第44話 青い箱の手紙
次の日、蓮さんのワゴンで御殿場へ向かった。
膝の上の紙袋には、水野さんの十四年分の手帳と、白い封筒が一通。
宛名は、雨宮晴之様。
東名を降りると、正面に富士山が見えた。
頭に、雲は一つもかかっていない。
「よく晴れましたね」
「予報どおりです」
蓮さんは、ハンドルを握ったまま、少しだけ笑った。
車線を変える前に、鏡を二回見る。
その癖を、私はもう、見なくても分かる。
御殿場の町へ入る坂の途中で、蓮さんが、前を向いたまま言った。
「ゆうべ、父に電話したんです。岬の灯台守の話をしました」
「お父さまは、何て」
「しばらく黙って、それから、十四年毎晩か、と。……それは、灯台守の仕事だ、って」
蓮さんの父も、灯台が自動になってからも、日誌を付けていたと聞いた。
誰も読まないのに、いつか誰かが読むかもしれないから、と。
「父は、毎晩、全国版を見てるそうです。今まで、一度も言わなかったくせに」
そう言って、蓮さんは、少し困ったように笑った。
◇
玄関を開けると、母が、エプロンのまま出てきた。
私の後ろの蓮さんを見て、ぱっと顔を明るくする。
「神崎さん、また運転してくださったの。ありがとうね」
「いえ。蓮さんは、運転が好きなので」
言ってから、しまった、と思った。
母は、私と蓮さんの顔を、ゆっくり見比べた。
「……あら」
それだけ言って、母は台所へ戻っていった。
鼻歌が聞こえる。
蓮さんは、靴を脱ぎかけた姿勢のまま、しばらく固まっていた。
◇
押し入れの青い箱は、前に来たときと同じ場所にあった。
祖父の地上のノートの束。
底には、送り状の控えが六枚。
私は、水野さんの手帳を、ノートの束の横に並べた。
十四年分。毎朝、「針、動かず」。
最後の一冊の終わりにだけ、違う言葉が並んでいる。
白い封筒を、手帳のいちばん上に置いた。
母が、後ろから、そっと手を合わせた。
「おじいちゃん、返事が来たわよ」
◇
「それと、もう一つ、探したいものがあるの」
私は、母に、岬の灯台の話をした。
十五年前の晩のあと、祖父が世界の観測所に手紙を書いたこと。
岬の灯台守から、返事が来たはずだということ。
母は、少し考えてから、押し入れの上の段を指さした。
「外国から手紙が来るとね、おじいちゃん、いつもあそこに置いてたの。輪ゴムでまとめて」
上の段の奥に、平たい菓子の缶があった。
ふたを開けると、航空便の封筒が、ぎっしり詰まっていた。
スイス。チリ。アイスランド。ペルー。ノルウェー。
山の上や岬の、世界中の観測所からの返事だ。
蓮さんと二人で、一通ずつ、畳の上に並べていった。
どれも、中身はほとんど同じだった。
あの晩、こちらの気圧に、変わったところはありません。
異状なし。異状なし。異状なし。
アイスランドの封筒の署名を見て、私は手を止めた。
ヨウンナさんの名前だった。
十五年前の、少し若い字で、こちらも異状なし、と書いてある。
祖父は、この「異状なし」をくれた人たちの何人かに、あとで気圧計を送ったのだ。
「……四十通、ありますね」
「全部、祖父が一人で書いたんだと思います」
母が、お茶を運んできて、畳の上の封筒の列を眺めた。
「おじいちゃん、あの頃は毎晩、居間の座卓で辞書を引いてたわ。英語なんて、山の上じゃ使わなかったのにって、ぶつぶつ言いながら」
富士山の頂上の数字が跳ねたと、水野さんから電話をもらって。
祖父は、世界中に、同じことを聞いて回った。
四十の「異状なし」を、一通ずつ、確かめるために。
◇
カナダの切手の封筒は、缶のいちばん底にあった。
中には、手書きの表の写しが一枚。
あの晩の、岬の灯台の気圧の記録だ。
一か所だけ、数字が、急に跳ねていた。
その横に、祖父の鉛筆の字があった。
『富士と岬。同じ分。口は二つか』
蓮さんが、息をのむ音がした。
表の余白には、もう少し続きがあった。
『両方が開けば、地面の下の空は管になる』
『管の風は、両端の気圧の差で吹く』
私は、畳の上に座ったまま、動けなかった。
組合の放送部屋で、早瀬さんと重ねたグラフ。
熊谷さんが、杖の先でなぞった坑道の話。
祖父は、十五年前に、この缶の底で、同じところまで来ていた。
私は、余白の字をスマホで撮って、放送部屋のみんなに送った。
熊谷さんから、すぐに短い返事が来た。
じいさん、坑夫の素質があったな。
そして、余白には、その下に、もう一行あった。
『いつ吹くかは、二つの土地の天気図を並べれば分かる。私には、片方しか読めない』
◇
帰りのワゴンの中で、私は、表の写しを膝の上に乗せたまま、窓の外を見ていた。
母は、焼きそばを、蓮さんに二回おかわりさせた。
帰り際には、また来てね、蓮さん、と名前で呼んでいた。
家を出る前、玄関で靴を履いていると、母が、私の袖を引いた。
「しずく。あんた、カナダまで行くの?」
「行かない。予報は、ここからでも出せるから」
「そう」
母は、少しほっとしたように笑ってから、声を落とした。
「おじいちゃんもね、一度だけ言ってたのよ。あの岬に、行ってみたいって。結局、行かなかったけど」
夕方の富士山は、裾のほうから、少しずつ青くなっていく。
「おじいさんは、読めなかったんですね。岬の天気図」
「十五年前は、カナダの予報官と話す手立てが、なかったんだと思います」
祖父は、山の上の測候所の人だった。
富士の空なら、誰よりも読めた。
でも、地球の反対側の空は、手紙で記録を受け取ることしかできなかった。
それに、二つの口は、ずっと閉じていた。
「明日の会議には、カナダの予報官が入ります」
「はい」
「片方ずつ読める人が、二人そろう」
蓮さんは、前を向いたまま言った。
私は、膝の上の紙を、そっと押さえた。
祖父が読めなかった、もう片方の天気図。
明日、私は、それを読む人に会う。




