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探索者事務所をクビになった気象予報士ですが、ダンジョンの天気予報配信がなぜか攻略組の命綱になっています  作者: ま
第四章 富士の足もと

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第32話 動かないための一台




 朝の七時、アパートの前に白いワゴンが止まった。

 神崎さんは、紺のシャツの上に、薄い上着を着ていた。



「おはようございます、しずくさん」


「おはようございます」



 今日は、缶のお茶は落とさなかった。

 膝の上には、祖父の気圧計を入れた布の袋を抱えている。


 中央道を、西へ。

 八王子を過ぎると、山が近くなる。

 トンネルを抜けるたびに、谷の霧が少しずつ薄くなっていった。



「放射冷却です。昨日の夜は風がなくて、よく冷えました。谷に溜まった冷たい空気が、霧になっています」


「十時には消えますか」


「九時には、消えます」



 神崎さんは、小さく笑った。

 車線を変える前に、鏡を二回見る。

 その横顔を見ていたら、名前を呼んでみたくなって、やめた。


 まだ、早い。

 何が早いのか、自分でもよく分からなかった。


 大月から、富士吉田線に入る。

 カーブを一つ曲がったとき、正面の空が、急に大きくなった。


 富士山だった。

 御殿場から見るのとは、裾の広がり方が違う。

 頭に、雲はかかっていない。

 笠雲のない、晴れの顔だ。




◇




 水野さんの家は、富士吉田の町の、坂の上にあった。

 古い平屋で、玄関の横に、鉢植えの南天が並んでいる。



「遠いところを、ようこそ」



 水野さんは、背の高い、痩せた人だった。

 白い髪を短く刈って、左足を少し引きずっている。

 電話の声より、ずっと穏やかな目をしていた。



「雨宮しずくです。祖父が、お世話になりました」


「お世話になったのは、私のほうです。晴之さんには、山頂で、何度も命を拾ってもらった」



 居間に通される。

 畳の部屋で、南の窓いっぱいに、富士山が映っていた。


 窓の横の柱に、それが掛かっていた。

 真鍮の丸い枠。白い文字盤。

 てっぺんの真ん中の目盛りに、筆で引いた、赤い短い線。


 私の膝の上のものと、同じだった。

 布の袋から祖父の気圧計を出して、並べて持ち上げる。

 二つの針は、どちらも、赤い線のところで止まっていた。



「十四年分です」



 水野さんが、座卓の上に、小さな手帳を積み上げた。

 どれも、同じ茶色の表紙だ。


 一冊目を開く。

 日付の横に、同じ言葉が、一行ずつ並んでいた。


 針、動かず。

 針、動かず。

 針、動かず。


 ページをめくっても、めくっても、同じだった。

 字だけが、少しずつ、年を取っていく。


 最後の一冊の、終わりのほうで、手が止まった。


 二十一時九分、針、右へ。


 その一行だけ、字が震えていた。




◇




「晴之さんの手紙です」



 水野さんが、封筒から便箋を一枚出した。

 祖父の字だった。



『水野君へ。この一台は、動かないための一台です。近くにダンジョンのない場所で、針が動かないことを、毎朝確かめてください。もし動いたら、富士の足もとを疑ってください』


「富士の足もと、が分からなかったんです。晴之さんに聞いても、動いたら分かる、としか言わなかった」



 私は、便箋を二回読んだ。

 それから、居間の針を見た。



「水野さん。祖父は、針を世界に六台送りました。五台は、昔の観測仲間に。たぶん、ダンジョンの近くで空を見ている人たちです。一台だけ、はっきりダンジョンのない富士吉田に」


「ええ」


「ダンジョンの近くの五台が動いても、それだけでは、針が正しいかどうか分かりません。ダンジョンのない場所の一台が動かなければ、針はダンジョンにしか反応しないと分かる。そういう一台です」


「対照、ですか」



 水野さんは、静かに言った。

 測候所にいた人の言葉だった。



「はい。でも、祖父はたぶん、それだけじゃなかった。十五年前の晩、山頂の気圧がいちばん先に上がったと、水野さんから聞いていたから」


「動けば、富士の近くに何かがある。動かなければ、何もない」


「祖父は、どちらでもいいように、ここに置いたんだと思います」



 十四年、針は動かなかった。

 何もない、という答えを、水野さんは毎朝、書き続けてくれた。


 そして、あの晩に、答えが変わった。




◇




 柱の時計が、十時を指す少し前だった。

 水野さんが、壁の針を見て、手帳を引き寄せた。



「あの晩から、毎日、これがあるんです」



 針が、ほんの少し、右へ寄った。

 髪の毛一本ぶんの、小さな揺れ。

 十時を過ぎると、ゆっくり、真ん中へ戻っていく。



「朝の十時と、夜の十時の前。一日に二回です」



 手帳をめくると、あの晩からのページに、同じ時刻が並んでいた。

 十時前、わずかに右。二十二時前、わずかに右。



「気圧の、日変化です」



 思わず、声が出た。



「地上の気圧は、一日に二回、朝と夜の十時ごろにいちばん高くなって、明け方と午後の四時ごろにいちばん低くなります。お日さまに温められた大気が、潮みたいに揺れるんです」


「ええ。測候所で、毎日見ていました」


「ダンジョンの中の針は、こんな動き方はしません。地上の気圧なんか、関係ないんです。でも、この針は、地上の空と一緒に揺れている」



 地上の空と一緒に息をする、何か。

 それが、この近くにある。


 水野さんが、壁から気圧計を外して、私に差し出した。



「持っていってください。どこへ行けばいいかは、針が教えてくれるでしょう」




◇




 午後、三人でワゴンに乗った。

 後ろの座席で、水野さんが自分の気圧計を膝に抱えている。

 私は、祖父のものを抱えた。


 地上の気圧は、十時を過ぎてから、ゆっくり下がっている。

 今度は、左へ寄るはずだ。


 富士吉田の町を出て、湖のほうへ走る。

 河口湖を過ぎたあたりで、二つの針が、そろって左へ震え始めた。



「さっきより、大きい」



 水野さんの声が、少し高くなった。


 国道を、さらに西へ。

 道の両側の木が、急に低く、暗くなる。

 苔に覆われた溶岩の上に、根を這わせた木が、どこまでも続いていた。


 青木ヶ原の、樹海だ。


 神崎さんが、道の脇の駐車場にワゴンを入れた。

 エンジンを止める。


 膝の上の針は、もう震えていなかった。

 左に寄ったまま、戻ってこない。


 ドアを開けると、空気がひやりとした。

 日なたの駐車場なのに、足もとから冷たいものが流れてくる。

 森の奥から、地面を這うように。



「風穴の風ですよ」



 水野さんが、杖をついて車を降りた。



「この樹海の下は、溶岩のトンネルだらけでね。ところどころに穴が開いていて、冷たい風が出たり入ったりする。昔から、風穴と呼んでいます」


「風が、出たり入ったり」


「外の気圧が上がれば吸って、下がれば吐く。地元の者は、山が息をしていると言います」



 私は、膝の上の針と、森の暗がりを見比べた。

 今は、地上の気圧が下がっている時間だ。

 そして、針は左に寄ったまま動かない。


 山が、息を吐いている。

 樹海に近づくほど、針の揺れは大きくなっていた。




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