第46話 吹き抜けの予報
朝いちばんに、クレアさんから新しい計算が届いた。
低気圧の中心は、きのうの予報より深い。
岬の気圧が底を打つ時刻は、三十分ほど早まっていた。
早瀬さんと二人で、ホワイトボードの線を引き直した。
吹き始めは、明日の夜の七時ごろ。
早ければ、六時半。
「もっと早くなる、ということは」
「あります。爆弾低気圧は、計算より速く深まることが多いので」
早瀬さんは、ペンのキャップを噛んで、しばらく線を眺めていた。
「ソラミルの観測版には、二つの口の差の線を、そのまま載せます。数字を、隠さずに」
「お願いします」
◇
昼過ぎ、組合の人たちが、新宿第一へ下りていった。
第二十一層の階段の下に、小さなカメラを一台、取り付けるためだ。
苔のない、暗い層。
霧が晴れたあと、床に針の先ほどの苔の芽が出て、今は米粒ほどになっている。
吹き抜けが、あの芽をどうするのか、誰にも分からない。
「見たとおりに、残しておきたいんです」
隊長は、何も聞かずに、うなずいてくれた。
午後には、富士の麓の村の渡辺さんから電話があった。
富士第零のくぼみのまわりは、あの朝から柵を閉じたままだ。
明日の夕方からは、遊歩道の入口も、念のため閉めるという。
「吸うほうなら、霧は出ないんですよね」
「出ません。ただ、くぼみの底では、穴に向かって強い風が吹きます。それから、夜明け前に向きが変わって、少しだけ吐きます」
「少しだけ、というのは」
「膝の高さの霧が、くぼみのまわりに、朝まで」
渡辺さんは、電話の向こうで、メモを取る音を立てた。
「村長に、そのまま伝えます。雨宮さんの『少しだけ』は、信用していいって」
◇
二十一時。
放送部屋の画面に、窓が七つ並んだ。
甲府の篠原さん。ガンダーのクレアさん。
ヨウンナさん、ルシアさん、マルティンさん。
岬の灯室の、モーラさんとショーンさん。
富士吉田の居間の、水野さん。
足首に包帯を巻いたまま、柱の気圧計の横に座っている。
「こんばんは。全国のダンジョンの天気、今夜は、世界のダンジョンの天気をお伝えします」
コメント欄が、一斉に流れ始めた。
日本語と、英語と、読めない文字が、入り混じっている。
最初に、篠原さんが、日本の地上の天気を読んだ。
明日は、全国的に晴れ。風は弱く、夜は放射冷却で冷え込む。
続けて、クレアさんが、ニューファンドランドの天気を早口で読んだ。
低気圧が急速に発達し、岬は暴風と大しけ。
画面の二つの天気図が、地球の両側で、正反対の顔をしていた。
◇
「地面の下の空は、一本の長い管です。口は、二つあります」
富士の足もとの風穴と、カナダの岬の、海の洞窟。
二つの口の気圧の差が、世界中のダンジョンの、風になる。
私は、それを、できるだけ短く話した。
「明日の夜、二つの口の差が、あの晩から、いちばん大きくなります」
ボードの線を、カメラに向ける。
「明日の夜七時ごろ、早ければ六時半から、世界中のダンジョンで、一つの方向に強い風が吹きます。吹き抜け、と呼びます」
深い層ほど強い。
階段と、細い通路と、層と層のあいだが、いちばん強い。
新しい層の階段には、近づかないでください。
「組合からのお願いです。明日の十八時までに、全員、地上へ上がってください」
それから、私は、ボードのもう一つの点を指さした。
「吹き抜けは、明後日の夜が明ける前、二時ごろに止まります。そのとき、世界中の針は、赤い線に乗るはずです」
◇
世界の予報士が、自分の言葉で、自分のダンジョンを読んだ。
ヨウンナさんはアイスランドの言葉で、ルシアさんはスペイン語で。
マルティンさんは、ドイツ語とフランス語で、二回読んだ。
最後に、灯室のショーンさんが、カメラに向かって一言だけ言った。
『岬の船は、もう港に入った』
水野さんは、柱の気圧計を、そっと指でさした。
『富士吉田の針は、明日の晩、右へ振れるはずです。見たとおりに、書いておきます。……家の中で』
最後の一言に、コメント欄が、少しだけ笑った。
コメント欄は、いつもどおり、半分に分かれていた。
"行楽日和なのに、ダンジョンだけ大嵐って言われても"
"大げさすぎる、上の層なら平気だろ"
"お姉さんが大げさだったこと、一回でもあったか?"
"I'm going home early tomorrow. Thank you, Shizuku."
締めの言葉を言って、配信を切った。
放送部屋の空気が、ふっと緩む。
祖父の気圧計の針は、赤い線の、ほんの少し左にいた。
部屋の後ろから、熊谷さんが、杖をついて近づいてきた。
「しずくちゃん。灯台の見回りは、何時に上がらせる」
「十八時半です。救助隊と一緒に、最後に」
「吹き始めが六時半なら、ぎりぎりだな」
「はい。だから、明日は、針から目を離しません」
熊谷さんは、ボードの線をしばらく見てから、低い声で言った。
「大階段は、層と層のあいだの、いちばん太い煙突だ。吹き始めたら、人は立っていられねえ。……そうなったら、段に伏せて、手を離すな、と言っとけ」
◇
帰りの廊下で、蓮さんが隣に並んだ。
エレベーターを待つあいだ、二人とも、しばらく黙っていた。
「明日、当たったら」
蓮さんが、前を向いたまま言った。
「誰も、何も言わない夜になりますね。みんな、先に上がって、家にいて。風が吹いたことも、知らないまま寝る」
「はい」
「父が言っていました。船が港に着いても、誰も灯台守にお礼なんか言わない」
エレベーターの扉が開いた。
蓮さんは、私を先に乗せてから、自分も乗った。
「それで、いいんですよね」
「はい。それが、いちばんいい予報です」
言いながら、私は、明日の十八時のことを考えていた。
世界中の人が上がったあと、最後に階段を上がってくるのは、灯台の四人だ。




