第41話 岬の灯台
メールに返事を書いたのは、夜中の一時を過ぎてからだった。
英語は、気象の論文で読む分には困らない。
けれど、人に宛てて書くのは、ずいぶん久しぶりだった。
書いたのは、短いことだけ。
雨宮晴之は私の祖父で、六年前に亡くなったこと。
富士の足もとにも、同じ時刻に右へ振れた針があったこと。
それから、もしできるなら、お祖父さまと話をさせてほしいこと。
送信してから、机の上の気圧計を見た。
針は、赤い線の上で、静かに止まっている。
この部屋の近くに、ダンジョンはない。
◇
返事は、明け方に届いていた。
差出人の名前は、モーラ・ウォルシュ。
『祖父は、あなたと話したいそうです。毎晩九時に、灯室へ上がります。そのときなら、針も一緒にお見せできます』
向こうの夜九時は、日本では次の日の朝になる。
組合へ行く前に、アパートの机で、ノートパソコンを開いた。
画面がつながると、赤い髪の女の人が、少し照れたように手を振った。
そばかすのある頬に、強い風に当たってきた赤みがある。
後ろには、丸い窓と、大きなレンズの影が見えた。
灯台の、いちばん上の部屋だ。
『はじめまして、シズク。祖父です』
モーラさんがカメラを動かすと、椅子に座ったおじいさんが映った。
白いひげに、厚い毛糸のセーター。
膝の上に、分厚い帳面を抱えている。
ショーン・ウォルシュさん。
八十九歳。
この岬の灯台を、灯台が自動になったあとも、ずっと世話してきた人だという。
『晴之の、孫か』
低くて、少しかすれた声だった。
翻訳の字幕が、一拍遅れて流れる。
ショーンさんは、棚の上を指さした。
真鍮の丸い枠。白い文字盤。
てっぺんの真ん中に、赤い短い線。
祖父の気圧計と、同じ顔をしていた。
◇
ショーンさんは、膝の帳面を開いて見せてくれた。
灯台の日誌だ。
一日に一行ずつ、細い字で、天気と風と、波の高さが書いてある。
その行の終わりに、毎晩、同じ言葉があった。
Needle steady.
『針、動かず。十四年、毎晩そう書いた』
モーラさんが、帳面の束を一冊ずつカメラに向ける。
どのページの終わりにも、同じ二語が並んでいた。
『動かないものについて、手紙は書けない。だから、晴之には書かなかった』
私は、思わず息を止めた。
富士吉田の居間で、同じことを聞いた。
海の向こうに、もう一人、毎晩「動かず」と書き続けた人がいた。
ショーンさんは、ページをめくった。
三週間ほど前の日付のところで、指が止まる。
Needle swung right.
針が、右へ振れた。
モーラさんが、横から言い添えた。
日本の時刻に直すと、二十一時九分。
◇
『十五年前の晩のことも、話しておこう』
ショーンさんは、いちばん古い帳面を、膝に置いた。
ダンジョンが現れる前の晩。
灯台の気圧計が、高気圧も来ていないのに、急に上がった。
灯台は国の観測所も兼ねていたから、ショーンさんは、その数字を手で書き写した。
しばらくして、日本から一通の手紙が届いた。
世界中の観測所の記録を調べている、という男からだった。
『あの晩、富士山の頂上で、気圧が理由なく跳ねた。世界中の記録を見ると、あなたの岬の数字も跳ねているように見える。手で付けた記録があれば、分まで見せてほしい。そう書いてあった』
私は、机の端を握った。
水野さんが祖父に電話したのは、山頂の数字だ。
祖父は、そこで止まらなかった。世界中の記録を、一つずつ見ていった。
『私は、書き写した記録を送った。次の年の春に、小包が届いた』
気圧計と、英語のカードと、手紙が一枚。
モーラさんが、その手紙をカメラに近づけた。
見慣れた祖父の字が、英語で並んでいる。
『この一台は、疑うための一台です。もし針が動いたら、あなたの足もとを、疑ってください』
◇
足もと、と私は口の中で繰り返した。
「ショーンさん。灯台の下に、洞窟があるんですね」
『海の洞窟だ。潮が引いたときだけ、浜から歩いて入れる』
モーラさんが、窓の外を指さした。
灯台の真下は、黒い岩の崖だ。
小石の浜が、崖の根元に、細く続いている。
『あの晩から、奥から冷たい風が吹いている。子どものころから入っているけれど、そんなことは一度もなかった』
「次に潮が引くのは、いつですか」
『明日の朝。こちらの、朝の八時ごろ』
モーラさんは、写真を撮ってくると言った。
私は、一つだけお願いをした。
満ち潮の時刻より、ずっと前に出てきてください、と。
ショーンさんが、帳面を閉じて笑った。
字幕が、また一拍遅れて流れた。
『晴之も、同じことを書いてきたよ。観測は、帰ってくるまでが観測だ、と』
◇
組合へ向かう駅のホームで、蓮さんに電話をかけた。
まだ、その名前を呼ぶたびに、喉の奥が少し熱い。
話を聞き終えると、蓮さんは、しばらく黙った。
「……灯台、ですか」
「はい。灯台守の方でした」
「父と、同じだ」
電話の向こうで、小さく笑う気配がした。
「十四年、毎晩、灯室に上がって。誰も読まない日誌を付けて。……会ってみたいな」
◇
組合の四階の放送部屋で、隊長と熊谷さんに同じ話をした。
メールを転送してくれたのは隊長だ。
隊長は、英語の件名だけ見て、すぐ私に回したのだという。
「岬の近くに、ダンジョンはないんだな」
「ありません。いちばん近いダンジョンでも、海の向こうです」
熊谷さんは、杖の先で床を軽く叩いた。
「富士の足もとにも、ダンジョンはなかった」
「はい」
「じいさんは、ダンジョンのない場所ばかり、疑ってたわけだ」
ホワイトボードの煙突の地図の横に、私は、世界地図を一枚貼った。
富士山に、赤い丸を一つ。
ニューファンドランドの岬に、まだ鉛筆の、薄い丸を一つ。
地図の上では、二つの丸は、ほとんど地球の反対側にある。
「写真を見るまでは、全国版では言いません」
「それでいい。見てねえものは、予報じゃねえ」
◇
その夜の全国版では、岬の話はしなかった。
まだ、一枚の写真も見ていない。
放送を終えて、アパートに帰ると、メールが一通届いていた。
岬は、朝の潮が引いたあとの時刻だ。
添付の写真は、暗かった。
濡れた岩の天井。足もとの、黒い海水の溜まり。
洞窟の奥の、岩の割れ目。
その縁が、白っぽく、かすかに光っていた。
樹海の風穴で見たのと、同じ色。
ダンジョンの、苔の色だった。
メールの本文は、一行だけだった。
『潮が戻る前に、出てきました』
私は、写真を拡大したまま、しばらく動けなかった。
それから、ノートを開いて、一行だけ書いた。
二つ目の、のどです。




