を指差して何かを言っているようだった。会話は聞こえてこない。ベンチに乗って飛び跳ねる女の子を、男が叱っているように見えた。
ふと、ギターの音が止んでいると気づいて視線を戻すと、隆宏は俺の足元を驚愕の表情で凝視していた。
その視線を追って自分の足元を見ると、靴の踵部分から、犬の糞がブリッとはみ出していた。
しかし今の俺が、犬の糞を踏んだくらいで取り乱すことはない。少し前から、これはいつもの夢だと気づいていたからだ。
靴の底を芝生に擦りながら通路まで出ていった。
あの子たちには、そっちの体に纏わりつかないでほしかった。このまま近寄って、子供たちを蹴散らそうと思った。傍目には児童虐待に映るかもしれないが、あいつらはそういうのとは違う。追い払わなければならない者だ、と決めつけた。
通路を斜めに、その子らへ向かって直線的に――。
あと二メートルとなったとき、突然に子供たちが体ごとこちらに向き直って、俺を見た。
『坊さんが屁をこいた!』と、言われたような気がした。
俺はベタなごまかし方で木の傍まで戻り、隆宏に話しかける振りをした。
チラッと振り返ると、子供たちはまだこっちを睨んでいた。……もう駄目だ。完全に考えを読まれている。
「俺が飛ばっちりを食うさかい、止めてくれや」
ここにきて初めて喋った隆宏に驚いた。隆宏は今にも泣き出しそうな顔をしている。その必死とも取れる顔がブサイクすぎて、俺も泣きそうになった。
「隆宏……どういうこと?」
そう言った直後に、俺の意識はプラグを抜かれたように、ポンッと途切れた。
背中が痛い……。俺はベンチに座っているようだ。俺の両手を誰かが握っている。目を開かなくても、あの子たちだとわかった。
左手の子が『無駄なのに。ねー』と言って、俺の手を離した。
それに呼応して、右手の子も『ねー』と、手を離した。
二人の足音が遠ざかっていく。俺は目を閉じたままでいた。
「何が『ねー』や! 全然、可愛ぃないわいや」
強がる俺の脇は、汗でビチョビチョになっていた。
しばらくの間、力なく項垂れる俺の肩に、そっと置かれる手があった。走り去ったはずの子供たちだと直感して、体が一瞬にして硬直した。
耳元に息遣いを感じた。
馬鹿だ……婆ぁ……てたよ。キュウ「キュウ、起きて」と聞こえた。
いつもと違う、優しく囁くような声だった。




