第45話 地球の反対側の予報官
組合の三階の会議室には、大きな画面が二枚運び込まれていた。
画面の上に、窓が六つ並んでいる。
甲府の気象台の会議室の、篠原さん。
ヨウンナさんの台所。ルシアさんの観測室。マルティンさんの、雪の見える窓。
岬の灯室の、モーラさんとショーンさん。
そして、最後の窓に、知らない女の人が映った。
短い金色の髪に、眼鏡。手には、大きなマグカップ。
『カナダの気象局、ガンダーの予報官の、クレア・パワーです。ニューファンドランドの空を受け持っています』
早口だった。
翻訳の字幕が、追いかけるのに苦労している。
『先に言っておきます。私の仕事は、岬の上の空です。洞窟の中のことは、何も分からない』
「はい。私も、岬の上の空は、何も分かりません」
クレアさんは、マグカップを置いて、初めて少し笑った。
『いいですね。分からないことを分からないと言う予報士は、信用できる』
◇
早瀬さんが、二枚目の画面に、二つの天気図を並べた。
左が日本。右が、大西洋の西。
篠原さんが、左の天気図の説明をした。
明後日、大陸から張り出した高気圧が、日本の上をすっぽり覆う。
河口湖の気圧は、夜にかけて、ここしばらくでいちばん高くなる。
「地上は、よく晴れます。風も弱い。ただの、行楽日和です」
篠原さんは、少し硬い声で、そう付け加えた。
クレアさんが、右の天気図を引き取った。
大西洋の西で生まれた低気圧が、北東へ進みながら深まっていく。
岬の真上を通るのは、日本の時刻で言うと、明後日の深夜。
『日本の時刻で話します。そのほうが、あなたたちの針と比べやすいでしょう』
クレアさんは、マグカップの横のメモを、指で叩いた。
『低気圧の中心は、明後日の夜中の一時半ごろ、岬のすぐ南を抜けます。そのあと寒冷前線が通って、岬の気圧は一気に上がる』
◇
私は、ホワイトボードに、二本の線を描いた。
一本は、富士の気圧。明後日の夜に向かって上がり、夜明け前から、ゆっくり下がり始める。
もう一本は、岬の気圧。明後日の夕方から、崖を落ちるように下がり、真夜中に底を打って、そこから一気に上がる。
二本の線のあいだが、二つの口の、気圧の差だ。
「差が大きくなり始めるのは、明後日の夜の七時ごろ。いちばん大きいのは、夜の十一時から、夜中の零時半ごろまでです」
富士が押され、岬が引かれる。
富士の口が吸い、岬の口が吐く。
地面の下の空を、富士の側から、岬の側へ。
「世界中のダンジョンの中を、一つの方向に、強い風が通ります」
熊谷さんが、部屋の後ろで、低い声で言った。
「坑道じゃ、そういう風を、吹き抜けって呼んだ」
◇
画面の窓の中で、ヨウンナさんが、ゆっくりうなずいた。
ルシアさんは、ノートに何かを書きつけている。
マルティンさんが、手を挙げた。
『風の強さは、場所によって違いますか』
「狭いところほど、強くなります。階段と、細い通路と、層と層のあいだ」
煙突の地図を作ったときと同じだ。
空気は、通れる道を選んで、そこへ集まる。
「深い層ほど、強くなると思います。新しい層の階段が、いちばん危ない」
私は、ボードの二本の線が、もう一度近づくところを指さした。
岬の気圧が上がり、富士の気圧が下がり始める。
二本が交わるところで、差は、ゼロになる。
「明後日の夜が更けて、日付が変わった二時ごろです。そこで、吹き抜けは止まります」
『そのあとは?』
「向きが変わります。でも、差は小さいので、弱い風です」
篠原さんが、眼鏡を押し上げた。
「二本の線が交わるところ。……赤い線、ですか」
「はい。世界中の針が、赤い線に乗るはずです」
◇
隊長が、腕を組んだまま立ち上がった。
「吹き始めが、明後日の夜の七時ごろなら、組合は十八時までに全員を地上へ上げるよう、お願いを出す」
「はい。それで、一時間あります」
「お願いしか、出せないけどな」
蓮さんが、部屋の隅から、静かに手を挙げた。
「灯台は、明後日の午後、救助隊と手分けして、新宿第一を最後に見回ります。残っている人がいないか」
「十八時半までには、蓮さんたちも上がってください」
「はい。観測は、帰ってくるまでが観測です」
会議室の何人かが、小さく笑った。
私だけ、笑えなかった。
画面の窓では、ヨウンナさんが、手を胸に当てていた。
『世界版の予報は、それぞれの国の予報士が、自分の言葉で読みましょう。シズクが二つの天気図を読み、私たちが自分のダンジョンを読む』
『チリも、そうします』
『スイスも』
ルシアさんとマルティンさんの声が重なった。
ひと月近く前、全国の認定予報士が、それぞれの土地で、自分の名前で予報を読んだ夜があった。
今度は、それが、世界になる。
◇
最後に、岬の話になった。
岬の口が吐けば、洞窟から、冷たく重い霧が出てくる。
霧は、低いほうへ流れる。
灯台の崖の下の入り江から、港のほうへ。
『霧の注意報なら、私が出せます。理由を書く欄には、困りますが』
クレアさんが、肩をすくめた。
灯室の窓の中で、ショーンさんが、ゆっくり口を開いた。
『港の船は、前の日に入れる。この岬では、昔からそうしてきた。天気が悪くなると灯台守が言えば、漁師は聞く』
「ありがとうございます」
『礼はいらない。灯台守の仕事だ』
蓮さんが、部屋の隅で、小さく息を吐くのが聞こえた。
◇
会議の終わりぎわ、クレアさんの窓の中で、誰かが紙を一枚差し入れた。
クレアさんは、それを読んで、眉を寄せた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、マグカップを脇へどけて、カメラに顔を近づけた。
『最新の計算が出ました。低気圧が、予報よりも速く深まっています』
字幕が、一拍遅れて流れた。
『一日で、気圧が三十ヘクトパスカル以上下がる。爆弾低気圧です』
ホワイトボードの、岬の線。
崖を落ちるように下がる、その線の先が、もっと深く、もっと早くなる。
吹き抜けは、私の描いた線より、強く、早く来る。




