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探索者事務所をクビになった気象予報士ですが、ダンジョンの天気予報配信がなぜか攻略組の命綱になっています  作者: ま
第四章 富士の足もと

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第37話 冷気の川




 八回目の呼び出し音の途中で、電話がつながった。



『……ああ、すみません。車の外にいました』


「水野さん。今、樹海の駐車場ですか」


『ええ。家で針を見ていたら、夜中に左へ寄り始めたので。どうしても、自分の目で見たくなって』



 水野さんの声の後ろで、風の音がしていた。

 地面を這う、低い風の音だ。



「夜中に、お一人で行かないでください。足もとが見えないし、霧は、方向が分からなくなります」


『駐車場から一歩も出ていませんよ。測候所では、もっとひどい夜に、外の百葉箱まで歩いたものです』



 水野さんは、少し笑った。

 それから、静かに言った。



『見たとおりに書くのが、私の仕事でしたから。晴之さんの分も』



 電話を切ったあと、私は、しばらく眠れなかった。

 写真の中の、膝の高さもない、白い霧。

 あの低気圧が来たら、それが、どこまで来るのか。


 時計は、二時半を回っていた。

 日付は、もう変わっている。

 低気圧が通るのは、明後日の未明だ。




◇




 朝の九時、四階の放送部屋のホワイトボードに、大きな地図を貼った。

 樹海と、そのまわりの地形図だ。等高線が、細かく波打っている。


 早瀬さんが、ノートパソコンを地図の横に置いた。

 篠原さんから、気象台の予報の数字が、メールで届いている。



「低気圧の中心は、明後日の明け方、日本海を北東へ抜けます。寒冷前線が富士山のあたりを通るのは、九時半から十時。河口湖の気圧は、前の日の夕方から下がり始めて、明け方の四時ごろから急に落ちる。底を打つのは、前線が通るときです」



 早瀬さんが、篠原さんのメールを読み上げた。

 私は、地図の上に、赤いペンで、富士第零の位置に丸を付けた。



「のどが大きく吐き始めるのは、気圧が急に落ち始める、四時ごろ。吐き続けるのは、気圧が下がっているあいだずっとです。前線が通って、気圧が底を打ったら、吐くのが止まります」


「そのあとは」


「気圧が、一気に上がります。前線の後ろの、冷たくて重い空気が来るので。そうしたら、のどは、吸い返します」



 早瀬さんが、うなずいた。



「問題は、吐いた霧がどこへ行くか、ですね」


「はい。地面の下の空は、冷たいんです。風穴の中は二度でした。冷たい空気は重いので、地面にへばりついて、低いほうへ流れます。水みたいに」



 冷気流。

 山の斜面を、夜のあいだに冷たい空気が流れ下りて、谷や盆地に溜まる。

 地上の予報士なら、誰でも知っている現象だ。


 早瀬さんが、地形図の等高線を升目に置き換えていく。

 富士山の裾は、樹海のところで、北西へゆるく傾いている。

 その先にあるのは、西湖と、精進湖。



「流れる先は、二つの湖の方です。途中で、国道を二か所で横切る」



 画面の上で、青い色が、川の形に伸びていった。

 樹海の床を這って、根の網の間を抜けて、湖のほうへ。



「深さは」


「吐く量から計算すると、いちばん濃いときで、大人の腰から胸のあたりまで」



 腰から、胸。

 樹海の中で、それだけの霧に足を取られたら、自分の足もとも見えない。




◇




「霧の川か」



 部屋の後ろの椅子で、熊谷さんが杖に顎を乗せていた。

 今朝、組合に来るなり、この部屋に座り込んで動かない。



「川なら、川と同じだ。流れの中に立つな。流れに沿って歩くな。高いところに上がって、待て」


「流れに沿って歩くと、いけませんか」


「低いほうへ、低いほうへ連れていかれる。霧の川の行き着く先は、いちばん濃いところだ」



 熊谷さんは、地図の湖を、杖の先で指した。



「それから、磁石は狂わねえが、人は狂う。ダンジョンで何度も言ったな。樹海も同じだ。霧の中なら、なおさらだろうよ」



 熊谷さんに、ダンジョンで何度も言われた言葉だった。

 樹海で水野さんに同じことを言われたとき、私は、この声を思い出していた。



「水野さんにも、同じことを言われました」


「潜るにしろ登るにしろ、長くいる奴は、みんな同じことを言うようになるんだよ」



 熊谷さんは、つまらなそうに言った。

 水野さんも、山に十年いれば同じことを言うようになる、と笑っていた。


 私は、地図の余白に書き留めた。

 流れの中に立たない。高いところで待つ。




◇




 夜の九時。



「こんばんは。全国のダンジョンの天気です」


「今夜は、最初に、富士第零の予報をお伝えします。これは、甲府地方気象台の地上の予報と、二つで一つの予報です」



 画面の左に、気象台の予報を出した。

 低気圧と寒冷前線。河口湖の気圧の下がり方。発表は気象台、と小さく添えてある。

 右に、私の予報。



「明後日の、明け方四時ごろから、富士第零は、地面の下の空を、大きく吐き始めます。吐き出された魔素霧は、冷たく重いので、樹海の床を這って、西湖と精進湖のほうへ流れます」


「霧が国道を越えるのは、五時半ごろ。いちばん濃いのは、八時から九時。深さは、腰から胸。苔と同じ色に、かすかに光ります。光っていても、前は見えません」


「寒冷前線が通る、十時前に、吐くのは止まります。そのあと、富士第零は吸い返して、霧は風穴へ戻っていきます」



 "地上で魔素霧って、ほんとに出るのか"

 "気象台と組合が並んでるの初めて見た"

 "二つで一つの予報、か"

 "樹海の近くの者だけど、明後日は家にいる"



「外れたら、私が、ここで謝ります」



 その言葉のあとで、コメント欄に、短い一行が流れた。


 "いつもの"




◇




 放送が終わって十分後、渡辺さんから電話が来た。



『村長が、決めました。遊歩道は、明日の夜から閉めます。国道は、警察と国が、明後日の四時から一部を通行止めにしてくれる。西湖の湖畔の道も、村で止めます』


「ありがとうございます」


『観光協会も、最後は、何も言いませんでした。全国版を、みんなで見てたんです』



 電話を切って、放送部屋を出た。

 廊下の窓の前で、神崎さんが待っていた。



「明日の夕方、富士吉田まで送ります。灯台も、前の晩から向こうに入ります」


「はい。ありがとうございます、れ……」



 口が、勝手に止まった。

 神崎さんが、首をかしげる。



「れ?」


「……冷気流の、話をしようと思って」


「今ですか」


「今です」



 神崎さんは、何も言わずに、少し笑った。

 私は、廊下の窓に映った自分の顔から、目をそらした。


 駅へ向かう途中で、水野さんに電話をかけた。

 今度は、一回で出た。



「明後日は、どうか、お家にいてください」


『ええ。家で、針を見ています』



 水野さんは、穏やかに言った。

 その声が、少しだけ、遠かった。




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