第31話 十一分
電車が、トンネルを抜けた。
窓の外に、また街の明かりが流れ始める。
「水野さん。祖父の地上のノートに、あの晩のことが書いてあります。『富士の上でも同じだと、昔の同僚から電話』と」
「それは、私です」
水野さんは、すぐに答えた。
「十五年前、私はもう富士吉田の家にいました。夜、パソコンで、山頂の自動観測の気圧を見ていたんです。習い性でね。それが、急に上がり始めた。河口湖より、御殿場より、山頂のほうが先でした」
「山頂が、いちばん先に」
「ええ。それで晴之さんに電話をしたら、御殿場の針も上がっていると。二人とも、高気圧なんかどこにもないのに、と言い合いました」
祖父のノートの字を思い出す。
空が、地面の下へ押し込まれていくようだ。
あの晩、祖父は一人で空を見ていたのではなかった。
電話の向こうに、同じ空を見ている人がいた。
◇
「次の年の春に、晴之さんから小包が届きました。気圧計と、英語のカードと、手紙が一枚」
「ほかの五か国にも、同じものを送っています。控えが、母の家に残っていました」
「全国版で、見ました。私だけじゃなかったんですね」
水野さんの声が、少しだけ笑った。
「手紙に、毎朝針を見てくれと書いてありました。だから毎朝、ノートに書いたんです。『針、動かず』。十四年」
「十四年、毎朝……」
「動かないものを、動かないと書くだけです。晴之さんなら、そうしたでしょう」
電車が駅に着いて、人が乗り降りする。
私は、ドアの横で手すりを握り直した。
「あのカードには、右に振れたら手紙を書いてくれと、ありましたよね」
「ええ。でも、針は一度も動かなかった。だから、一度も書かなかった。そのうちに、晴之さんが亡くなったと聞きました。私は足を悪くして入院していて、葬式にも行けなかった」
水野さんは、少し黙った。
「書く理由がないまま、六年です。そうしたら、あの晩に、動いた。全国の地図が揺れ始めたのは、九時二十分過ぎでしたね。うちの針は、九時九分です」
「この前の、新しい層の吸い込みのときは」
「十三時四十一分。そちらの針より、やはり十一分早い」
二回とも、十一分。
偶然で、同じ数字は二度続かない。
「水野さん。一度、そちらに伺ってもいいですか。針を、自分の目で見たいんです」
「どうぞ。何もない家ですが、富士山だけは、よく見えます」
電話を切ると、降りる駅を一つ過ぎていた。
反対側のホームへ渡って、各駅停車を待つ。
夜の空は、屋上で見たときと同じように、晴れていた。
それでも、西の低いところは、街の明かりで白く濁っている。
私は、そのあたりを見ていた。
晴れた朝なら、東京からも富士山は見える。
でも、夜の街の明かりの向こうに、見えるはずもない。
十一分。
空気が地面の下へ吸い込まれ始めたのは、東京でも、レイキャビクでもなく、富士山の近くだった。
それが本当なら、十五年前の晩も、そうだったのかもしれない。
祖父は、山頂の気圧がいちばん早く上がったと、水野さんの電話で知った。
それなのに、ノートには何も書いていない。
書けなかったのか、書かなかったのか。
各駅停車が、ホームに入ってきた。
窓に映った自分の顔は、屋上にいたときより、ずっと予報士の顔に戻っていた。
◇
次の日の朝、組合のロビーで、自動販売機の前に神崎さんがいた。
湿布は、まだ腕に貼ってある。
「おはようございます、しずくさん」
缶のお茶を、取り落としそうになった。
昨日の屋上のことを、急に全部思い出す。
「お、おはようございます。神崎さん」
「……顔、赤いですよ」
「気温のせいです」
「ロビーは、二十二度です」
神崎さんは、壁の温度計を見て、真面目な顔で言った。
私は、天気予報の声を作り直してから、昨日の電話のことを話した。
十五年前、山頂の気圧がいちばん先に上がったこと。
十四年、動かなかった針。
その針が、二回とも、十一分早く振れたこと。
「明日、富士吉田に行こうと思います」
「送ります。灯台は、明日は休みです」
神崎さんは、迷わずに言った。
腕の湿布のことを言いかけて、やめた。
言っても、たぶん、送ると言う。
◇
四階の放送部屋で、隊長と熊谷さんと、早瀬さんにも話した。
水野さんの名前は、まだ全国版では出さないと決めて。
「十一分か」
熊谷さんが、杖の先で床を叩いた。
「近くにダンジョンがねえのに、針が動いた。しかも、どこよりも先に。普通に考えりゃ、その近くに、何かあるってことだ」
「富士山の近くに、登録されていないダンジョンが?」
早瀬さんが、ノートパソコンの地図を開いた。
山梨にも静岡にも、富士山のまわりにダンジョンは一つもない。
「十五年、誰も見つけていない入口があると思いますか」
「見つけてねえんじゃなくて、入口の形をしてねえのかもな」
熊谷さんは、それ以上は言わなかった。
隊長が、腕を組む。
「ダンジョンの外なら、組合は手を出せない。何が出ても、まずは見るだけだ。いいね、雨宮さん」
「はい。見たとおりに、書いてきます」
◇
夜の九時、全国版は、いつもの枠に戻っていた。
モニターの三つの窓は閉じて、日本の地図だけが映っている。
新宿第一の第二十一層は、今日の昼、救助隊が見回った。
霧は出ていない。気温は5度、湿度は八十八パーセント。
床の苔の芽は、昨日より少し増えて、針の先から米粒ほどになっていた。
「新しい層は、今日も穏やかでした。ただ、苔のない層は、まだ私たちの目では読めません。明日も、入る方は、明かりと帰り道の印を必ず持ってください」
"米粒になったのか"
"苔が育てば読めるようになる?"
"今日のお姉さん、声がちょっと明るくない?"
"気のせいだろ、いつもの天気予報の声だ"
私は、三つ目のコメントを見なかったことにした。
富士山のことは、まだ言わない。
見ていないものを、予報にはできない。
◇
その夜の全国版を終えて、アパートに帰ると、スマホが鳴った。
山梨の番号。水野さんだ。
「夜分に、すみません。一つ、言い忘れていました」
「はい」
「電話を切ってから、ずっと考えていたんです。どうして晴之さんは、ダンジョンもない富士吉田に、わざわざ一台送ったのか」
机の上の祖父の気圧計を見る。
針は、真ん中の赤い線のところで、静かに止まっている。
「小包を開けたとき、電話で礼を言いました。そうしたら、晴之さんが、こう言ったんです。十四年、意味が分からなかった」
水野さんの声が、少しだけ低くなった。
「この一台は、動かないための一台だ、と」




