第9話 予報は、数字のためにあるんじゃない
組合のロビーの隅の、自動販売機の横の椅子。
黒川さんは、缶コーヒーを二本買って、一本を私の前に置いた。
少し離れた長椅子に、灯台の四人が座っている。
神崎さんは、こちらを見ないようにしながら、たぶん全部見ている。
「単刀直入に言うね。戻ってきてほしいんだ」
黒川さんは、鞄から一枚の紙を出した。
「新しく予報部を作る。雨宮さんには部長をお願いしたい。年俸は、前の三倍」
紙の上の数字を、私は黙って見る。
この前、あの会議室で、この人は「数字の取れない天気予報」と言った。
その予報に、今は三倍の値段がついている。
「配信も、うちのチャンネルで続けてほしい。ソラミルと雨宮さんの、ダブル予報。AIと人間が並んで予報する。これは絶対に数字が取れる。スポンサーも戻ってくる」
「ソラミルは、続けるんですか」
「もちろん。契約はもう決まってるし、アップデートも控えてる。雨宮さんには、その横で――」
「黒川さん」
私は、缶コーヒーに手をつけないまま、顔を上げる。
「土曜日、アルファの配信のコメント欄で、私の言葉が消されていました。スポンサーの予報と違うことが流れると困るから、ですよね」
黒川さんの笑顔が、少しだけ固まる。
「ダブル予報で、ソラミルと私の予報が違ったら、どちらを配信に出しますか。スポンサーの広告の横に、どちらを載せますか」
「それは……そのときに、数字を見て」
答えは、それで十分だった。
「予報は、数字のためにあるんじゃないんです」
祖父の気圧計を思い浮かべる。
外れたら、ちゃんと謝る。それを毎日、続ける。
「潜った人が、帰ってくるためにあるんです。だから、お受けできません。私は、組合の予報士になります」
黒川さんは、しばらく何も言わなかった。
やがて、紙を鞄に戻しながら、小さく笑った。
「……数字にならないって言ったの、僕だったね」
そのとき、黒川さんのスマホが震えた。
画面を見た顔から、すっと色が引く。
「はい。……はい。明日、ですか。……分かりました」
電話を切った黒川さんは、立ち上がって、私に軽く頭を下げた。
そして、何も言わずにロビーを出ていった。
駅までの道を、神崎さんが送ってくれる。
灯台の三人は、気を利かせたつもりなのか、先に帰ってしまった。
夕方の空は、薄い雲が西から広がり始めている。
巻層雲。明日の夜は、たぶん雨になる。
ダンジョンの外の天気を読むのは、久しぶりだ。
「断るって、分かっていました」
信号待ちで、神崎さんが言う。
「どうしてですか」
「雨宮さんは、配信の最初に、必ず昨日の答え合わせをするから。数字のために予報する人は、外れた話をわざわざしない」
私は、答えに困って、空を見上げる。
西の雲の端が、夕日で薄い橙色に染まっていた。
その夜の配信で、私は組合の予報士になることを伝えた。
「これからも、毎晩九時に、ダンジョンの天気をお伝えします。予報は、今までどおり無料です。危ない日は、組合の救助隊にも同じ予報を届けます」
"おめでとう"
"組合公認きた"
"事務所に戻らないんだ"
"傘持ってけおじさん、今夜も投げます"
投げ銭の通知が、しばらく止まらなかった。
最初の三百円のことを、私はきっと、ずっと忘れない。
黒川さんが、元いた広告代理店に戻されると聞いたのは、次の日のことだ。
スポンサーが三社とも離れた責任を取る、という話だった。
◇
次の日の午後、私はブレイヴラインのビルを訪ねた。
形の上では、今月いっぱいは、まだここの社員だ。
入館証を返して、机の私物を引き取らなければいけない。
五年間使った机は、もう片付けられかけていた。
モニターの横に、ソラミルの端末が置かれている。青い円に白い稲妻のマーク。
引き出しの中には、毎朝第三層で苔を見たときに付けていた手のひらほどの記録帳の束と、祖父と富士山の測候所で撮った写真が、そのまま残っていた。
記録帳をめくると、毎朝の苔の色と、結露の粒の大きさが、五年分並んでいる。
誰にも読まれなかった数字だ。
でも、この数字があったから、あの日の嵐の形が読めた。
記録帳と写真を鞄にしまって、フロアを出る。
受付の前で、杖をついた熊谷さんが待っていた。
「よう、しずくちゃん。ちょっと、会議室に寄ってけ」
あの日と同じ会議室。
長机と、モニターと、ホワイトボード。
ホワイトボードの隅に、赤い字が残っている。
私が最後に書いた予報だ。
明日 十四時ごろ 第十二層 魔素嵐。
「黒川が、何度か消そうとしてな。そのたびに、俺が止めた」
熊谷さんが、ホワイトボードの前の椅子に、よいしょと腰を下ろす。
「毎朝、あんたの予報を見てから潜ってた連中が、ここには何十人もいる。そいつらが、あの日から、この赤い字を見て出ていくんだ。消したら、何を見て出ていけばいい」
私は、ホワイトボードの前に立つ。
赤い字は、少しかすれていた。
あれから、何人の人が、この前を通っていったのだろう。
「熊谷さん。消してもいいですか」
「……あんたの予報だ。好きにしろ」
私は、イレーザーを手に取って、古い予報を消す。
それから、青いペンのキャップを外した。
明日の天気を、書く。
明日 第五層 昼過ぎから薄い魔霧 低い通路は避けること
明日 第九層 晴れ
明日 第十四層 夕方から魔素やや不安定 十六時までに撤収
最後に、一行だけ書き足す。
続きは、配信で。毎晩九時。
ペンを置いて振り返ると、会議室の入口に、いつの間にか氷室さんが立っていた。
明るい髪の人が、いつもより静かな顔をしている。
「雨宮さん。俺たち、明日から、雨宮さんの配信を見てから潜ります」
氷室さんは、深く頭を下げた。
「あの日は、すみませんでした。それから、ありがとうございました」
「はい。……ちゃんと、帰ってきてくださいね」
ビルを出たところで、スマホが鳴った。
救助隊の隊長からだ。
『雨宮さん。契約の件とは別に、もう一つ話がある。全国のダンジョンの魔素計のデータを、あんたの声で読んでほしい』
「全国の、ですか」
『ああ。全国のダンジョンの天気予報を、あんたの配信で流したいんだ』




