第38話 呼気の朝
次の日の午後三時、白いワゴンに、灯台の四人と私が乗った。
荷台には、ダンジョンに入るときの装備と、投光器と、組合から借りた魔素計が三つ。
それから、神崎さんの手回しのサイレン。
「地上で、これを積むとはな」
大河さんが、荷台を振り返って言った。
「霧の中で、何が役に立つか分からないから」
神崎さんが、前を見たまま答える。
鏡を、二回見た。
中央道の上の空は、まだ晴れていた。
けれど、西のほうに、薄い巻雲が筋になって流れている。
低気圧の、いちばん先の雲だ。
「あの白い筋が、空の高いところを流れる雲です。低気圧が近づくと、最初に出てくるんです」
「明日の朝には、あれが」
美羽さんが、窓に額をつけて言った。
「雨雲になります。でも、雨は、たいしたことはありません。怖いのは、雨じゃなくて、気圧のほうです」
◇
富士吉田に着いたのは、夕方の六時前だった。
村の公民館に向かう前に、水野さんの家に寄った。
居間の柱の気圧計は、真ん中の赤い線から、少し左に寄っていた。
夕方から、地上の気圧が下がり始めている。
のどは、もう、細く息を吐き始めている。
大きく吐くのは、気圧が急に落ちる、明け方からだ。
「よく見えますよ。この窓からなら、明日の朝も」
水野さんは、座卓の上に、茶色の手帳を開いて置いていた。
今日の日付の下に、もう三行、書いてある。
十五時、針、わずかに左。
十六時、左。
十七時、左、変わらず。
「明日は、ここで、針を見ています。何かあれば、すぐに電話をします」
「お願いします。篠原さんに、十分ごとに送ります」
帰り際、水野さんは、玄関まで杖をついて見送ってくれた。
富士山は、もう暗くて見えなかった。
「雨宮さん」
「はい」
「晴之さんは、山頂で嵐の夜、いつも外へ出て、自分の目で空を見ていました。危ないからやめろと言っても、聞かなかった。見たとおりに書くには、見なきゃならないんだ、と」
水野さんは、玄関の明かりの下で、少し笑った。
「お孫さんも、似ていますね」
そのとき、私は、その言葉の意味を、ちゃんと考えなかった。
◇
夜の九時、村の公民館の和室から、全国版を出した。
美羽さんが、配信用の機材を座卓の上に組んでくれた。
画面の左には、篠原さんから届いたばかりの、河口湖の気圧。
「こんばんは。今夜は、富士山のふもとから、全国のダンジョンの天気をお伝えします」
予報は、昨日の夜から変えなかった。
明け方の四時ごろ、富士第零が大きく吐き始める。
五時半ごろ、霧が国道を越える。
"現地からだ"
"後ろの障子が田舎のばあちゃんちっぽい"
"変えないってことは、自信あるってことか"
自信は、ない。
変える理由が、ないだけだ。
放送を終えると、灯台の四人は、公民館の広間で、寝袋を並べた。
私は、和室の座卓に、祖父の気圧計とノートを置いて、座ったまま目を閉じた。
肩に、何かが掛けられる。
目を開けると、神崎さんの上着だった。
「少しでも、寝てください。四時に起こします」
「……神崎さんは」
「起こす役です」
神崎さんは、和室の入口の柱に背中をつけて、座った。
灯台の上でも、そうしていたのかもしれない、と思った。
◇
三時五十分、スマホが鳴った。
神崎さんが起こすより、篠原さんのほうが早かった。
『河口湖、一時間で三ヘクトパスカル下がりました。ここから、急に落ちます』
「ありがとうございます」
座卓の上の、祖父の気圧計を見た。
公民館から風穴まで、数キロしかない。
針は、もう、はっきり左に寄っていた。
四時二分。
針が、ぐっと左へ振れた。
「篠原さん。富士第零、大きく吐き始めました。四時二分」
『四時二分。記録します』
神崎さんが、灯台の三人を起こしに広間へ走った。
窓の外は、まだ真っ暗だ。
雨が、細かく、窓ガラスを叩き始めていた。
四時半、渡辺さんから電話。
『国道、四時ちょうどに止まりました。遊歩道にも、誰もいません』
五時。
駐車場の端に置いた村の防災カメラの映像を、美羽さんが座卓のパソコンに出した。
カメラは、車の並ぶほうではなく、遊歩道の入口の森を向いている。
暗い画面の下のほうに、白いものが、這い出してきた。
樹海の木々の根元から、ゆっくりと、駐車場のコンクリートの上へ。
かすかに、光っている。
苔と、同じ色だった。
「……出た」
大河さんが、つぶやいた。
霧は、膝の高さから、少しずつ厚くなっていく。
駐車場の白い線が、一本ずつ、見えなくなっていった。
五時三十四分。
国道の通行止めの柵のカメラに、霧が届いた。
誰もいない道路の上を、白い川が、ゆっくり横切っていく。
『国道、霧が越えました』
渡辺さんの声が、少し震えていた。
『誰もいません。止めておいて、よかった』
私は、ノートに時刻を書いた。
予報より、四分遅い。
美羽さんが、座卓の上のカメラを、私に向けた。
赤いランプが点く。
「臨時の、富士第零の天気をお伝えします」
まだ同接が数人だったころの配信で、私は同じように言った。
あのときは、第八層の魔霧だった。
「富士第零は、四時二分から、息を吐いています。魔素霧は、五時三十四分に国道を越えました。通行止めの中で、誰もいません。霧は、これから八時から九時にかけて、いちばん濃くなります。樹海と、西湖と精進湖の湖畔には、近づかないでください」
"ほんとに出た"
"光ってる……"
"止めてなかったらと思うとぞっとする"
コメント欄の流れは、いつもの夜より、ずっと静かだった。
◇
六時。
空が、灰色に明るくなり始めた。
篠原さんに送る、十分ごとの記録に、富士吉田の針も入れたかった。
私は、水野さんに電話をかけた。
呼び出し音が、鳴り続ける。
十回。十五回。
誰も、出ない。
嫌な予感が、首の後ろを、冷たく這い上がってきた。
「神崎さん」
神崎さんは、もう、車の鍵を持っていた。
美羽さんが、座卓のパソコンの前に座り直す。
「十分ごとの記録、わたしが送ります。行ってください」
富士吉田の、坂の上の家。
十五分で着いた。
玄関の鍵は、開いていた。
居間には、誰もいなかった。
座卓の上の茶色の手帳が、無い。
柱を見た。
水野さんの気圧計が掛かっていたところに、日に焼けていない、丸い跡だけが残っていた。
公民館に戻る車の中で、渡辺さんから電話が来た。
『雨宮さん。警察の人から、今、連絡がありました。この前、風穴へ歩いたときの駐車場の、閉鎖の柵の手前に、軽自動車が一台、止まっているそうです』
渡辺さんは、言いにくそうに、言葉を継いだ。
『水野さんの、車です』




