第40話 富士の天気です
次の日の朝、富士吉田の病院の窓から、富士山が見えた。
前線が通ったあとの空は、冷たく澄んでいる。
頭に、雲は一つもかかっていなかった。
水野さんは、ベッドの上で、右の足首に白い包帯を巻いていた。
ひねっただけで、骨は折れていない。
夜のあいだ冷えたので、念のため一晩だけ泊まったのだという。
「ご迷惑を、おかけしました」
水野さんは、ベッドの上で、深く頭を下げた。
「大河さんの背中は、測候所の荷揚げの若い衆より、ずっと頼もしかった」
付き添ってくれた神崎さんが、壁際で小さく笑った。
大河さんに、伝えておきます、と言う。
私は、ベッドの横の椅子に座った。
言いたいことは、昨夜のうちに、たくさん考えてあった。
けれど、口から出たのは、一つだけだった。
「水野さん。観測は、帰ってくるまでが、観測です」
水野さんは、目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
「晴之さんにも、山頂で、同じことを言われました。……やはり、似ていますね」
◇
水野さんは、枕元の紙袋を、私のほうへ押した。
中には、茶色の手帳が、ぎっしり詰まっていた。
私が借りている一冊を足すと、ちょうど十四年分になる。
それから、白い封筒が一通。
表書きは、水野さんの字だった。
雨宮晴之様。
「宛先が、もう無いのは分かっています。でも、カードには、右に振れたら手紙を書いてくれ、とあった。書かないわけには、いかない」
「読んでも、いいですか」
「そのために、渡すんです」
封筒を開けた。
便箋が、一枚だけ入っていた。
『晴之さん。針が右に振れたので、お手紙を書きます。
十四年、針は動きませんでした。毎朝、そう書きました。
あの晩、二十一時九分、右へ。低気圧の朝、四時二分、左へ。九時四十一分、赤い線。
あなたが言っていた、空がまっすぐなところを、初めて見ました。
富士の足もとに、のどがありました。
あなたの孫が、見つけました』
最後の一行のところで、字が、少し滲んで見えた。
私は、便箋を、元のように折った。
「お預かりします。祖父の、青い箱に入れます」
「お願いします。十四年、待たせてしまった」
◇
夜の九時、組合の四階の放送部屋に戻った。
モニターの片側に、甲府の気象台の会議室の窓が開いている。
篠原さんが、背広のまま、少し緊張した顔で座っていた。
「こんばんは。全国のダンジョンの天気です」
「まず、昨日の、富士第零の答え合わせです」
ノートを開く。
「富士第零が大きく吐き始めたのは、四時二分。予報は四時ごろでした。魔素霧が国道を越えたのは、五時三十四分。予報から、四分遅れました」
「寒冷前線が通って、吐くのが止まったのは、九時四十一分。皆さんにはお伝えしていませんでしたが、私はノートに、九時四十五分と書いていました。四分、早かった」
"四分ずつ"
"予報の外のことまで答え合わせしなくていいって"
"いつもの"
「それから、一人、予報の外にいた方がいました。けがは、足首をひねっただけです。昨日の朝、閉鎖の柵の内側で起きたことは、私の予報が届かなかったところです」
篠原さんが、画面の向こうで、口を開いた。
『気象台からも、一つ。昨日の河口湖の気圧の記録と、富士第零の針の記録は、十分ごとに並べて、気象台に残しました。地上の気圧と、地面の下の空の息を、同じ表に書いたのは、たぶん初めてです』
篠原さんは、眼鏡を押し上げた。
『雨宮晴之さんの、山頂の記録の続きとして、残させていただきます』
部屋の後ろで、杖の先が、床を一回叩いた。
熊谷さんだった。
「じいさんの記録の続きか。……十五年かかって、やっと一本の線になったな」
小さな声だったのに、マイクが拾った。
コメント欄に、"熊さんいたのか" と流れた。
私は、祖父の気圧計を、カメラの前に置いた。
針は、てっぺんの真ん中の、赤い線のところで止まっている。
「この赤い線は、祖父が筆で引いたものです。子どものころ、何の線かと聞いたら、空がまっすぐなところ、と言われました」
「昨日、その意味が、やっと分かりました。地上の空と、地面の下の空が、どちらにも傾いていないところです。吸うのでも、吐くのでもない」
「祖父は、地上の空と地面の下の空が、いつか同じ一本の線の上に乗ると、知っていたのかもしれません。だから、気圧計の真ん中に、線を引いたんだと思います」
"じいちゃん……"
"空がまっすぐなところ、か"
"富士の天気、これからも出してくれ"
◇
放送を終えて、組合のビルを出た。
駅までの道を、神崎さんと並んで歩く。
空は、昨日の前線のあとで、よく晴れていた。
ビルの間に、星が三つ、見えた。
「しずくさん。お疲れさまでした」
「……はい」
信号が、赤に変わった。
二人で、横断歩道の手前で止まる。
言うなら、今だと思った。
これは、予報ではない。見たとおりのことを、言うだけだ。
「蓮さん」
神崎さんが、こちらを向いた。
何も言わない。
ただ、少しだけ、目が大きくなった。
「……ずっと、言いかけていました。冷気流の話じゃなくて」
「知っていました」
神崎さんは、真面目な顔で言った。
「何回も言いかけて、そのたびに天気の話にしていました」
「数えていたんですか」
「観測していました」
信号が、青に変わった。
神崎さん、ではなく、蓮さんが、先に一歩を踏み出した。
私は、少し遅れて、その隣に並んだ。
◇
アパートに帰ると、隊長からメールが転送されてきていた。
組合の窓口に、英語で届いたものだという。
差出人は、カナダの、ニューファンドランドの岬の町に住む女性だった。
引退した灯台守の、孫だと書いてある。
『祖父の灯台の、灯室の棚に、赤い線の入った気圧計がありました。裏に、アマミヤさんのカードがあります。祖父は、毎晩、灯台の日誌に針のことを書いていました』
私は、机の前に座り直した。
祖父の気圧計の針は、赤い線の上で、静かに止まっている。
『日誌によると、全国版の言う「あの晩」、針は右へ振れていました。日本の時刻に直すと、二十一時九分です』
二十一時九分。
富士吉田の針と、同じ。
『富士と同じ時刻です。でも、この岬の近くに、ダンジョンはありません』
メールの最後の一行は、原文のまま、短く書かれていた。
There is a cold wind coming out of the sea cave below the lighthouse.
灯台の下の、海の洞窟から、冷たい風が吹いている。
のどは、富士の足もとだけでは、なかった。
↓第4章の番外編「動かず」(水野視点。十四年、針を見続けた人の話)
https://note.com/wise_turtle184/n/n44efee8e3d92?app_launch=false




