第35話 のど
風穴を出ると、外の光が、目に痛いほど白かった。
美羽さんが、カメラの画面を水野さんに見せる。
割れ目の縁の、白い点々。
ライトを消した暗がりの中で、かすかに光る苔。
水野さんは、しばらく何も言わなかった。
杖を握る手の甲に、血管が浮いている。
「……晴之さんに、見せたかった」
それだけ言って、水野さんは、画面から目を離した。
くぼみの底の穴を、もう一度見下ろす。
山の息は、今は、ゆっくり外へ吐かれていた。
◇
お昼過ぎ、村役場の小さな会議室を借りた。
長机の上に、水野さんの十四年分の手帳と、二台の気圧計を並べる。
渡辺さんと小林さん、灯台の四人。隊長は、スピーカーの電話の向こうにいた。
「分かったことと、分からないことを、分けてお話しします」
私は、ホワイトボードに線を一本引いた。
左に、分かったこと。右に、分からないこと。
「まず、あの風穴の奥の割れ目は、地面の下の空とつながっています。魔素があって、ダンジョンの苔が生えていて、新しい層と同じ匂いがしました」
「十五年前の晩、山頂の気圧がいちばん先に上がりました。あの晩、水野さんの針は、全国の地図より十一分早く振れました。ナイロビの針は、動きませんでした。ダンジョンから遠い針は、動かないんです」
「つまり、針が動いたのは、富士吉田の近くに、あの割れ目があったから」
渡辺さんが、手帳に書きながら言った。
「はい。十五年前、世界中のダンジョンより先に、空を吸い込み始めたのは、ここだと思います。私は、ここを、のどと呼びたいと思います」
空の、のど。
地上の空が、地面の下の空へ流れ込む、入口。
「それから、のどは、地上の気圧で息をします。上がれば吸って、下がれば吐く。ダンジョンの中の空は、地上の気圧とは関係なく動くのに、ここだけは違う。地上と、じかにつながっているからです」
右側に、書く。
なぜ、十四年閉じていたのか。なぜ、あの晩から開いたままなのか。
「ここは、分かりません」
隊長の電話から、小さく息を吐く音が聞こえた。
いつもの、と言いたいのだと思う。
◇
私は、スマホで天気図を開いて、プロジェクターにつないだ。
「ここからが、今日いちばん、お話ししたいことです」
大陸の上に、小さな低気圧が一つある。
今はまだ、目立たない。
けれど、上空の寒気と、南の暖かい湿った空気のあいだで、これから急に発達しながら、日本海を東へ進む。
「この低気圧が日本海を通るのは、四日後の未明です。富士山のまわりの気圧は、その前の晩から、一日で二十ヘクトパスカル近く下がると思います」
「二十……」
水野さんが、低くつぶやいた。
測候所にいた人には、それがどれくらいの数字か分かる。
「ふだん、のどを動かしているのは、一日二回の、一か二ヘクトパスカルの上がり下がりです。それで、今朝、あれだけの風が出入りしていました」
「その十倍以上が、一晩で下がったら」
神崎さんが、言葉を継いだ。
私は、うなずいた。
「のどは、大きく吐きます。吐き出されるのは、地面の下の空です。魔素を含んだ、冷たい空気が、樹海に出てくる」
会議室が、静かになった。
「地上で、魔素霧が出る、ってことですか」
大河さんが言った。
魔素霧は、視界と方向感覚を奪う。
ダンジョンの中でしか、誰も見たことがない。
「どこまで広がるかは、まだ分かりません。明後日までに、計算して、予報を出します」
渡辺さんの顔が、こわばった。
「四日後の、朝……。遊歩道を歩く人も、湖で朝早くから釣りをする人もいるんです」
電話の向こうで、隊長が言った。
『組合は、ダンジョンの外には口を出せない。だから、あの穴を、ダンジョンにする』
「え」
『本部に話を通した。魔素があって、苔があって、地面の下の空につながっている。登録の条件は満たしてる。森林管理署さんが、柵を立てるのを許してくれればね』
小林さんが、板の上の地図を、ゆっくり机に置いた。
「国有林の、立ち入り禁止の場所です。柵が一つ増えても、誰も困りません」
『決まりだ。名前は、富士第零。一層より上にある層だから、零だそうだ』
富士第零。
地上と地面の下の、ちょうど境目の、層。
『これで、あんたの予報の中に入る。雨宮さん』
会議室を出るとき、私は、預かっていた水野さんの気圧計を返した。
「これは、居間の柱に戻してください。富士吉田の針が見ていてくれないと、のどの息が、私には分かりません」
水野さんは、両手で受け取って、うなずいた。
◇
夜の九時。
放送部屋に戻った私の前には、ノートと、祖父の気圧計があった。
放送の前に、水野さんに電話をした。
名前を出してもいいかと聞くと、水野さんは、少しも迷わなかった。
『晴之さんの一台を、十四年見ていた者として、出してください』
「こんばんは。全国のダンジョンの天気です」
「今夜は、天気の前に、日本の一台のお話をさせてください」
私は、水野さんから一冊だけ借りてきた手帳を、カメラの前に開いた。
針、動かず。針、動かず。
「富士吉田の水野さんは、祖父の気圧計を、十四年、毎朝見てくださっていました。近くにダンジョンのない場所で、針が動かないことを確かめるための一台です」
"動かないための一台"
"ケニアと同じ役か"
"十四年毎朝……"
「その針が、全国の地図より十一分早く、右に振れました」
コメント欄の流れが、一瞬、止まる。
「今日、樹海の国有林の風穴の奥で、地面の下の空とつながる割れ目を見つけました。組合は今日、そこを富士第零として登録しました。ダンジョンの外に見えますが、空の、のどです」
「四日後の未明、強い低気圧が通ります。富士第零は、そのとき、大きく息を吐くと考えています。詳しい予報は、明後日の全国版でお伝えします」
"地上に魔素が出るってこと?"
"樹海の近くに住んでるんだが"
"お姉さん、それ地上の天気予報じゃないのか"
最後のコメントを、私は、一度だけ目で追った。
◇
放送を終えて、組合のビルを出たところで、スマホが鳴った。
知らない番号。市外局番は、甲府だった。
『夜分に失礼します。甲府地方気象台の、篠原と申します。予報官をしています』
落ち着いた、男の人の声だった。
テレビの天気予報より、少しだけ硬い。
『今夜の全国版を、拝見しました。富士第零の件は、組合の判断ですから、私たちが口を挟むことではありません』
そこで、篠原さんは、言葉を切った。
『ただ、低気圧が通って、樹海の気圧がどう下がるか。それは、地上の天気です。雨宮さん。あなたは、地上の天気を、予報できないはずです』




