第47話 吹き抜け
朝の空は、雲一つなかった。
駅から組合まで歩くあいだ、風はほとんど吹いていない。
街路樹の葉が、一枚も揺れていなかった。
篠原さんの言ったとおりの、ただの行楽日和だ。
地面の下では、今日、世界でいちばん大きな風が吹く。
放送部屋に着くと、早瀬さんは、もうノートパソコンを三台並べていた。
全国版は、昼から流し続ける。
画面の地図の上に、世界のダンジョンの、地上へ上がった人の数が、少しずつ増えていく。
◇
昼を過ぎると、各地から知らせが届き始めた。
富良野の北見さんは、自分の配信で、最後のパーティーが上がったと伝えてきた。
チリでは、ルシアさんの声で、ダンジョンの入口の門が閉まった。
アイスランドは、まだ夜明け前だ。それでも、ヨウンナさんは起きていて、台所のテーブルの気圧計を見ていた。
上がらない人も、いた。
上の層なら平気だろう、という書き込みが、コメント欄に何度も流れた。
「三時から、灯台が下ります」
隊長が、無線を手に、部屋の隅に立った。
救助隊は朝から深い層を、灯台は三時から上の層を、残っている人がいないか見て回る。
上がってくるのは、十八時半。最後の最後だ。
美羽さんの配信の窓が、画面の端に開いた。
『灯台、いってきます!』
蓮さんが、カメラの向こうで、短く手を挙げた。
◇
四時半を過ぎたころ、美羽さんの配信から、知らない声が聞こえた。
第四層の、細い通路の奥だった。
大学の探索サークルの三人組が、まだ苔の写真を撮っていた。
上の層なら平気だと思った、と、一人が気まずそうに言った。
『一緒に、上がりましょう』
蓮さんは、それだけ言った。
怒らなかった。
三人の荷物を、大河さんが半分持った。
灯台の歩みが、三人の分だけ、ゆっくりになった。
◇
五時四十分。
祖父の気圧計の針が、すうっと左へ寄った。
予報より、早い。
私は、画面の端のクレアさんの窓を見た。
『岬の気圧が、この一時間で五ヘクトパスカル下がった。低気圧が、また予報より深まっています』
早瀬さんが、差の線を引き直す。
線の先が、さっきより、ぐっと手前で跳ね上がった。
私は、マイクの前に座り直した。
「予報を、修正します」
声が、震えないように。
同接三人の夜から、ずっと、そうしてきたように。
「吹き抜けの始まりは、六時二十分ごろに早まります。まだダンジョンの中にいる方は、今すぐ、いちばん近い上り階段へ。階段の途中で風が来たら、段に伏せて、手を離さないでください」
美羽さんの配信の向こうで、蓮さんが、こちらを見た気がした。
灯台は、まだ第三層にいる。
◇
六時二十二分。
祖父の針が、大きく、左へ振れた。
第二十一層の階段の下のカメラが、一瞬で、白く濁った。
音が、カメラのマイクを叩き割るように鳴っている。
風だ。苔のない暗い層を、何かが、ものすごい速さで通り抜けていく。
美羽さんの配信の画面も、大きく揺れた。
『来ました! 蓮さん、風!』
第三層から第二層への、上り階段の途中だった。
下の段から、風が、髪を逆立てるように吹き上げてくる。
蓮さんが、何か叫んだ。
灯台の四人と、三人組が、いっせいに段に伏せた。
私は、マイクの前で、針から目を離さなかった。
ここは、まだ浅い層だ。
風は、これから、少しずつ強くなる。今がいちばん弱い。
「蓮さん。今なら、上がれます。這ってでも、上へ」
声が届いたのかどうか、分からなかった。
画面の中で、蓮さんの手が、三人組の一人の腕をつかんだ。
大河さんが、もう一人の背中を押した。悠真さんが、いちばん上で、手を伸ばしている。
◇
六時四十分。
美羽さんの配信の画面が、急に明るくなった。
地上の、街の明かりだった。
『……全員、地上です』
蓮さんの声は、息が切れていた。
隊長が、無線を下ろして、長い息を吐いた。
私は、机の下で、自分の膝を強く握っていた。
手を離すと、指が、少し震えていた。
三十分ほどして、放送部屋のドアが開いた。
蓮さんだった。
髪が、風に逆立てられたまま、あちこちを向いている。
「戻りました」
「……おかえりなさい」
ほかに言うことは、たくさんあったはずだった。
でも、出てきたのは、それだけだった。
蓮さんは、私の机の上の気圧計を見て、それから、私の手を見た。
まだ震えている指に、何も言わずに、自販機の温かい缶を一本、握らせた。
「針から、目を離さないでください。俺は、後ろにいます」
蓮さんは、部屋の後ろの、熊谷さんの隣の椅子に座った。
熊谷さんが、何も言わずに、杖を少しずらして場所を空けた。
◇
岬の窓に、モーラさんの顔が映ったのは、八時を過ぎたころだった。
向こうは、嵐の朝だ。
灯室の丸い窓に、雨が、横から叩きつけている。
『洞窟が、吐いています』
モーラさんは、カメラを窓の外へ向けた。
崖の根元の、海の洞窟の口から、白いものが流れ出していた。
かすかに、光っている。苔の色だ。
光る霧は、暴風に引きちぎられて、何本もの筋になりながら、入り江の上を、港のほうへ流れていく。
港には、船が、ぎっしり並んでいた。
一隻も、海に出ていない。
灯台の明かりが、回るたびに、光る霧の筋を照らした。
ショーンさんが、窓のそばの椅子で、日誌に何かを書きつけていた。
◇
夜の十一時を過ぎると、吹き抜けは、いちばん強くなった。
富士の麓の渡辺さんから、短いメールが届いた。
遊歩道の入口は閉めてある。朝まで、村の消防団が、国道沿いの駐車場で見張りをしている、と。
富士吉田の窓では、水野さんの柱の針が、右に振れ切っていた。
富士の口が、吸っている。
東京の祖父の針は、左に振れ切っている。地面の下を、風が通っている。
同じ風を、二台の針が、反対の言葉で書いていた。
零時半を過ぎて、クレアさんが、低気圧の中心が岬の南を抜けたと知らせてきた。
寒冷前線が、岬に近づいている。
一時五十分。
祖父の針が、ほんのわずかに、右へ戻り始めた。
机の上の一台と、画面の窓の中の五台。
六台の針が、そろって、赤い線のほうへ動き出していた。




