第42話 二つののど
次の日の朝、組合のロビーで、灯台の四人と行き合った。
ゆうべ、洞窟の写真を、蓮さんにだけ送っておいた。
「眠れましたか」
「二時間くらいは」
横から、美羽さんが口を挟んだ。
「……雨宮さんの二時間は、だいたい一時間です」
それから、私と蓮さんの顔を見比べて、にっこり笑った。
「今の、蓮さんの言い方。前と、ちょっと違いましたね」
大河さんが、わざとらしく咳をした。
悠真さんは、何も言わずに、自動販売機のほうを見ていた。
蓮さんは、耳の先を赤くしたまま、エレベーターのボタンを押した。
私は、気温のせいにする言い訳を、今朝は思いつかなかった。
◇
放送部屋のホワイトボードには、世界地図が貼られたままだった。
岬の鉛筆の丸を、私は、赤いペンでなぞり直した。
早瀬さんは、灰色のパーカーの袖をまくって、ノートパソコンを二台並べていた。
片方には、篠原さんから届いた記録。
河口湖の気圧と、富士第零の針を、十分ごとに並べた表だ。
「もう片方は、岬の気圧です」
灯台の横には、カナダの国の自動の観測所がある。
その数字は、誰でも見られる。
ショーンさんが十五年前に手で書き写したのと、同じ場所の気圧だ。
「それから、世界のダンジョンの針。ヨウンナさんと、マルティンさんと、ルシアさんの、観測版の記録です」
早瀬さんは、三つの表を一枚のグラフに重ねていった。
熊谷さんは、杖に両手を乗せて、黙って画面を見ている。
画面の隅には、小さな窓が一つ開いていた。
岬の灯室の、棚の上の気圧計だ。
モーラさんが、ゆうべのうちに古いスマホを棚に立てて、針だけを映すようにしてくれた。
ショーンさんは、インターネットというものを、あまり信用していないらしい。
それでも、カメラの前の埃だけは、自分で拭いてくれたという。
針は、赤い線の少し横で、ごく小さく震えていた。
◇
最初に重ねたのは、富士と岬の気圧だった。
富士の気圧から、岬の気圧を引く。
その差を、一本の線にする。
線は、日によって上がったり下がったりした。
富士に高気圧が来れば上がり、岬に高気圧が来れば下がる。
二つの土地の天気は、何の関係もなく、勝手に動いている。
その下に、世界のダンジョンの針を並べた。
「……雨宮さん」
早瀬さんの声が、少しだけ高くなった。
針の揺れが、差の線と、同じ形をしていた。
差が大きい日ほど、アイスランドでも、スイスでも、チリでも、針は左へ寄っている。
差が小さい日は、赤い線のまわりで、ほとんど動かない。
「左は、流れが強まるほうです」
私は、自分の声が落ち着いているかを確かめながら言った。
「ダンジョンの中の風が、強かった日です」
◇
いちばん大きく線が動いたのは、富士第零が大きく吐いた朝だった。
あの朝、富士は低気圧の真下にいた。
そして、岬は高気圧の中にいた。
ショーンさんの日誌にも、その日は「晴れ、風弱し」と書いてある。
「岬のほうが、ずっと気圧が高かった。だから、岬が吸って、富士が吐いた」
「押されたんだな、岬から」
熊谷さんが、初めて口を開いた。
杖の先で、地図の二つの丸のあいだを、ゆっくりなぞる。
「古い坑道ってのはな、口が一つじゃ、風が通らねえ。どれだけ外の天気が変わっても、中の空気は動かねえ」
「はい」
「口を二つ開けると、通る。片方の口の外が高いと、もう片方へ抜ける。坑夫は、それで息をしてた」
部屋の後ろのドアが開いて、隊長が入ってきた。
話の途中から聞いていたらしい。腕を組んで、世界地図を見上げる。
「岬は、組合の手の届く場所じゃない」
「はい。カナダです」
「富士第零のときみたいに、柵を立てることも、登録することもできない。あんたの予報が、向こうで何かの役に立つとしても」
「向こうの予報官と、組むしかありません」
隊長は、短くうなずいた。
それから、少しだけ口の端を上げた。
「篠原さんのときと、同じだな」
◇
地面の下の空は、一つの長い空だ。
世界中のダンジョンは、その空の、途中の部屋だ。
そして、地上への口が、二つある。
富士の足もとの風穴と、岬の下の海の洞窟。
それぞれが、自分の土地の気圧で息をしている。
二つの口の気圧の差が、地面の下の空の、風になる。
「十四年、針が右に振れなかったのは」
「口が閉じてたから、だな」
「はい。たぶん、二つとも」
あの晩、二十一時九分に、二つの口が同じ分に開いた。
だから、富士吉田の針と、岬の針が、同じ時刻に右へ振れた。
なぜ閉じていたのか。なぜ、あの晩に開いたのか。
それは、まだ、何も分からない。
昼休みに、富士吉田の水野さんへ電話をかけた。
足首の包帯は、まだ取れていないという。
居間の柱の針を、毎朝、椅子に座ったまま見ているそうだ。
岬の灯台守の話をすると、水野さんは、長いあいだ黙っていた。
「……晴之さんは、私には、富士の足もとのことしか書きませんでした」
「はい」
「でも、よく似た手紙を、海の向こうにも書いていたんですね。疑うための一台、と」
受話器の向こうで、小さく息を吐く音がした。
「あの人は、二つ目を、知っていたのかもしれません」
◇
「全国版で、言いますか」
早瀬さんに聞かれて、私は首を横に振った。
「まだ、三週間分です。たまたま形が似ているだけかもしれません」
「でも、富士第零の朝は、ぴったり合っています」
「一回、ぴったり合っただけです」
熊谷さんが、鼻で小さく笑った。
「じいさんの口癖だな。一回じゃ、予報にならねえ」
「はい」
「なら、次を見ればいい。差が大きくなる日が来たら、そのとき、針がどう動くか」
早瀬さんが、三台目の画面を開いた。
世界の数値予報の、何日か先までの天気図だ。
日本の上に、大きな高気圧が張り出してくる。
同じ日、大西洋の西で、低気圧が渦を巻きながら北へ上がっていく。
その渦の行き先は、ニューファンドランドの岬だった。
早瀬さんが、二つの気圧の差を計算して、線の先に足した。
線は、グラフの枠から、はみ出した。
「五日後です」
早瀬さんの声が、かすれていた。
「あの晩から、いちばん大きな差になります」




