第8話 空を読む
ダンジョン管理組合の本部は、駅から歩いて五分の古いビルだ。
受付で名前を言うと、三階の会議室に通された。
扉を開けると、四人が一斉に立ち上がる。
「雨宮さん」
いちばん手前の男の人が、軽く頭を下げた。
画面で見るより、背が高い。
声は、配信で聞いていたのと同じだ。
「神崎です。……初めまして、になりますね」
「はい。初めまして。雨宮です」
それだけ言うのが、精一杯だ。
同接三十八人のころから、この人はコメント欄にいた。
それなのに、何を話せばいいのか、一つも出てこない。
「わたし、美羽です! あの、最初に配信を見つけたの、わたしなんです」
小柄な回復役の女の子が、神崎さんの横から身を乗り出す。
その後ろで、大河さんが腕を組んで、にやにやしている。
悠真さんは、黙って小さく会釈した。
奥の席で、救助隊の隊長が咳払いをした。
日に焼けた、四十代くらいの女の人だ。
「本題に入ろう。雨宮さん、組合の嘱託の予報士になってもらえないか」
隊長は、机の上に一枚の紙を置いた。
「組合は、全国のダンジョンの魔素計のデータを持っている。それを全部、使っていい。配信は今までどおり、あんたの名前で続けてくれ。こちらが頼みたいのは、危ない日に、救助隊に一本電話をくれることだけだ」
私は、紙の上の数字を見る。
ブレイヴラインでもらっていた給料より、少しだけ多い。
「熊谷さんからも、電話があった。杖をついてでも推薦しに行くと言うから、止めておいた」
隊長の口の端が、少しだけ上がる。
熊谷さんらしい、と思う。
あの人は、昔から、言葉より先に足が動く。
「一つだけ、お願いがあります」
「なんだ」
「返事の前に、第十二層に潜らせてください。最初の予報が、二分ずれた理由を確かめたいんです」
隊長は、しばらく私の顔を見ている。
それから、ふっと笑った。
「護衛がいるな。神崎、頼めるか」
「最初から、そのつもりです」
◇
ダンジョンに入るのは、クビを言い渡されてから初めてだ。
今日の予報は、晴れ。魔素計の揺れも小さい。
ブレイヴラインにいたころは、毎朝六時に第三層まで下りて、苔の色を見てから出勤していた。
探索者の人たちが潜り始める前に、その日の空を確かめておくためだ。
付き添ってくれたのは、いつも熊谷さんだった。
あのころの私は、予報を「当てる」ことばかり考えていた。
当たった予報を誰がどう使ったのか、ちゃんと見たことは、あまりなかった気がする。
灯台の四人は、慣れた並びで通路を進んでいく。
先頭は悠真さん。床の継ぎ目や壁のくぼみを、一つずつ指でなぞって確かめている。
その後ろに大河さんの槍、神崎さん、私、最後尾に美羽さん。
私が真ん中に入れられていることに、途中で気づく。
いちばん守りやすい位置だ。
湿った空気と、光る苔の匂い。
私は、ヘッドライトを消して、壁の苔の色を確かめる。
黄緑色。落ち着いている。
「雨宮さんは、どこを見ているんですか」
前を歩く神崎さんが、振り返らずに訊いた。
「苔と、結露と、風です。あと、音も聞いています」
「音?」
「嵐の前は、通路の奥の音が、少しだけ近く聞こえるんです。空気が重くなるので」
大河さんが、へえ、と感心したような声を出す。
悠真さんが、ポケットから小さな手帳を出して、何かを書き留めた。
あの日、嵐の中心になったのは、第十二層の東の区域だった。
そして、その東の区域のすぐ隣に、下の層へつながる大きな縦穴がある。
縦穴の縁に立つと、下から、ほんのかすかな風が吹き上げてくる。
私は、鞄から赤い糸を取り出した。
祖父に教わった、いちばん古い観測の道具だ。
糸の端をつまんで、風の中に垂らす。
糸が、ゆっくりと上になびく。
それから、縦穴から十歩離れた場所で、もう一度。
糸は、ほとんど動かない。
「……そうか」
思わず、声が出た。
「嵐は、縦穴のそばで速くなるんです。煙突みたいに。あの日の嵐は、この縦穴に引っ張られて、私の見立てより二分早く、東の区域に届いた」
土曜日の嵐が、大階段を私の予想より速く上ったのも、同じ理由だ。
縦穴や階段の太さで、嵐の速さが変わる。
私の予報には、その補正が入っていなかった。
ソラミルにも、入っていない。
魔素計の数字には、縦穴の形は出てこないから。
「すごいな」
神崎さんが、ぽつりと言った。
「すごくないです。二分、外していたんですから。祖父なら、きっとすぐに気づいていました」
観測ノートに、縦穴の位置と糸の角度を書き込む。
各層の地図に、縦穴の太さを書き足せば、次からは二分のずれを減らせる。
でも、全部の層の縦穴を測り直すには、何年かかるか分からない。
ペンを止めた私の前に、小さな手帳が差し出された。
悠真さんだ。
「……縦穴なら、十五層まで、全部書いてある」
初めて聞く、低くて静かな声だった。
手帳を開くと、各層の地図に、縦穴の位置と、歩幅で測った太さが、細かい字でびっしり書き込まれている。
罠を探す斥候は、落ちたら助からない穴の場所を、誰よりもよく知っている。
「七年分」
それだけ言って、悠真さんはまた黙った。
大河さんが、笑いをこらえながら私に耳打ちする。
「こいつが自分から喋るの、月に一回あるかないかだぜ」
「……ありがとうございます。写させてください」
私が頭を下げると、悠真さんは小さく頷いた。
「俺の父は、灯台守でした」
神崎さんが、縦穴の暗がりを見下ろしたまま言う。
「嵐の夜は、灯りが消えないように、一晩中起きていた。船が港に着いても、誰も父にお礼なんか言わない。でも父は、それでいいって言っていました」
神崎さんが、私のほうを見る。
「雨宮さんの予報を、初めて見たとき、父のことを思い出したんです」
私は、何も言えずに、ノートを閉じた。
顔が熱いのは、きっと、縦穴の風が止んだせいだ。
◇
地上に戻ったのは、夕方の五時過ぎだった。
組合の本部のロビーに入ると、美羽さんが小声で私の袖を引いた。
「雨宮さん。あの人、さっきからずっと待ってるんです」
ロビーの長椅子から、スーツ姿の男の人が立ち上がる。
感じのいい笑顔。
「久しぶりだね、雨宮さん」
黒川さんだった。




