第34話 風穴
朝の八時、樹海の脇の駐車場に、車が四台並んだ。
灯台の白いワゴンと、水野さんの軽自動車と、村役場の車と、森林管理署の車。
「村の、渡辺です。観光と防災の係をやってます」
渡辺さんは、私と同じくらいの年の、日に焼けた男の人だった。
森林管理署の小林さんは、五十代くらいの女性で、地図の入った板を抱えている。
「国有林の、遊歩道の外です。ふだんは、誰も入れていません。今日は、私が一緒に歩きます」
「よろしくお願いします。見るだけです。何も持ち帰りません」
灯台の四人は、ダンジョンに入るときと同じ装備だった。
ヘルメットに、ヘッドライト。神崎さんの背中には、ロープの束。
大河さんが、駐車場を見回して首をかしげる。
「地上で、この格好すんの、初めてだな」
「……落ち着かない」
悠真さんが、珍しく自分から言った。
美羽さんは、今日は配信をしない。記録のためのカメラだけを、胸に付けている。
組合から借りた、持ち運び用の魔素計を、私が首から下げた。
地上で、この針が動いたことは、一度もない。
◇
遊歩道から外れると、足もとが急に悪くなった。
黒い溶岩の上に、緑の苔が厚く積もっている。
踏むと、ふかふかと沈んで、その下で石がぐらつく。
ダンジョンの苔とは違う。
光らない、地上の、ただの苔だ。
木は、どれも根を地面に潜らせられずに、溶岩の上を這っていた。
根と根が絡み合って、網のように地面を覆っている。
「方向が、分からなくなるでしょう」
先頭を歩く水野さんが、振り返らずに言った。
杖で、根の間を確かめながら進んでいく。
「どっちを向いても、同じ景色ですからね。磁石は狂いませんが、人の頭のほうが狂う」
「ダンジョンでも、同じことを教わりました。十四年潜っている人に」
水野さんは、少し笑った。
「山に十年いれば、みんな同じことを言うようになりますよ」
悠真さんが、通ってきた木の枝に、赤い糸を結んでいく。
帰り道の印だ。
ダンジョンの中で、いつもそうしているように。
二十分ほど歩いて、水野さんが止まった。
「ここです。昔、晴之さんと、二人で風の温度を測りに来ました。若いころの、ただの遊びです」
溶岩の地面が、そこだけ、大きく落ちくぼんでいた。
くぼみの底の岩の間に、黒い穴が口を開けている。
大人が身をかがめて、やっと入れるくらいの大きさだった。
穴の前に立っただけで、分かった。
冷たい風が、穴の奥から、ゆっくり吹き出している。
首から下げた魔素計を見た。
針が、ほんの少しだけ、ゼロから浮いていた。
「……動いてる」
大河さんが、私の手もとを覗き込んで言った。
「地上で、魔素計が」
入口の外で、水野さんが穴を見下ろしていた。
杖を握る手に、力が入っている。
「晴之さんと来たときは、温度計を一本、紐で吊るして下ろしただけでした。風の温度は、夏でも冬でも、ほとんど変わらなかった」
「祖父は、何か言っていましたか」
「山の息は、空の息より正直だ、と」
水野さんは、穴の奥の暗がりを見たまま言った。
「空は、雲や風で顔を変える。でも、山の息は、気圧が上がれば吸って、下がれば吐く。それしかしない。だから、嘘がつけない」
祖父らしい言い方だった。
空を相手に、何十年も、嘘のない数字だけを書いてきた人の。
◇
神崎さんが先に入り、私が続いた。
水野さんと渡辺さんと小林さんは、入口の外で待つ。
中は、溶岩のトンネルだった。
天井が低い。ヘルメットが、何度も岩にこすれる。
壁は、溶けた岩が垂れたまま固まって、つららのように尖っていた。
床が、白く光った。
ヘッドライトに照らされて、氷が張っている。
「滑ります。足もと、気をつけて」
神崎さんが、後ろへ手を差し出した。
私は、その手を借りた。
ダンジョンの中なら、借りなかったと思う。
大河さんが、壁に温度計を当てた。
「二度。……地上の、真っ昼間なのにな」
「外の空気が、ここまで入ってこないんです。冷たい空気は重いので、一度溜まると、出ていかない」
私は、自分の声が、少しだけ天気予報の声に戻っているのに気づいた。
知らない場所では、知っている言葉にしがみつきたくなる。
奥へ進むほど、魔素計の針が、少しずつ上がっていく。
鼻の奥に、冷たい匂いがした。
海の匂い。
それから、かすかな、温泉の匂い。
「雨宮さん、この匂い」
美羽さんが、小さな声で言った。
「新宿第一の、新しい層と同じです」
私は、うなずいた。
声にすると、何かが決まってしまう気がした。
◇
五十メートルほど進んだところで、トンネルは行き止まりになった。
岩の壁。その足もとの床に、手のひらほどの幅の割れ目が、横に走っている。
風は、そこから出入りしていた。
割れ目の縁に、ヘッドライトを向ける。
それから、ライトを消した。
真っ暗な中に、白いものが、かすかに浮かんでいた。
割れ目の縁に沿って、細く、点々と。
苔だった。
ダンジョンの苔が、地上の洞窟の中で、光っている。
「……こんな所に」
神崎さんの声が、少しかすれていた。
十五年、誰も、ここのライトを消さなかったのだ。
美羽さんが、胸のカメラの向きを、そっと割れ目に合わせた。
大河さんは、息を止めているみたいに動かない。
靴の底から、氷の冷たさが、じんと上がってくる。
悠真さんが、割れ目の上に、赤い糸を一本垂らした。
糸の先が、ゆっくり、割れ目の奥のほうへなびいていく。
「……吸ってる」
腕時計を見る。九時五十分。
私は、布の袋から祖父の気圧計を出して、氷の上に膝をついた。
針が、右に寄っていた。
居間で見たときより、ずっと大きく。
地上の気圧は、十時に向かって、いちばん高くなろうとしている。
だから、ここは吸う。
十時。
糸が、まっすぐ垂れた。
針が、ゆっくり真ん中へ戻ってくる。
十時五分。
糸の先が、今度は、こちらへなびき始めた。
割れ目から、海と温泉の匂いの風が、私の頬を撫でていく。
誰も、何も言わなかった。
ヘッドライトを消したままの暗がりで、苔の光だけが、息に合わせて、少し明るくなった気がした。
十五年前、世界中のダンジョンより先に、空を吸い込み始めた場所。
地上の空と、地面の下の空が、ここでつながっている。
「ここが、のどです」
祖父の気圧計を抱えたまま、私は言った。




