第36話 二つの予報
次の日の十時、篠原さんは、組合の三階の会議室に来た。
甲府から、朝いちばんの特急に乗ってきたらしい。
三十代の後半くらいの、眼鏡をかけた人だった。
灰色の背広の脇に、分厚い紙のファイルを抱えている。
「昨夜は、失礼な言い方をしました」
篠原さんは、座る前に頭を下げた。
「でも、言ったことは、取り消せません。気象業務法では、予報業務の許可を受けた事業者でなければ、地上の天気の予報を、世の中に向けて出すことはできません。組合が許可を持っているのは、ダンジョンの中の天気だけです」
「はい。知っています」
「それから、警報は、気象庁にしか出せない。魔素霧がどれだけ危なくても、雨宮さんが『警報』と言えば、それは法律の外の言葉になります」
私は、うなずいた。
予報士の試験で、何度も書いた条文だった。
隣の席で、早瀬さんがノートパソコンを開いている。
隊長は、壁際で腕を組んでいた。
「私も、地上の天気を予報したいわけではありません」
篠原さんの目が、少しだけ動いた。
「富士第零は、のどです。地上の気圧が下がると、息を吐きます。だから、富士第零の天気を予報するには、地上の気圧が、いつ、どれだけ下がるかが分からないと、何も言えないんです」
「つまり」
「気圧の予報を、私が出したいんじゃない。気象台の予報を、使わせていただきたいんです」
◇
篠原さんは、しばらく黙っていた。
それから、抱えていたファイルを、机の上に開いた。
黄ばんだ、古い論文の写しだった。
表題の下に、著者の名前がある。
雨宮晴之。
「富士山頂の、冬の気圧の記録です。気象台に入ったとき、研修で読まされました。山頂で十年、一日も欠かさずに付けた記録から、低気圧が近づくときの気圧の下がり方を調べたものです」
「祖父の……」
「全国版で、御殿場と、山頂の測候所の話を聞いて、思い出しました。昨夜、棚から探してきたんです」
篠原さんは、眼鏡を指で押し上げた。
ページをめくると、細かい数字の表が続いていた。
低気圧が近づくとき、山頂の気圧は、ふもとより何時間か早く下がり始める。
その差が、低気圧の強さで、どう変わるか。
「山頂の気圧は、ふもとより先に動く。十五年前の晩も、そうでした」
私が言うと、篠原さんは、少し目を見開いた。
「山頂が先に上がった、という話ですか」
「水野さんが、見ていました。祖父の後輩です」
「……そうでしたか」
篠原さんは、論文の表の上に、指を置いた。
「この人の孫が、法律の外で、気圧の話をしている。それが、どうしても引っかかった。だから電話をしました」
「法律の外に、いるつもりはありません」
「ええ。今、分かりました」
篠原さんは、論文の上に、白い紙を一枚置いた。
ペンで、線を一本引く。
昨日、私が村役場のホワイトボードに引いたのと、同じ縦の線だった。
「左が、気象台です。低気圧と寒冷前線がいつ通るか。河口湖で、気圧がいつ、どれだけ下がって、いつ底を打つか。これは、私たちが出します。いつもどおりの、地上の予報として」
「右が、私です」
「ええ。富士第零が、いつ息を吐くか。吐いたものが、どこへ流れていくか。それは、富士第零の天気です。組合の予報です」
早瀬さんが、キーボードを叩く手を止めた。
「気象台の気圧の予報を、そのまま、のどの計算に入れられます。そうすれば、流れる先も出せる」
「二つの予報、ですね」
隊長が、壁際で言った。
「あの日のソラミルと同じだ。今度は、役所が二つだけど」
篠原さんが、初めて小さく笑った。
「一つだけ、お願いがあります」
帰り際、篠原さんは、ファイルを抱え直して言った。
「当日、河口湖の気圧は、十分ごとに、私が直接お知らせします。雨宮さんも、のどの針の動きを、そのまま私に教えてください。山頂の記録の続きを、気象台にも付けさせてほしい」
「はい。見たとおりに、お送りします」
◇
お昼過ぎ、渡辺さんから電話があった。
声が、昨日より疲れている。
『村長は、遊歩道を閉めるのは、いいと言ってくれました。でも、国道は、村の一存では止められない。国と、警察に頼むことになります。それに、観光協会からも、電話がたくさん来ていて』
「何と言われていますか」
『地上に魔素が出るなんて、聞いたことがない。風穴の風なんか、何十年も吹いてる。外れたら、誰が責任を取るのかって』
私は、少しだけ目を閉じた。
黒川さんの声を、思い出した。
予報は、数字にならない。
けれど、渡辺さんは、黒川さんではない。
村の人たちを守ろうとして、困っているだけだ。
「外れたら、私が、全国版で謝ります。でも、外れたときに謝れるのは、予報を出した人だけです。出さなかった予報は、謝ることもできません」
『……それ、村長にも言っていいですか』
「はい。そのまま、どうぞ」
電話の向こうで、ペンを走らせる音がした。
『明日の全国版で、雨宮さんの予報が出たら、それを見て、村長が決めると言っています。それで、いいですか』
「十分です。明日の全国版までに、流れる先を計算します」
◇
夜の全国版を終えて、アパートに帰った。
机の上の祖父の気圧計は、真ん中の赤い線のところで、静かに止まっている。
この針は、地上の気圧には答えない。
答えるのは、のどのそばにある針だけだ。
スマホで、河口湖の観測の数字を開いた。
今夜は、弱い気圧の谷が、関東から富士山のあたりを通っている。
三日後の低気圧に比べれば、ほんの小さな谷だ。
それでも、気圧は、夕方からゆっくり下がっていた。
夜中の二時過ぎ、枕元のスマホが震えた。
水野さんからだった。
メッセージは無く、写真が一枚だけ。
暗い。
駐車場のコンクリートの端と、その向こうの、樹海の黒い木々。
木々の根元に、白いものが、薄く這っていた。
霧だった。
膝の高さもない、ごく薄い霧。
それが、ヘッドライトも何もない暗がりの中で、ほんのかすかに、光っている。
苔と、同じ色だった。
写真の下に、一行だけ、届いた。
『小さな谷でも、これだけ出ます』
私は、布団の上で、体を起こした。
小さな谷の息でも、地面の下の空は、樹海の床まで出てくる。
あの低気圧は、この十倍以上だ。
それから、もう一つのことに気づいて、指が冷たくなった。
夜中の二時に、樹海の駐車場にいるのは、誰なのか。
私は、水野さんに電話をかけた。
呼び出し音が、七回鳴った。




