第39話 空がまっすぐなところ
駐車場の柵の前に、水野さんの軽自動車が止まっていた。
柵の向こうの森は、腰から下が、白く沈んでいる。
霧は、遊歩道の入口の木々の根元を、ゆっくり右から左へ流れていた。
光っている。
夜明けの灰色の中で、苔の色の川が、音もなく。
私は、もう一度、水野さんに電話をかけた。
三回目の呼び出し音で、つながった。
『……雨宮さん。すみません。さっきは、風の音で、気づきませんでした』
「水野さん。今、どこですか」
『風穴の、くぼみの底です。三時過ぎに、ここへ来ました。閉鎖の柵の横を、すり抜けて。申し訳ない』
声は、落ち着いていた。
電話の向こうで、低い風の音が、ずっと鳴っている。
『霧が出始めたとき、溶岩で、足をひねりました。立てなくはないが、どっちが上なのか、分からない。周りじゅう、白くて、光っていて』
「動かないでください。そこから、絶対に」
『ええ。動きません。針を見ています』
水野さんは、少し笑ったようだった。
『左に、大きく寄っています。四時二分から、ずっとです。全部、書いています』
「どうして、一人で」
『晴之さんに、返事を書くつもりでした』
風の音の中で、水野さんの声だけが、はっきり聞こえた。
『十四年、動かない、としか書けなかった。動いたところを、この目で見てから、書きたかったんです』
◇
公民館から、大河さんと悠真さんが追いついてきた。
美羽さんは、公民館に残って、篠原さんへの記録を送り続けている。
大河さんがロープを肩に掛け、悠真さんが赤い糸の束を握っていた。
「今から入れば、二十分で着く」
「入らないでください」
自分の声が、思ったより大きく出た。
「魔素霧の中で、頭まで沈んだら、方向が分からなくなります。くぼみの底は、霧の出口です。いちばん濃い。頭の上まで、霧で埋まっています」
「でも、水野さんは、その中に」
「水野さんは、座っているから大丈夫なんです。動けば、迷います。神崎さんたちも、同じです」
熊谷さんの言葉を、思い出す。
流れの中に立つな。高いところに上がって、待て。
「くぼみの縁までなら、行けます。縁は高いので、霧は胸まで。頭は、霧の上に出ます。この前の、悠真さんの赤い糸が、まだ木に残っていれば」
「……残ってる。頭の高さに結んだ」
悠真さんが、短く言った。
「縁まで行って、待ってください。くぼみの底から、霧が引くときが来ます」
「いつ」
神崎さんが、私の目を見た。
私は、篠原さんの最後のメールを開いた。
「寒冷前線が通るのは、九時半から十時。河口湖の気圧が、そこで底を打ちます。底を打てば、のどは、吐くのをやめる。次に、吸い始めるまでの、ほんの数分だけ」
川の水源が止まれば、川は、上のほうから干上がっていく。
霧の川も、同じだ。
のどのすぐそばの、くぼみの底から、先に霧が引く。
「その数分で、水野さんを、くぼみの縁まで上げてください。吸い始めたら、霧は全部、のどへ戻ってきます」
「私も、縁まで行きます」
私は、首から下げた祖父の気圧計を、両手で持ち上げた。
「針を見る人が、縁にいないと、合図が出せません」
神崎さんは、何か言いかけて、やめた。
それから、私のヘルメットのあごひもを、黙って締め直した。
◇
八時四十分。
篠原さんの予報と、河口湖の気圧の下がり方を、もう一度ノートの上で重ねた。
前線は、予報どおりに近づいている。
水野さんには、十分ごとに電話をかけた。そのたびに、同じ答えが返ってきた。
『動いていません。針は、左です』
私たちは、柵をくぐった。
赤い糸は、残っていた。
頭の高さの枝に、二十歩ごとに一本。
霧は胸まであった。
足もとは、何も見えない。
溶岩の上の苔を、靴の底で探りながら、糸から糸へ歩いた。
霧の中に沈んだ手が、冷たい。
顔を下げると、頭の芯が、すっと揺れる。
前を歩く大河さんの背中だけを見た。
九時十分、くぼみの縁に着いた。
見下ろすと、くぼみの中は、白い霧で縁まで満ちていた。
底は、まったく見えない。
霧が、くぼみから溢れて、森の床へ流れ出していく。
「水野さん。上にいます。縁にいます」
『ええ。……声が、近い』
電話の向こうの声が、少し震えた。
『雨宮さん。晴之さんは、山頂で、気圧計の真ん中を指して、よく言っていました。ここが、空がまっすぐなところだ、と』
「祖父は、私にも、そう言いました」
『押しても引いてもいない空、という意味だと、私は思っていました。……そんな空は、山頂では、ほとんど見たことがない』
九時三十分。
篠原さんから電話。
『河口湖、雨が上がりました。風向きが、南から西へ変わり始めています』
前線が、近い。
祖父の気圧計の針は、左に寄ったまま、少しずつ、真ん中へ戻ってきていた。
九時三十八分。
風が、ぴたりと止んだ。
『河口湖、気圧、底を打ちました。九時四十一分』
針が、ゆっくり、真ん中へ。
てっぺんの、真ん中の目盛り。
祖父が筆で引いた、赤い短い線の上で。
針が、止まった。
子どものころ、祖父に聞いた。
この線は何、と。
空がまっすぐなところ、と祖父は言った。
吸うのでも、吐くのでもない。
地上の空と、地面の下の空が、どちらにも傾いていない、ほんの数分。
「針が、赤い線に乗りました。今です」
◇
くぼみの底から、霧が引いていった。
水を抜いた器のように、縁のほうから下へ。
白い霧の面が、見る間に下がっていく。
溶岩の斜面が現れた。
穴の口が見えた。
その手前の岩に、水野さんが座っていた。
膝の上に、真鍮の丸い枠。
片手に、茶色の手帳。
大河さんが、ロープを伝って、斜面を駆け下りた。
悠真さんが上でロープを引き、神崎さんが中ほどで受ける。
大河さんが、水野さんを背負った。
一歩。二歩。斜面を上がってくる。
針を見る。
赤い線の上で、まだ止まっている。
九時四十六分。
大河さんの足が、縁の岩にかかった。
神崎さんが、二人を、縁の上まで引き上げた。
九時四十七分。
針が、右へ振れた。
足もとの森から、低い音がした。
森の床を流れていた霧の川が、向きを変えた。
縁を越えて、くぼみの中へ、白い滝のように流れ落ちていく。
穴の口へ。のどの奥へ。
私たちは、縁の上で、それを見ていた。
森じゅうの霧が、吸い込まれていく。
十時を少し過ぎたころには、樹海の床に、白いものは何も残っていなかった。
大河さんの背中で、水野さんが、手帳を開いた。
震える手で、何かを書いて、私に見せた。
九時四十一分、針、赤い線。
空、まっすぐ。




