第48話 七つの針
二時になる少し前、画面に、窓がもう一つ増えた。
薄暗い部屋に、棚が並んでいる。
棚のあいだに、ガラスのケースが一つ。
その中に、真鍮の丸い枠の気圧計が、立てて置かれていた。
ナイロビの博物館の、倉庫だった。
ケースの横に、女の人が立っている。
学芸員の、ワンジクさん。向こうは、まだ前の日の夜の八時だ。
『倉庫の鍵を、今夜だけ、借りてきました。いつもは、防犯カメラの画面で見ているだけなので』
ワンジクさんは、少し恥ずかしそうに笑った。
『この針は、動きません。でも、動かないところを、一緒に見ていたくて』
◇
画面に、七つの針が並んだ。
東京の、私の机の上の一台。
富士吉田の、水野さんの居間の柱の一台。
レイキャビクの台所の、ヨウンナさんの一台。
スイスの観測室の、マルティンさんの一台。
チリの、ルシアさんの一台。
岬の灯室の、ショーンさんの一台。
そして、ナイロビの倉庫の、ガラスケースの中の一台。
十四年前、祖父は御殿場の家で、自分の一台と同じものを、六台作った。
それを一台ずつ箱に詰めて、世界へ送った。
その七台が、今、一つの画面に並んでいる。
クレアさんの窓から、早口の声が飛び込んできた。
『寒冷前線が、岬を通過。風が西に変わった。気圧が、上がり始めています』
岬の窓の外では、横殴りだった雨が、急に細くなっていた。
雲の切れ目から、昼の光が、灯室の丸い窓に差し込んでくる。
向こうは、まだ、前の日の昼過ぎだ。
甲府の窓で、篠原さんが、手元の紙を読み上げた。
「河口湖の気圧、ゆっくり下がり始めています。高気圧が、東へ抜け始めた」
富士の線が下がり、岬の線が上がる。
ホワイトボードの二本の線が、交わろうとしていた。
◇
二時十分。
六台の針が、赤い線に向かって、ゆっくり寄っていく。
ナイロビの一台だけが、初めから、赤い線の上にいた。
コメント欄が、静かになっていた。
同接の数字は、見たことのない桁になっている。
それなのに、誰も、何も書かなかった。
部屋の後ろでは、蓮さんと熊谷さんが、椅子から身を乗り出していた。
早瀬さんは、キーボードから手を離していた。
二時十三分。
富士吉田の針が、赤い線のすぐ手前まで来た。
チリが、スイスが、アイスランドが、続いた。
岬の針が、震えながら、最後に寄ってきた。
「……二時十四分」
机の上の祖父の針も、ほかの五台も、いっせいに、赤い線に乗った。
◇
七台の針が、同じ一分に、同じ場所で、止まっていた。
地面の下の空と、地上の空が、どちらにも傾いていない。
富士の口も、岬の口も、吸うのも吐くのもやめている。
世界中のダンジョンの中で、風が、止まっている。
私は、マイクに顔を近づけた。
予報の言葉は、いくつも用意してあった。
でも、出てきたのは、短い一言だけだった。
「世界中の空が、まっすぐです」
ナイロビの窓で、ワンジクさんが、ケースのガラスにそっと手を当てた。
『この針は、ずっと、ここにいました』
字幕が、一拍遅れて流れた。
『今夜、ほかの六台が、ここへ来ました』
レイキャビクの台所で、ヨウンナさんが、両手で口を押さえていた。
チリの観測室では、ルシアさんが、壁の父親の写真のほうを振り返った。
スイスの窓では、マルティンさんが、黙って帽子を取った。
コメント欄に、ようやく、一つだけ言葉が流れた。
"まっすぐだ"
それから、いろいろな国の言葉で、同じ意味の言葉が、ゆっくり続いた。
◇
岬の窓の中で、ショーンさんが、日誌を開いていた。
太い指で、ゆっくり、一行を書く。
モーラさんが、カメラを近づけた。
Needle on the red line.
ショーンさんは、ペンを置いて、カメラを見た。
『晴之に、手紙を書く。動いたからな』
「……宛先は、もう」
『分かっている。それでも、御殿場に出す。カードに、そう書いてあった』
水野さんと、同じことを言う。
会ったこともない、海の両側の灯台守と観測員が、同じ一人に、返事を書こうとしている。
富士吉田の窓で、水野さんが、小さく頭を下げた。
ショーンさんも、少し遅れて、頭を下げた。
字幕は、何も流れなかった。
◇
二時二十一分。
針が、赤い線を離れた。
今度は、富士の口が、少しだけ吐く。
岬の口が、少しだけ吸う。
予報どおりの、弱い、逆向きの風だった。
「吹き抜けは、終わりました。ここから朝までは、弱い風です」
私は、各地の窓に、一つずつお礼を言った。
ヨウンナさんは、ガラスを二回叩いてから、窓を閉じた。
ワンジクさんは、ケースに一礼して、倉庫の明かりを消した。
四時を過ぎたころ、渡辺さんから写真が届いた。
富士第零の柵に、組合が付けたカメラの画面だ。
くぼみのまわりの地面が、膝の高さほど、白くかすかに光っていた。
◇
気がつくと、部屋の後ろの椅子で、蓮さんが眠っていた。
腕を組んだまま、首を少し傾けている。
樹海の夜、公民館の和室で、私の肩に上着を掛けてくれた人だ。
私は、椅子の背に掛けていた自分のカーディガンを、そっと蓮さんの膝に掛けた。
熊谷さんが、見ないふりをして、天井を見上げていた。
窓の外が、白み始めていた。
六時を少し過ぎたころ、早瀬さんが、小さな声で私を呼んだ。
第二十一層の、階段の下のカメラの画面だった。
吹き抜けの風は、もう止んでいる。
舞い上がった砂も、すっかり落ちていた。
苔のない、真っ暗な層のはずだった。
その床に、小さな光が、点々と散らばっていた。
米粒ほどだった芽が、一晩で、指の先ほどに育っている。
これまでは、明かりと呼べるほどの光ではなかった。
今は、白っぽい、かすかな、苔の色に光っている。
苔のない層に、明かりが灯っていた。




